第三話「疑心暗鬼」

「――ってことがあってさ、別府さんの会社で確認してもらってるんだ」

「タイヤに虫ピンとは、穏やかじゃないわね」

 一郎の言葉に、弥生が神妙に眉をひそめた。

 二人は今、病院内の例のカフェの、これまた一郎と木在が面会したのと同じ席にいた。この席を確保したのは弥生だ。もしかすると、あまり他の人に聞かれたくない話をしたいのかもしれない。

「原因、分かるといいわね」

「原因というか、犯人な。誰かが意図的にやらないと、ああはならないよ」

「……犯人、ね」

 弥生がそっと窓の外に目を移す。つられて一郎もそっちを見やるが、特に見るべきものはなかった。

 カフェの窓から見えるのは、病院の平面駐車場くらいしかない。雰囲気の良いカフェなのだが、その点だけは残念だった。

「それで弥生。話って? 何か、重要なことか?」

「えっ? ううん、違うの。さっきも言ったけど、軽い話でもって。一時退院の間、不自由はなかったかなとか、そういうことを訊こうと思っただけよ」

「あ、そうなんだ。ん~、『メッセー』でも送ったけど、特に変わったことはなかったぞ?」

 「メッセー」というのは、スマホ用のメッセージアプリのことだ。お互いの電話番号さえ知っていれば、SMSよりも長めのメッセージや独自の絵文字等を送り合うことが出来る。国内の老舗企業が提供しており、競合他社のアプリよりもセキュリティが優れている為、お堅い職業の人間でも利用出来ると、近年シェアを伸ばしていた。

 尤も、未だに二〇〇四年の常識が抜けきっていない一郎にしてみれば、それぞれのアプリの違いなどよく分からないのだが。

「ほら、やっぱり顔を突き合わせてみないと、伝わらないニュアンスってあるじゃない?」

 弥生が小首を傾げながら微笑む。

 ――四十路になってもなお、弥生の美しさは変わらない。だが、この美しさはもう他人のものなのだ。一郎は自分に言い聞かせるように、心の中に刻みなおす。

(まったく、未練だな)

 我ながら情けないと、一郎は思う。少し前までは、時折夢に見る若い頃の弥生の姿に恋焦がれていたのに、今はもう、歳を重ねた実物の彼女に未練を抱きそうになっている。

 一郎の精神は未だに二十代のままのはずだ。だが、昔読んだ何かの本で、「精神年齢は肉体に引っ張られる」と書いてあった記憶がある。もしかすると、一郎の精神も四十代の肉体に引っ張られ始めているのかもしれない。

「そういえば、椛田くんを家に呼んだんだって? 美佳ちゃん、怒ってなかった?」

「……怒るも何も、美佳とは全然連絡とってないからなぁ。まあ、『怒るかも』とは思ったけど、椛田は俺の友達だぜ? 家に行きたいって言われて、無下に断る理由がない」

「それは、そうなんだけど」

 何故だろうか、弥生はどこか奥歯にものが挟まったような言い方をしていた。まるで、椛田を一郎の家に招くことに、何か大きな問題があるとでも言いたげな。

「椛田と何かあったのか?」

「えっ!? ううん? 別に、何も。どうして?」

「いや、どうしてって……まあ、別にいいや」

 あからさまに怪しかったが、一郎は今はさておくことにした。弥生は昔から頑固というか、やけに口が堅いところがある。聞き出すのは無理だろう。

 一郎は少し話題を変えることにした。

「その椛田だけどさ、なんか最近、誰かにつけ狙われてるかもしれないって言っててさ」

「ええっ? それ、気のせいとかじゃなくて?」

「まあ、普通はそう思うよな。俺も最初はそう思ったよ。だけどな、あいつが俺の家に来てた時、チャイムが鳴ったんだよ。でも、インターホンのモニター見てみても、誰もいなくてさ。……ちょっと怖いだろ?」

「あの、け、警察、には?」

「もちろん、相談しておいたよ。それとなく気を付けてくれるってさ。後、中川先生にも一応報告しておいた」

 そこで一旦言葉を切り、一郎は少し冷めてしまったブラックコーヒーを口にした。――美味い。やはり自宅のコーヒーメーカで淹れたものとは、一味も二味も違う。豆の違いなのか、機械の違いなのか、腕の違いなのか。

 一方、目の前の弥生が飲んでいるのは紅茶だった。「そういえば、弥生は昔からコーヒーよりも紅茶派だったな」と、今更ながら思い出す。当たり前のこと過ぎると、逆に思い出さないこともあるらしい。

「でも……こう言ってはなんだけど、椛田くんを付け回すような人なんて、いるのかしら?」

「そりゃ、いるだろ。あいつの家、相変わらず羽振りが良いんだろ? ほら、俺らが若い頃もあったじゃん。『オヤジ狩り』って奴」

「……久しぶりに聞いたわね、その言葉。最近だと『闇バイト』からの強盗、というのはよく耳にするけど」

「闇バイト? なんだ、それ」

 初めて聞く言葉に、一郎が目をぱちくりする。

「知らないの? ニュースとかでもしょっちゅう出てくる言葉だけど」

「あいにくと、ここ二十年のことを覚えるのにいっぱいいっぱいなんで、ニュースはあまり見れてないんだ。新しい言葉ばっかりで頭がくらくらしてくるしな」

 一郎も最初の頃は頑張ったのだが、知らない言葉や意味が変わってしまった言葉がバンバン飛び出してきて、ストレスばかりが溜まるのが実情だった。

 「忖度」という言葉が全く違う意味で使われているのには驚いたし、バラエティ番組で芸人達が連呼している「えっぐ」という言葉の意味が全く理解出来なかった。

 椛田の勧めで動画サイトも見てみたのだが、どこの誰とも知れぬ素人が根拠不明な内容を語る動画ばかりが出てきて辟易して以来、開いてさえいない。

 どうやら、一郎が事故に遭う前には個人のWEBサイト等でやっていたような与太話が、動画に形を変えて生き残っているらしかった。

「そう……なんだ。あのね、闇バイトというのは、SNSとかで人を募集して、犯罪行為をさせるバイトのことなの」

「なんだそれ。バイトっていうかただの犯罪じゃん」

「うん。詐欺グループとかが普通のバイトを装って募集してるのね。それに世間知らずな人が応募して、身分証明書とか携帯電話を奪われて、無理矢理強盗やらされる……なんて話も多いみたい」

「酷い話だな……そういや、最近……じゃない、二〇〇四年辺りにも悪質な詐欺があったよな。『オレオレ詐欺』だっけ?」

「ええ。そのオレオレ詐欺グループが闇バイトにシフトしてる向きもあるらしいわよ」

「……警察は何やってんだ。ったく。あいつらやっぱり信用出来ないな」

 先日の木在の不躾な言動や、椛田から聞いた優子の事故についての話を思い出してしまい、一郎の中にやり場のない苛立ちが沸き起こった。

「警察が信用出来ない……? 何かあったの?」

「え、ほら。前に木在って刑事……いや、元刑事か。あれが俺を尋ねてきやがっただろ。あいつ、俺の事故のことであれこれ妄言垂れ流していきやがったんだよ。煙のない所に火を立たすっていうかさ」

「ああ、あの刑事さん。私も当時、あることないこと訊かれたっけ。……でも、一郎くんの事故は目撃者がいなかったんだから、事件の可能性がないか徹底的に調べるのは、当たり前のことじゃないの?」

「そうかぁ?」

 弥生も賛同してくれるものとばかり思っていたのが、少々違う反応が返ってきたので一郎は戸惑ってしまった。以前の口ぶりから、弥生は木在を快く思っていないと決めつけていたが、どうやら違うらしい。

「弥生だって、あのおっさんに不愉快なことを訊かれたんじゃないのか?」

「そうね。当時は『ふざけんな!』って思ったわ。でもね、あの刑事さん、それだけ仕事熱心だったのよ。確かにちょっと無神経ではあったけど、悪い人ではないと思う」

「やけにあのおっさんの肩を持つんだな」

「別にそんなつもりはないけど……。一郎くん、何をそんなに怒ってるの? 刑事さんに、そんな酷いことを言われたの?」

「それは――」

 『お前と椛田のことを容疑者みたいに扱われたんだから、怒って当然だろう』――そんな言葉が喉まで出かかって、引っ込む。よく考えなくても、恥ずかし過ぎる言い回しだ。青臭いと言ってもいい。

 どうも、一郎は目覚めて以降、感情の抑制が利きにくくなっている節があった。危うく病院のカフェでドラマの主人公さながらの「熱い」台詞を吐くところだった。

「……まあ。とにかく、木在のおっさんだけじゃなく、警察自体が信用出来ないってことだよ。疑うべきを疑わず、疑わなくてもいいことを疑う。酷い話さ」

 誤魔化すように、残りのコーヒーを一気に飲み干す。程よい酸味と強い苦みが、活を入れるように一郎の喉を刺激した。

 一方の弥生は、まるで痛ましいものを見るかのような表情で、そんな一郎の様子を見守っている。

「ねぇ、一郎くん。何か、あったの? あの刑事さんのことだけじゃなくて、警察に嫌な目にでも遭わされた?」

「別に……」

「病院ってね、警察とのやり取りも凄く多いのよ。顔見知りの刑事さんもいるし、警察とのトラブルを相談する窓口も知ってる。何かあったのなら、私に話して」

 弥生の瞳はどこまで真剣だった。そこに宿る光に、いつもの対等な関係というよりも、年長者が年下の相談に乗っているような、そんな雰囲気を一郎は感じてしまった。今の弥生にとって、一郎は庇護すべき存在なのかもしれない。

 だからなのか、気付けば一郎は、自然と口を開いていた。

「姉貴の事故ってさ、不審な点があったんだよな? 心療内科から処方された薬を飲んでたとかで、眠気を催して事故ったんじゃないかって」

「そうらしいわね。でも、いつも飲んでたお薬なんでしょ?」

「ああ。けどさ、警察は『いつもは眠気を催さなかったが、事故の時はたまたま眠気を催した』とか言ってるんだろ? そんな偶然、本当にあると思うか?」

「……お薬の副作用は、体調や精神状態、天候状況でも違いが出たりするわ。あり得ない話じゃないと思う」

 熟練の看護師だけあってか、弥生の答えは慎重だった。だが、慎重というのなら姉の優子も同じだったはずだ。

「なるほど、あり得ない訳じゃないってのは分かった。でもさ、あの姉貴が、そんな眠気を催すかもしれない薬を運転前に飲むと思うか?」

「それは……」

 弥生は優子とも長い付き合いだった。だから、優子の人となりはよく知っているはずだった。

「姉貴は薬の注意書きとかそういうものは、律儀に守る人だった。弥生だって、知ってるよな?」

「それは……そうね。優子さんなら、そうするかもしれない」

「だろ? だからさ、姉貴の事故はおかしいんだよ。そもそも――」

「ちょっと待って、一郎くん。ストップ!」

 一郎の言葉を遮るように、弥生が手を握ってくる。その瞳はまっすぐに一郎のそれへと向けられ、まるで射貫くかのようだ。あまりの迫力に、一郎は反射的に口を閉じていた。

「一郎くん、その話って、自分で思い付いたの?」

「えっ?」

「だから、優子さんの事故に不審な点があるんじゃないかって話」

「ああ、いや。これは……」

「誰かにそう吹き込まれたんじゃないの?」

「……実は、その」

「その?」

「椛田が言ってたんだ」

「――そう」

 椛田の名を聞くと、弥生は一郎の手を放し、天を仰ぐような姿勢で大きく深いため息を吐いた。気のせいか、その肩が僅かに震えているようにも見える。

「弥生?」

「あのね、一郎くん。椛田くんの言うことは、あまり真に受けない方がいいと思うわ」

「……えっ?」

 一郎は自分の耳を疑った。弥生は今、椛田のことを「信用出来ない」と言ったのだ。長い付き合いである、あの椛田を。

「何言ってんだ弥生。確かに椛田は適当なところもあるけど、誠実なやつだぞ? お前、あいつが俺にあることないこと吹き込んでるとでも言いたいのか?」

 思わず声を荒らげてしまう。一郎にとって、弥生と椛田は信頼がおける数少ない人間だ。その一方がもう一方を悪く言うなど、思いもしないことだった。

「そこまでは言ってないけど……でもね、一郎くん。優子さんが椛田くんと離婚した理由、知らないでしょう?」

「……詳しくは聞いてないが、椛田は『自分が支えきれなかったから』って言ってたぞ。違うのか?」

 そう。椛田は確か、以前こう言っていた。『ご両親が亡くなって、優子さんはずっと一人で一郎と美佳のお世話をしてきたんだ。結婚した前後の数年は、僕も手伝ってたけどね。残念ながら足を引っ張るばかりで、だから三下り半を突き付けられたんだけど――』と。

「そうね。申し訳ないけど、優子さんから見た椛田くんは、もたもたオロオロすることの多い人に見えたと思う」

 椛田は決して器用な男ではない。だから、優子のようにきびきびと器用に立ち回れる人間からすれば、かなり鈍く見えたであろうことは想像に難くなかった。

「でもね、離婚した本当の原因は……ごめんなさい。私、ベラベラと他人様のことを」

 弥生は突然はっとしたようになると、謝り、話を止めてしまった。興奮気味の一郎につられて、いらぬことまで口走ってしまったといった風だ。

「おいおい、ここまで来て黙るなよ。俺は姉貴の弟だし、弥生だって姉貴と仲良かったろ? 全然他人事じゃないさ」

「そう……かな。私、優子さんはとは仲良くしてもらったけど、信用はされてなかったみたいだから」

「えっ?」

「ごめん、もう仕事に戻る時間だわ。――この話の続きは、また今度ね」

「おい、弥生!?」

 引き止める間もなく、弥生はテキパキとテーブルの上を片付けると、カフェから出て行ってしまった。後に残されたのは、一郎とハーキュリー1のみ。

「なんなんだよ、もう……」

 そんな一郎のつぶやきは、カフェのBGMにかき消され、誰にも伝わらなかった。


   ***


 約一週間の短期入院を終え、一郎は救世山総合病院を後にした。

 月は替わり、既に十一月。秋を通り越して冬の気配が近付いてきたのか、外は少し肌寒かった。

 一郎はなんとなくバスに乗る気になれず、徒歩――というかハーキュリー1に乗ってゆっくりと帰ることにした。

 病院前の長い下り坂をとぼとぼと進んでいく。歩道には少し気の早い落ち葉がちらほらと落ちていて、街路樹もどこか元気がない。これから寒い冬がやってくるのだな、という雰囲気が感じられた。

 一郎の住むマンションは、病院と市街地との中間地点くらいにある。病院前の坂を下りきるとそのまままっすぐは進まず、左手に折れ、再び緩やかな坂道を登っていく。

 元々、この辺りは「救世山」と呼ばれた小山であり、それを切り開いて病院や住宅街が作られている。その為、あちこち坂道だらけなのだ。

 その住宅街には、そこかしこに長い階段が設けられている。徒歩の場合、道路よりもショートカットしてより高い区画へ向かうことが出来るようになっている訳だ。だが、その階段は傾斜がきつく、ハーキュリー1で上るには少し不安がある。遠回りにはなるが、一郎は仕方なく緩やかなカーブと傾斜が続く上り坂を、独り寂しくハーキュリー1で上がっていった。

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