第二話「傷跡」

 十月下旬、一郎は自宅から救世山総合病院へと舞い戻っていた。具合が悪くなった訳ではなく、元々予定されていた短期入院の為だ。しばらくは様子を見ながら、一時退院と短期入院を繰り返す形になるらしい。

 検診や問診、いつより時間をかけたリハビリ、ハーキュリー1についてのレポート提出等々。自宅にいるよりもだいぶ忙しい毎日が一郎を待っていた。

「はいっ! いいですよ~小山内さん! だいぶ歩けるようになりましたね!」

 顔なじみの理学療法士である和氣に励まされながらの歩行訓練は、以前よりも苦ではなくなっていた。相変わらず両脚はまともに踏ん張りが利かず、理学療法士と歩行器による支えがなければたちまち転倒してしまうし、筋肉と骨と筋が激しい痛みを訴えている。

 だが、一時退院により社会的な生活を一部取り戻したことで、一郎の中には社会復帰への強い意欲が生まれつつあったのだ。

 それに加えて――。

(椛田をつけ狙っている奴……もしかしたら姉貴の仇かもしれない奴がどこかにいるんだ。腐ってなんていられない)

 「敵」の存在は、時に無気力になっていた人間に活力を与えるという。今の一郎がまさにそれだった。二十年という時間を、家族を――姉を失った苦しみと悲しみを、仮令一部であってもぶつけられる相手がいる。そのことが、一郎に仄昏い前向きさを与えていた。

「はいっ、では今日はここまでにしましょう。それにしても小山内さん、本当に見違えるように良くなりましたね。何か、ありましたか?」

 和氣が、看護師と協力して一郎の身体をハーキュリー1へ戻しながら尋ねてくる。

「そんなに変わりましたか? 自分では、以前とあまり変わってない気がするんですが」

「それはもう。確かに、足の踏ん張りとかそういうものが劇的に変わった訳じゃないですけど……モチベーションが段違いですよ。『意地でもゴールまで辿り着いてやるぞ!』って気概を感じます」

 和氣の言葉に、一郎は少しだけドキリとした。まるで内面を見透かされているようだ。患者との触れ合いが多い理学療法士ならではの、観察眼の鋭さのようなものがあるのだろうか。

 一郎は「ははっ」等と愛想笑いを返しながら、お茶を濁すことにした。

 ――と、その時。

「失礼します。小山内さんは……ああ、いたいた」

「や……代田さん、ご無沙汰してます」

 看護師長・代田こと弥生がリハビリ室にやってきた。どうやら一郎を探していたようだ。

「ご無沙汰です。小山内さん、この後はプロメテウス社の別府社長と面談ですよね?」

「その予定です」

「急遽で悪いんですが、その後、私とも面談お願い出来ますか? と言っても軽い話題ですから、カフェとかでもいいんですが」

「問題ないですよ。じゃあ、別府さんとの話が終わったら、ナースステーションをお訪ねすればいいですか?」

「ええ。私が席を外していても連絡がつくよう、他の者にも言付けしておきますから、それでお願いします」

 人前なので、弥生とはあくまでも他人行儀に接する。とはいえ、看護師達には「この二人、何かある」と思われている節があるので、上手く隠せているとも思えないのだが。


   ***


「どうも。ご無沙汰しています、小山内さん」

「ご無沙汰って、この前もビデオ通話したじゃないですか」

「やはり顔を直接会わせてこそ、ですから。私共のビジネスは、生身の人間が相手ですので」

 久しぶりに会った生身の別府リチャードは、やはり無表情で無感情な男だった。だが、言っていることはまるで人情家のようでもあるので、そのギャップが一郎にはどこか愉快に感じられた。

 今二人がいるのは、初めて会った時にも使ったあの会議室だ。一郎もハーキュリー1から普通の車椅子に乗り換えているので、なんとなくあの時のことを思い出してしまう。

 二人の傍らでは、プロメテウス社の開発スタッフがハーキュリー1のメンテナンスを行っている。ハーキュリー1の車体データは、リアルタイムにサポートセンターに送られている。その為、日々のメンテナンスは基本的に必要ない。

 ただ、センサーでは分からない細かい疲労や不具合があるのも常だ。その為、定期的に専門スタッフによる直接のメンテナンスが行われているのだ。

「如何ですか、弊社のハーキュリー1は」

「週一のヒアリングでも言いましたが、すこぶる快調ですよ。欠点とか思い付きません」

「それは嬉しいお言葉です。ですが、細かいことでも結構ですので、何かお気付きの点があれば遠慮なくおっしゃってください」

「心得てます」

 正直なところを言えば、一郎としては週一回のヒアリングで言いたいことを言っているので、直接顔を突き合わせたところで話す内容が思い付かなかった。更に言えば、奇麗所の南と会えるかもといった仄かな下心も打ち砕かれてしまったので、どうにもやる気が出ない。

「しかし……ビデオ通話はまだ分かるんですが、こういった打ち合わせにも社長さん自ら来るものなんですね」

「何分、弊社は少数精鋭ですので。従業員の殆どは技術要員ですし、営業的なものは社長の私がやるしかないんですよ」

 暗に「南は来ないのか」という意味を含めた質問だったのだが、別府は律儀に答えてくれた。一郎は、少しだけ自分を恥じた。

 その時だった。

「あっ」

 ハーキュリー1のメンテナンスをしていたスタッフの一人が、そんな声を上げた。

「どうかしましたか?」

「いえ、社長。これ、見てくださいよ」

 スタッフが別府を手招きする。なんだなんだと別府が立ち上がり、ハーキュリー1の方へ向かう。

「ほら、ここ……このタイヤ」

「ほう。これはこれは」

「えっ、なんですなんです?」

 一郎を除く三人が、ハーキュリー1のタイヤの辺りを覗き込んで、何やら相談し始めた。なんとなく疎外感を覚える一郎だったが、専門的な話をしているのかもしれないと思い、口をつぐんでしまう。一郎には、昔からこういうところがあった。

 ややあって、別府が立ち上がる。別府はそのまま一郎のところまでやってくると、「こちらを」と言いながらスマホの画面を見せてきた。

 画面には、ハーキュリー1のタイヤの一つが大写しになっている。一見何の変哲もないタイヤの写真だが、一郎はすぐに異変に気付いた。

「あれ、ここ。タイヤの真ん中に何かくっついてますね」

 一郎の言う通り、タイヤのちょうど真ん中あたりに、何か鈍く銀色に光るものが見て取れた。丸型の鋲のようにも見えるが――。

「なんですか、これ」

「こちらです」

 別府が手の平を差し出す。そこには、一本の細いピン――虫ピンのようなものが乗っていた。つまり、これがタイヤに刺さっていたらしい。

「ありゃ、こんなの刺さってたんですか?」

「ええ。お気付きには?」

「気付いてたら報告しますよ。それで、あの。パンクとかしちゃってました?」

「いえ。ハーキュリー1のタイヤはパンクレスタイヤですので、その点は大丈夫です。けれど……」

 別府が珍しく何かを言い淀む。顔は変わらず無表情だが、それでも逡巡していることは伝わってきた。

「けれど、なんです?」

「はい。この手のピンは、タイヤに刺さるにしてももっとこう、角度がついたり、ピンが折れ曲がっていたりするものかと思うのですが……このピンは、ご覧の通り奇麗なものです。しかも、タイヤの中央にまっすぐに刺さっていました」

「はあ。つまり?」

「つまり……である可能性があります」

「……なんですって? つまり、誰かのいたずらだと?」

「ええ。念の為、直近のドライブレコーダーの映像を調べてみますが、よろしいですか?」

 ハーキュリー1のドライブレコーダーの映像は基本的にAIの解析に回される為、普段は人間の目に触れることはない。だが、利用者の許可さえあれば、プロメテウス社側スタッフが閲覧出来る契約になっている。

「分かりました。ええと……確かスマホのメニューから……」

 一郎がハーキュリー1の管理用スマホを取り出し、アプリを起動する。

「ええと……ここからどうするんでしたっけ?」

「まず、こちらから録画した動画の閲覧申請を出します。そうすると小山内さんの端末に可否を訪ねるダイアログが出ますので、『許可』ボタンを押してください」

「分かりました」

 別府が自らのスマホを操作すると、一郎のスマホ上に「管理者1(別府)さんから、ドライブレコーダー記録の閲覧申請が届きました。許可しますか?」というダイアログが表示された。一郎は別府に向かって頷くと、「許可」ボタンを押した。

「ありがとうございます。社の方で確認させます。――ああ、ちなみに既に説明していると思いますが、ご自宅や病院内ではドライブレコーダーがオフになっているので、ご安心を」

「あ、そうでしたね。まあ、観られて困る場面なんて……ああ、トイレとか、流石に恥ずかしいですね」

 一郎と開発スタッフの口から、思わず失笑が漏れる。けれども別府は、「仰る通りです。製品化の前にプライベート保護機能はもう少し堅固にしておきたいところですね」と、仏頂面のまま言うだけだった――。

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