第三章「疑念」

第一話「共同戦線」

 一郎が木在の訪問を受けてから数日後、今度は椛田から「そちらにお邪魔したい」と連絡があった。一郎の脳裏にしかめっ面の美佳が一瞬だけ浮かんだが、一郎は椛田の申し出を快諾した。木在のこともあって、今は誰かに愚痴を言いたい気分だった。

「いやあ。こっちの家にお邪魔するのは、初めてだなぁ」

 エントランスまで出迎えると、椛田は借りてきた猫のように辺りをキョロキョロと眺めていた。姉の優子の元配偶者なのだから、「実家」にあたるこのマンションにも足を運んでいてもいいはずだが――一郎は深く追及しなかった。なんとなく、藪蛇だと感じたのだ。

 部屋に移動してから、一郎は椛田にコーヒーをふるまった。コーヒーメーカーで淹れただけだが、椛田は「おいしい、おいしい」と実に美味そうに飲んでくれた。裕福な家の生まれのわりに、椛田は安っぽいコーヒーでも喜んでくれるので、気が楽な相手だった。

「ええっ⁉ そんなこと言われたのかい? 心外だなぁ」

 その後、木在に言われたことをかいつまんで伝えると、椛田はひどく憤慨してみせた。一郎の事故原因にされた挙句、隠ぺいまで疑われていたのだから、ごくごく当たり前の反応だろう。

 そういえば、木在の件を連絡してきた時の弥生も、どこか不審そうな感じだった。もしかすると、以前にどこかで、木在から似たようなことを詰問されたのかもしれない。

「まったく、警察ってやつは。不審なことは調べてくれないのに、何でもないことは疑ってかかって根掘り葉掘り重箱の隅をほじくるみたいにネチネチネチネチ追及してきて。――優子さんの件だってさ」

「姉貴の件がなんだって?」

「あっ」

 一郎に尋ねられてから、そこでようやく椛田は「しまった」とでも言いたげな表情を見せた。どうやら何か、余計なことを言ってしまったらしい。

「な、なんでもないよ?」

「……椛田、目が泳いでるぞ。姉貴のことで、何かあったのか?」

 凄むわけでもなく、何でもないことのように尋ねる一郎。椛田はストレスに弱い男なので、あまりきつい訊き方をすると、へそを曲げてしまうのだ。

 その椛田は、明後日の方向を向いて一郎と目を合わせようとしない。既に額には滝のような汗をかいていて、一郎は「アイスコーヒーにしてやればよかった」等と、益体もないことを思ってしまった。

 ――ややあって、椛田は一郎の無言の促しに観念したのか、ぽつりぽつりと話始めた。

「優子さんの事故について、警察は不審点はないって言ってるって、前に話したよね?」

「ああ。お前もそれで納得した、とも聞いたな」

「うん。でも、ごめんね一郎。あれは、半分は嘘なんだ」

「半分は?」

「うん。僕はね、今でも優子さんの件はただの事故じゃないんじゃ? って、少し疑ってるんだ――だって、そうでしょ? 『普段は眠気を催さなかった薬が、その日はたまたま効いてしまった』なんて説明、納得なんて出来る訳がないよ!」

 ドン! と、椛田が力強くテーブルを叩く。感情が昂った時に、物に強く当たってしまうのは、学生時代からの椛田の悪い癖の一つだ。どうやら直っていなかったらしい。

「でも、お前。前は『自分でも調べてみたけど不審な点はなかった』って言ってなかったか?」

「うん、ごめん。一郎はまだ目覚めたばっかりだったから、不用意なことを言って心労を増やしたくなかったんだ。――一郎、僕はね。優子さんの死には、他の誰かが関わってるんじゃないかって、疑ってるんだよ」

「……事故に見せかけた他殺だって言いたいのか」

「そこまで……ではないけど。そもそも、あの慎重な優子さんが運転前に眠気を催す薬を飲むはずがないと思わない?」

「でも、それは『普段は眠気を催さなかった』って警察が言ってたんだろ?」

「そこだよ。警察は優子さんが普段、どんな時にその薬を飲んでたかなんて、知りもしないんだよ」

 そこまで言い切ってから、椛田はぬるくなったコーヒーの残りを一気に呷ると、「おかわり!」とカップを突き出してきた。こういう遠慮がないところも、椛田の昔からの悪癖の一つだ。人によっては愛嬌と受け取るのだろうが。

 一郎は苦笑いしつつも、コーヒーメーカーにセットしてあった保温ポットを引き出し、残りのコーヒーを注いでやった。

「……ありがとう。ええと、どこまで話したっけ?」

「警察は、姉貴が普段、例の薬をいつ飲んでたかなんて知らないって辺り」

「ああ、そうそう。――優子さんはね、僕と暮らしていた時も、心療内科に通っていることと薬を処方されてることは教えてくれた。けど、僕の目の前で薬を飲んだりはしなかったのさ。もちろん、美佳の前では、絶対に飲まなかった。心配をかけたくなかったんだね」

「……なるほど。姉貴は心療内科で処方された薬を人前では飲まなかった。だったら、姉貴が普段、どんな時にその薬を飲んでいたのかなんて、誰も知らないわけだ」

「そういうこと。用法では毎食後ってなってたと思うけど、『運転や機械の操作の前はお避け下さい』って、お決まりの注意事項がある薬だからね。当然、優子さんならそういう時は服薬時間をずらしていたと考えた方が自然だよ。一郎もそう思わない?」

 椛田の言葉に、一郎は深く頷いた。医者の娘ということもあるが、姉の優子は几帳面で、決まりごとはしっかり守るし、予断で行動したりしない。眠気を催す薬を運転前に飲むような真似は、考えにくかった。

「でも、そうなると逆に、姉貴はなんで運転前に薬を飲んだんだ? って話になるな――そうか、それで『他の誰かが関わってるんじゃないか』って話になるのか」

「うん」

「けど、誰が……? 姉貴は何か、他人に一服盛られるようなことをしたのか?」

「まさか! あの優子さんが他人から恨まれるなんて、考えられないよ。うん、でもね一郎。世間には、たまに信じられないようなことをする人もいるから」

「信じられないようなこと?」

「うん。ええと……ああ、これこれ」

 椛田が何やらスマホをいじってから、画面を一郎の方に向けてきた。そこに表示されていたのは、大手新聞社のWEB記事だった。

「なになに……同僚の飲み物に睡眠導入剤を混入させた男が殺人未遂の疑いで逮捕……? なんだ、こりゃ」

「数年前の事件さ。この犯人の男はね、オフィスで同僚が席を外した隙に、その人の飲み物に砕いた睡眠導入剤を入れるっていう、おかしな行為を繰り返していたんだって」

「……何の為にそんなことするんだ」

「その同僚は車通勤だったらしいんだ。だから、就業間近の時間帯に薬を盛れば、帰りの車の中で眠気を催して……」

「事故るって寸法か」

「そう。しかも怖いのがね、この犯人は別に、同僚の人達に何か恨みがあった訳じゃないんだって」

「はぁ? じゃあ、なんでそんな物騒なことを」

「ただ単に、『自分の仕業で誰かが命を落としたり怪我をしたりするのが楽しかった』んだってさ」

「完全に危ないやつじゃないか!」

 一郎は思わず身震いした。それではまるで、学生時代に読んだ小説にあった「快楽殺人者」そのものだ。

「うん。明確な恨みもなく、ただ殺したいから殺す……世の中には、そんな人間もいるんだ」

「姉貴の周りにそういう輩がいたっていうのか?」

「あくまで可能性の一つだけどね。実はずっと、当時優子さんの周りにいた連中に探りを入れてるんだ。今のところ怪しい奴は見付からないけど、なんとなく違和感みたいなものは感じてるんだ」

「違和感?」

「誰かに見られているっていうのかな? 優子さんのことで探りを入れていると、なんとなく視線を感じたりすることがあるんだよ」

「それは……お前の勘違いとかではなく?」

「もちろん、気のせいって線もある。でも、ここのところ似たような車が僕の車の後ろをよく走ってたり、家から出る時に前は会わなかった犬の散歩の人に挨拶されたりすることが、ある気がするんだ」

「お前、それは違和感とかじゃなくて、本当につけ狙われてるんじゃないのか?」

 一郎が言った、その時だった。

 ――ピンポーン

 突然、インターホンの音がリビングに響いた。そのせいで、一郎と椛田は共に「ヒッ!?」等と情けない悲鳴を上げてしまった。

「……誰だよ、酷いタイミングでインターホンを押した奴は。ごめん、ちょっと出てみるわ」

 椛田に断りを入れてから、リビングの入り口にあるインターホンのモニターへと向かう。このマンションは、エントランスに共用のカメラ付きインターホンがあり、部屋番号を押すと各部屋に繋がり通話が出来る仕組みだ。

 もちろん、応答せずにエントランスの映像と音だけを一方的に見ることも出来る。一郎はまずは応答せず、映像と音だけを確認したのだが――そこには誰もいなかった。

「あれ? なんだよ、ピンポンダッシュか?」

「どうしたの? 一郎」

「エントランスの映像を見ても、誰もいないんだよ。イタズラか、部屋番号間違えて慌てて逃げたか、どっちかだろ」

「……そう、かな?」

「はっ?」

 見れば、椛田の顔色は真っ白で、先ほどよりも大量の汗をかいていた。尋常な様子ではない。

「今、一郎も言ったじゃないか。僕、本当に誰かにつけられてるのかもしれない」

「……考えすぎ、って考えるのは、流石に平和ボケか」

 一郎もようやく事態の深刻さに気付き、青ざめる。

 もし、椛田をつけ狙う何者かがインターホンを押したのなら、その何者かは、椛田が訪れているのが一郎の部屋であることを把握していることになる。インターホンは、正確に部屋番号を押さなければ通じないのだ。

「椛田。一応、警察に相談……というか通報しておいた方がいいな、これ」

「そうだね。悪いけど、一郎お願い出来る? 住民からの通報の方が、動いてくれると思うから。それと……」

「それと?」

「この事は、美佳には黙っていてくれないか? 優子さんの件も含めて。心配、かけたくないんだ」

「分かった。でも、俺の部屋番号まで把握されてるってことは、美佳の住まいだって知られてる可能性がある。俺から中川先生に、それとなく気を付けるよう伝えておく。いいか?」

「うん。ごめんね、一郎。なんか迷惑かけちゃって」

「迷惑なもんか。もし本当に姉貴の件で誰かが何か良からぬことを企んでるんだとしたら、俺にとっては他人事じゃない」

 ――そう。もし、椛田の懸念通り、優子の死が何者かによって引き起こされたものならば、放ってはおけない。その何者かが椛田のことをつけ狙い、一郎や美佳にまで良からぬことをしようと考えているのなら、迎え撃たなければならない。

「椛田。今後はもう少し頻繁に連絡を取り合おう」

「うん。共同戦線、だね」

 暗い雰囲気を吹き飛ばすように、笑いあう一郎と椛田。その姿はまるで、若い頃の二人に戻ったかのようだった。

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