第四話「訪問者」
『それでは、今のところ何か不都合等はないのですね?』
「はい。とても快適に過ごさせてもらってますよ。データとしてはあまり役に立ってないかもですが」
『とんでもない。快適に使用出来ている事実が、既に重要なフィードバックですので』
愛想笑いの一つもせず、画面の向こうの別府が答える。相変わらずの無表情だ。
――一郎が「自宅」に一時帰宅してから、数日が過ぎていた。車椅子での生活を考慮して改装されたこの部屋は快適そのもので、病院にいた頃と変わらぬ生活の質を保てていた。
特に有難かったのが、トイレだろうか。間口と室内が広く作られていて、更には数種類の手すりが設置されているので、車椅子から便座への移動が非常に楽なのだ。
加えて、繊細な動きも実現してくれるハーキュリー1の活躍も目覚ましい。初日こそ少し危なっかしかったが、翌日にはすっかりマンション内での走行にも慣れ、昨日は近所を散策までしていた。
今日はその、ハーキュリー1に関する週に一回のミーティング日だった。毎週、社長の別府自ら一郎からのヒアリングを行い、ハーキュリー1の機能改善についての連絡を行っているのだ。ご苦労なことだと思う。流石に直接会うのではなく、ビデオ通話経由だが。
『では、また一週間後に。時刻の変更等がある場合は、早めにご連絡いたします』
別府との無味乾燥なミーティングを終え、一郎は大きくため息を吐いた。悪人ではないのだろうが、別府にはどうにも人間らしい感情を感じなかった。生真面目にも程があり、話していて息が詰まる。せめて南が相手なら、もっと楽しめるのだろうが――。
「おっと、そういうのは今はセクハラになるのか?」
苦笑しながら独り言ちるが、当然答える者はない。3LDKの広い部屋に、一郎は独りだった。
先日などは、弥生が非番の日を使ってまで荷物の整理を手伝いに来てくれていた。その時はとても賑やかだったが、彼女はそれ以来姿を見せていない。この部屋にいた間、彼女のスマホが度々振動していたのは、恐らく夫である代田からのメッセージ連投だったのだろう。無論、代田の気持ちも分からないでもないのだが。
「……さて、今日も片付けの続きをするか」
大きく伸びをしながら、一郎は再び独り言を呟く。人間、一人でいると独り言が増えてしまうものらしい。
病院から届いた荷物や当面の食料品、ハーキュリー1の充電器等の整理は既につけてある。問題は、元々この家にあったものの整理だ。
両親が使っていた部屋は、母が亡くなった時からほぼ手つかず。一郎の部屋も、ベッドの周囲だけは片付いているのだが、部屋の片隅にはダンボールの山が積まれている。元々住んでいた家にあった、一郎の私物が収められているのだ。これは、一人ではどうしようもない。
もう一つの部屋は、優子や美佳が遊びに来た時用の部屋だったらしく、二段ベッドと小さな鏡台が置かれているだけなので、整理する必要はない。問題は、物置として使われている納戸だった。そこには、旧小山内邸から運び込まれたものが、雑多に放置されていた。
思い出のアルバムや古い家電。父が使っていた医学書に、優子と一郎の学生時代の成績表や卒業アルバム、エトセトラ、エトセトラ……。
いずれも思い入れのある品物だが、未だ自立歩行も出来ない一郎にとっては、悩みの種だった。当面の間は、持ち運べるものだけコツコツと片付けていく他ない。物持ちが良いのも考えものだった。
「誰かに手伝ってもらうかな? 美佳……は無理だろうし、弥生……は代田が怒りそうだし。椛田……は美佳が怒りそうだよな。仲悪そうだし」
片付け代行サービスを使う手も考えたのだが、出来ればあまりお金は使いたくなかった。まだ両親が遺してくれた遺産や各種保険金的なものはかなりの額が残っており、中川が適切に管理してくれている。けれども、今の一郎はリハビリ中であり無収入だ。働いていた時の貯金も残っているのだが、そちらは雀の涙であり、数年間の生活費で消える程度しかない。国や自治体の支援制度というものもあるようだが、どれも必要最低限であり、無駄遣いは許されなかった。
(さて、どうしたものか?)
今度は声に出さず、一郎がハーキュリー1を無駄にグルグル回転させながら考えていた、その時。
「おっ? 電話だ……弥生から?」
中川が仕入れてくれたスマホに着信があり、画面を見ると「篠原 弥生」と表示されていた。旧姓のままなのには他意はなく、昔の電話帳データから更新していないだけだ。
「もしもし?」
『あ、一郎くん? 今、電話大丈夫だった?』
「ああ、家でグルグルしていたところ」
『グルグル? ゴロゴロじゃなくて? ……って、そうじゃなくて。あのね、病院にね、一郎くんに会いたいって人が来ててね』
「え、誰?」
『一郎くんは知らない人よ。と言っても、私も知り合いって訳じゃないんだけど……あのね、刑事さんなの』
「刑事ぃ!? そんな物騒な人間が、なんで俺に?」
『山梨県警の刑事さんでね、その……一郎くんの事故の時に、捜査に当たってくれた人なのよ』
「はっ? ……ああ、なるほど。俺が川に落ちて頭打ったっていう、例の。でも、今更なんで? 二十年も前の事故について何か訊きたいことでもあるんかね?」
『さあ……。「本人と話したい」の一点張りで、私も教えてもらえなかったの。どうする? 会ってみる? 令状とかある訳じゃないから、適当に追い返すことも出来るけど』
弥生の声には、どこか乗り気ではない様子が感じられた。事故と、この二十年間のことを思い出してしまったのかもしれない。
「……いや、折角だから会ってみるよ。考えたら俺、自分のことなのに何も知らないし」
『そう……。あの、私も同席しようか?』
「いいよいいよ、子どもじゃないんだし。病院の中にカフェがあったろ? あそこで待っててくれるように伝えてもらえる? 俺もすぐに出るから」
『一郎くんがそう言うなら……気を付けてね?』
通話を終えると、一郎は天を仰ぐように天井に目を向けた。正直言えば、不安はある。弥生には一緒にいてほしかったが、もし代田に知られたらまた悋気を起こされるかもしれず、面倒くさかったのだ。
***
「やあやあ、どうも初めまして。
数十分後。救世山総合病院のカフェを訪れた一郎を出迎えたのは、「いかにも」といった風情の男だった。
年の頃は六十絡み、角刈りのごま塩頭の下には日に焼けたしかめっつらが鎮座している。マスクで隠れてはいるが、おそらく口元もキュッと閉じた頑固そうなものだろう。
身長は低いが筋肉も脂肪もボリューミーで、一郎の頭の中に「豆タンク」という単語が浮かんだ。名刺を差し出してきた毛深い腕も、丸太か何かのようだ。
「これはどうもご丁寧に……?」
名刺を受け取りつつそれに目を落として、一郎は心の中で首を傾げた。刑事という話だったが、名刺には「犀川警備保障」という警備会社の名前が書いてある。
「刑事さん、というお話でしたが?」
「やあ、これは失礼。正確には元刑事でして。今は地元の警備会社で、現場要員兼指導員のようなことをやってるんですよ」
木在は笑顔を浮かべながら答えたが、強面なので鬼瓦にしか見えない。
「へえ、警察のOBの方は警備会社に再就職するっていいますけど、本当なんですね」
「皆が皆、そういう訳ではないんですがね。肉体労働を避けてデスクワークに行く奴もいますよ――おっと、小山内さん何か飲まれますか? おごりますよ。こういうのも、退官したからこそ出来るやりとりです、あははっ」
「ああいえ、さっきコーヒー買ったんで、おかまいなく」
言いながら、一郎はハーキュリー1の手すりの辺りを指さす。今そこには、普段は付けていないオプション装備のドリンクホルダーと、そこにぴったりおさまったカップコーヒーの姿があった。木在の姿を探す前に、レジで買っておいた物だ。
「やあ、これは見落としていました。……ええ、ええ。私の刑事人生と同じかもしれませんね」
「はい?」
「こちらの話です。……無駄話が過ぎましたね。折角おいでいただいたんだ。早速本題に入りましょうか」
木在がキョロキョロと辺りを窺うような仕草をする。このカフェは病院の一角にあるとは思えない程に広く、客席同士の距離も空いている。加えて、木在が陣取っていたのは他の客席から少し離れた所にある窓際の席だった。もしかすると、内密の話をしたいのかもしれなかった。
「お話というのはやっぱり、二十年前の事故のことですか?」
「ええ、お察しの通りです。当時私は、県警勤めでしてね。小山内さんの事故の件を担当しました。と言っても急遽のヘルプだったんで、現場責任者は他の者だったんですがね」
そこで木在は一度言葉を切ると、マスクを顎までずらしてコーヒーを一口すすり、律儀にマスクを元に戻した。チラリと覗いた口元は、一郎の想像通りのものだった。
「小山内さんの件は当初、事件と事故の両面から捜査が進んでいました」
「事件? 何か不審な点でもあったんですか」
「いやいや、何せ目撃者がいなかったものでね。警察としては軽々に判断しないってだけのことです。私が捜査に加わった時点では、既に事故の方向で処理が進んでいました」
「はあ」
一郎は思わず生返事をしてしまった。木在の話には、特に目新しさはない。わざわざ山梨くんだりから一郎を訪ねてまでする話だろうか、と思ったのだ。
「河原には小山内さんが川へ滑り落ちたらしき痕跡がありましたし、軽く飲酒もしていたようなので、まっ、自然な結論ですね――その辺り、ご記憶は?」
「いえ、残念ながら、当時のことは全く覚えてないんですよ」
「そうですか……。あわよくば、と思ったのですが」
「あの、木在さん。お話というのは、俺に事故当時の記憶があるかの確認なんですか? だったら別に、直接おいでにならなくても、手紙とか電話とか――」
「私はね、今でも少し疑ってるんですよ。『あれは本当に事故だったのか?』ってね」
「えっ?」
一郎の言葉を遮った木在のそれは、どこか独り言のようだった。その視線は一郎にではなく、窓の外の景色に向けられている。まるで、ここではない何処かを見つめているかのように。
「そもそもですよ? 当時あの川は流れが速く、河原への立ち入りも推奨されていなかった。そんな所に、ほろ酔いでちょいと散歩に……なんて行く人がいますか? どうです、小山内さん。貴方はそんな趣味をお持ちですか?」
「え、ええと……いえ。酒はそんなに強くないので、酔った状態で危ない場所には近付きませんね」
「でしょう? 他の連中は貴方の自殺説まで唱えてましたが、私が見たところ、小山内さんはそんな人ではない。……まっ、これはただの私の勘ですがね」
「いえ。確かに当時は色々あって落ち込んでましたけど、自殺とかそういうことは考えませんでしたよ。家族も恋人もいましたし」
職を失い相当弱気になっていたのは確かだ。だが、その当時の一郎は本気で自殺を考えたことなどなかった。
「やはり。小山内さん、私はね、貴方が川へ転落した事自体は確かに事故だったのだろうとは思うんですよ。でも、そもそも貴方が散歩には不向きである急流沿いの河原へ、ほろ酔い気分で散歩に向かうなんてのは、不自然としか思えないんですよ」
「そのことは、他の警察の方には?」
「もちろん、言いましたよ。でも、既に事故で決着がついているから、そこは大きな問題じゃないって、歯牙にもかけられませんでした」
当時の悔しい気持ちを思い出したのか、木在の大きな拳が白くなるほどに強く握りしめられていた。
「どうですか、小山内さん。記憶が全くないそうですが……今の貴方から見て、当時の貴方がわざわざほろ酔いで河原へ向かう理由、何か思い付きませんか?」
「わざわざ河原へ向かう理由、ですか」
少し考えてみるが、さっぱり浮かばない。そもそも、当日の記憶からして曖昧なのだ。バーベキューで、椛田が仕入れてきた粗悪な硬い肉をなんとか平らげたことは、おぼろげに覚えているのだが。
「……思い付きませんね。そもそも、自分が川に落ちたのがいつ頃なのかさえ覚えてないんです。昼だったのか、夜だったのかさえ、まだ知らないんですよ」
「ご家族から聞いてはいないんですか?」
――木在の言葉に、一郎の胸がほんの一瞬だけつまる。どうやら木在は、一郎の家族に起こった悲劇を知らないらしかった。
「いえ、当時のことを知っている肉親は、全員亡くなっているので」
「そ、それは失礼しました。お悔やみ申し上げます」
木在も流石に動揺したのか、ごま塩頭を深々と下げながら平謝りする。刑事という生き物はもっとドライなのかと思っていたが、案外と感情豊からしい。一郎は木在への評価を少しだけ改めた。
「お気遣いなく。折角ですから、教えてくれませんか? 俺が川に落ちた前後の状況を」
「は、はい。当時の捜査資料はもちろん見せられませんから、私の記憶に基づいたメモになってしまいますが――」
言いながら、木在が分厚い黒革の手帳の一ページを開いて一郎に差し出した。そこには、思いの外に几帳面そうな筆跡で当時の状況が簡潔にまとめられていた。
・小山内一行、山梨県内のリゾートホテルへ昼頃に到着
・ホテルに一泊
・翌日、荷物をホテルに預け、周囲を観光後、車で川沿いのバーベキュー場へ
・数時間かけてバーベキューなどを楽しむ
・各自片付けを始める
小山内→ごみ集積所へごみ出し
椛田→車への荷物の搬入
篠原→管理事務所へレンタル品の返却
御手洗、真田、塚原→バーベキュー場の清掃
・誰ともなく、ゴミ出しに向かった小山内が戻ってこないことに気付く
・篠原、椛田の両名、河原へ打ち上げられている小山内を発見(十六時頃)
「如何ですか?」
「そう……ですね。バーベキューの辺りまでは、多分記憶通りです。その後が判然としませんけど」
必死に記憶を呼び起こそうとしてみるが、一郎の脳は何も返事をしてくれなかった。
ちなみに、御手洗、真田、塚原の三名は、弥生によれば事故の一件以来、疎遠になっているのだという。その証左ではないが、一郎の見舞いにも終ぞ姿を見せなかった――。
「当時、小山内さんは一人でごみ出しに行ったわけです。その後、皆さんの所へ戻らずにふらりとほろ酔いのまま危険な河原へ散歩に行く……あまりにも不自然な行動とは思いませんか?」
「……ですね。他の連中に声もかけずに、危ない場所へ行く理由はないと思います」
「そうなると、当時の小山内さんには河原へ向かう某かの理由があった、と考えた方が自然ですね。例えば、河原に何か気になるものが落ちていたとか……誰かと落ち合う約束があった、とか」
「誰かと落ち合う……?」
「ええ。恋人である篠原さんと二人きりの時間を楽しむですとか、椛田さんと何か内密の話があったとか」
「う~ん、椛田と二人きりで話すような話題はなかったはずですし、弥生ともわざわざ他に隠れて会うような必要もなかったので、考えにくいですね」
「そうですか……」
木在の鬼瓦のような顔が渋く歪む。あまりにしわしわなので鬼瓦というよりは梅干しのようだ。
「あの。もしかして木在さんは、弥生――篠原か椛田のどちらかが俺を河原に呼び出したと考えているんですか?」
「いえ、あくまでも可能性として、ですよ。他のお三方は、バーベキュー場から動いていない目撃証言があります。ですが、篠原さんと椛田さんは、それぞれ管理事務所と駐車場を後にしてから、しばらくの空白時間があるんです。もし、小山内さんがお一人で河原にいらしたのでなければ、同行者はそのお二人のどちらか、もしくは両方に絞られる、というだけの話です」
「でも、二人ともそんなことは一言も言ってないんですよね?」
「ええ。けれども……お気を悪くなさらないでほしいですが、もし自分が河原に呼び出したことで小山内さんの事故が起こってしまったのなら、罪悪感から黙っているという可能性も――」
「そんなのどうとでも言えるじゃないですか。流石に怒りますよ」
つい耐え切れず、一郎は木在の言葉を遮ってしまった。元恋人と親友に無用な疑いをかけられて、流石の一郎も苛立ちを隠せなかったのだ。
「二人とも、そんな人間じゃありませんよ。もし目の前で俺が川に落ちたら、きっとその場で助けを呼んでくれます」
「ああっ! 申し訳ありません! 二十年分の疑念を晴らしたい一心で、配慮に欠けていました。どうか許してください」
木在が立ち上がり大げさに頭を下げる。声も大きかったので、たちまち周囲の客から「なんだなんだ」と奇異の視線が注がれる。たまったものではなかった。
「ちょっ。木在さん、ここ仮にも病院の中ですから。もう少しお静かに」
「これは、重ねて失礼を」
木在が周囲の客にもペコペコと頭を下げながら着席する。一方、頭を下げられた側の人々は木在の強面を見ると、一点無関心を装い始めた。――店に静寂が戻る。
「刑事……いえ、元刑事の悪い癖です。可能性があれば検証せずにはいられない。どうかお許しください」
「いいですよ、もう。悪気がないのは分かりましたから」
本当はまだ苛立ちが胸中に渦巻いているのだが、一郎は木在との会話を早々に切り上げたい一心から平静を装った。一刻も早く、この不愉快な男から遠のきたかった。
――結局、その後は大した会話もなく、木在との面会は早々にお開きとなった。
木在は「何かあればご連絡ください」と言っていたが、二度と会うこともないだろうと一郎は思った。家族を失い、彼にとって数少ない寄る辺である弥生と椛田を悪く言うような人間と、これ以上は一分一秒でも会話したくなかった。
けれども、きっと。一郎自身も分かっていたのだ。
弥生は一郎が眠り続ける中、悪友の代田と家庭を築いた。
椛田は一郎の姉の優子と結婚し美佳を儲け、そして離婚した。
二人のことで、一郎の知らないことなど沢山あるのだと。それはきっと、二十年前からそうであったのだと。
一郎はこの後、それを嫌というほど思い知ることになる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます