第四話「面影遠く」
『今からそちらへ向かいます』
美佳からの、たったそれだけの素っ気ないメッセージに、一郎は安堵のため息を漏らした。
短期入院から帰宅した次の日、一郎は中川に連絡を取っていた。弥生が言いかけた「優子と椛田が離婚した理由」とやらを尋ねる為だ。
中川からの答えは、「美佳ちゃんに確認してみるよ」だった。いくら優子の実弟であり椛田の親友でもある一郎が相手でも、離婚の原因というセンシティブな話題は軽々に明かせない。弁護士の中川らしい、慎重な答えだった。
そうして、しばらくしてから再度送られてきた中川のメッセージに、一郎は目を丸くして驚いた。そこには「美佳ちゃんが直接話したいそうです」と書かれていた。
今まで一郎と極力かかわろうとしなかった美佳が何故? そう思わずにはいられない一郎だったが、もしかすると自分との距離を縮めようとしてくれているのかもしれない――そんな希望的観測のもと、その申し出を快諾した。
そして今日、いよいよ美佳が一郎の自宅マンションへやってくることになった。一郎は朝から早起きして掃除に奔走し、万全の態勢で美佳を迎える準備を整えた。散らかっていたら、また白い目で見られるかもしれないと思ったのだ。
――今後、美佳と良好な関係が築けたとしても頭が上がらないのではないか。そんな益体もないことを考えていると、玄関のドアが開く音がした。どうやら美佳がやってきたらしい。
「……お邪魔します」
「い、いらっしゃい」
リビングに入ってきた美佳と、ぎこちない挨拶を交わし合う。お互いに距離を測りかねている感じだった。
「……中川先生からのお土産、冷蔵庫に入れとくよ」
「あ、おう。頼む」
美佳が手にした買い物袋をぶらぶらさせながら冷蔵庫のもとへ向かう。模様替え等はしていないので、美佳にとっては「勝手知ったる母の実家」のままなのだろう。
その後ろ姿を、一郎はぼんやりと眺めていた。今日の美佳はダメージジーンズに黒いパーカーというシンプルな格好だ。「ちょっとそこまで」といった感じのラフさだが、母親譲りの長身ですらりとした体形の彼女には、良く似合っている。
「……なに、ジロジロと。いやらしい」
「い、いやっ! そんなつもりは」
「どうだか……」
呆れたような表情を見せながら、美佳が冷蔵庫をバタンと閉める。「ナントカって高い店のプリン。消費期限、近いから」と必要最低限の説明をしながらソファに向かい、ドスンと座る。
姿形は母親そっくりだが、言動は優子とは反対にどこか荒っぽい。父親の椛田とも違った。
「それで? ママとあいつがどうして離婚したか知りたいんだっけ?」
「お、おう」
「性格の不一致、価値観の相違、家庭内における負担の不均衡……これでいい? なら、帰るけど」
「お、おいおい。それだけなら、それこそメッセージで済むだろ。そういうんじゃなくて」
「それ以外にも何かあると? なんでそう思うの?」
「それは……その……」
「誰かに何か聞いた?」
美佳の言葉に、思わずドキッとする。確かに、一郎がわざわざ優子と椛田の離婚理由について訊こうと思ったのは、弥生の言葉が発端だ。だが、そのことは中川にも話していない。にも拘らず、美佳はズバリとそれを言い当てた。
勘がいいのか、それとも何か確信があるのか。
「実は、ある人から、ちょっと」
「ある人、ねぇ。どうせあいつか、それとも弥生さんでしょ?」
「……分かるのか?」
「だって、そのくらいしか容疑者いないし――はぁ、どっちか知らないけど、どうして余計なこと言うかな」
言いながら、美佳は頭をぼりぼりと乱暴にかいた。そのせいで豊かで美しい黒髪がぼさぼさになったが、手櫛でサッと直すと、美佳の頭は何事もなかったように平穏を取り戻した。
「で? どっちから聞いたの?」
「……弥生だ」
「ふ~ん……あの人も口が軽いんだね」
「あまり悪く言わないでやってくれ。口が滑りそうになったみたいだけど、詳しいことは何も聞いてないんだ」
「へぇ。庇うんだ、弥生さんのこと」
「そりゃあ、まあ、な」
「元恋人だから?」
「っ!? お前、なんでそれを知って……?」
「あ、やっぱりそうなんだ。ふ~ん」
きわめて興味のなさそうな顔で呟く美佳。一方の一郎の顔は真っ赤になっていた。まだ十八歳の姪のカマかけに、あっさりと引っかかってしまった。叔父の威厳もへったくれもない。
「自分を捨てた女のことを、よく庇えるね」
「……俺が何年も目を覚まさなかったのが悪いんだよ」
「へぇ……」
一郎の言葉に、美佳が珍しく感心したような声を上げた。どうやら、何かが彼女のお気に召したらしい。
「で? そもそも、なんでママ達の離婚の話になったの?」
「それは……君のパパのことについて、ちょっと口論みたいになって」
「何? あいつまた何かやったの?」
椛田の話題が出た途端、美佳はまた不機嫌そうな表情を浮かべた。どうやら、本当に父親のことが嫌いらしい。
「いや、何もやってないよ。弥生の奴が椛田を悪く言ったもんだから、ちょっとな」
「……悪く言うって、逆に良いところなんてないじゃん、あいつ」
「俺から見れば、いい友達なんだよ」
「……叔父さんって、随分心が広いんだね」
美佳が、まるで気の毒な生き物を見るかのように一郎を見つめてくる。優しかった姉と同じ顔で向けられるその視線に、一郎は言葉では言い表せない複雑な気持ちを抱いてしまった。
「私だったら、あの二人とはソッコーで縁切るけどね」
「……え? 二人って、椛田だけじゃなくて、弥生ともか?」
「私は叔父さんみたいに心が広くないから。昏睡状態の自分を放っておいて別の人と結婚なんかされたら、そりゃ縁切るよ」
「いつ目覚めるとも分からないのに、待ってろって言うのか?」
「……ママもおばあちゃんも、おじいちゃんも、叔父さんが目覚めるの待ってたよ」
「そりゃ、家族だからな」
「……家族だからってだけで、本当に待っていられたと思う?」
――それは、刺すような視線だった。もし視線だけで人を殺せるのなら、今頃一郎の心臓は止まっていたかもしれない。そのくらいに鋭い視線で、美佳は一郎を見つめていた。
「叔父さんさあ、あんまりあの人のこと、信用しない方がいいと思うよ」
「あの人って……弥生のことか? なんでさ」
「……分かんないなら、いいよ別に。でもね、叔父さん。ママも弥生さんのことは、全然信用してなかったよ」
「姉貴が? まさか」
俄かには信じられなかった。優子と弥生は長い付き合いで、一郎が知る限り二人の関係は良好だったはずだ。だが、確か弥生自身も同じようなことを言っていた。つまり、美佳の言葉は真実ということになる。
「何かあったのか? 姉貴と弥生の間に」
「さあ? でもね、ママは叔父さんを救世山総合病院に置いときたくなかったみたいだよ。一度だけ、私の前で『あんな子がいる病院に一郎を置いておけない』ってボヤいてたもん」
「マジか」
「何? 私の言うことなんて、信用出来ない?」
「いや、そういう訳じゃ、ないけど……」
「いいよ、別に。どうせ私達なんか、血が繋がってるだけの他人だし」
冷たく突き放すように呟くと、美佳は大きく伸びをしてから立ち上がった。
「叔父さんてさあ……お人好しだってよく言われない?」
「はっ?」
「もっとさあ、他人の言うこと、疑った方がいいよ――じゃあ、私帰るから」
「え、ちょっと……」
素早く立ち上がると、美佳は足早にリビングから出て行ってしまった。次いで、止める間もなく玄関が閉まる音が響いた。嵐のような娘だった。
「なんなんだ……」
残された一郎は、独りリビングで呟くことしか出来なかった。
***
椛田から電話があったのは、その日の夜のことだった。
『やあ、一郎。短期入院中に何か変わったことはなかったかい?』
「変わったこと、か。そうだな……」
ハーキュリー1のタイヤに虫ピンが刺さっていたことについて話そうとして、一瞬だけ言い淀んでしまう。一郎の脳裏には、弥生や美佳の言葉が渦巻いてしまっていた。
(何を馬鹿な。椛田が俺に何か不義理を働いたことなんて、無いだろ?)
女達の声を振り払う。一郎は己の心に従った。
「実はさ、車椅子のタイヤに虫ピンが刺さってたんだ。多分、誰かがわざと刺したんだと思う」
『ええっ!? そ、それで、大丈夫だったのかい? タイヤがパンクとかしたんじゃ』
「ああ。パンクレスタイヤだったお陰で、ピンが刺さってることにもしばらく気付かなかったくらいだよ」
『良かった……』
電話口の向こうで、椛田が安堵のため息を漏らしたのが聞こえた。この男は昔からリアクションが大きかったな等と、一郎は嬉しい苦笑いを浮かべずにはいられなかった。
「そっちは? 例のつきまといとか、その後どうだ?」
『うん……進展って言ったら変だけど。ドライブレコーダーの動画をね、チェックしたら案の定だったよ』
「案の定?」
『後方カメラの映像にさ、同じ車が何度も映ってたんだ。しかも、日を跨いで』
「……単にご近所さんの車ってオチはないよな?」
『そうだったらいいんだけどね。この間、少し遠出した時にも同じ車がついてきてた』
「警察には?」
『もう相談した。ドラレコの動画見せたら、ナンバー照会とかしてくれるって。今はその返事待ち』
「そうか……」
二人の間に沈黙が落ちる。一郎は車椅子のタイヤに虫ピン、椛田は特定の車につきまとわれている。どちらも何者かが意図を持ってやっていることは明白だが、その正体が皆目分からず、居心地が悪かった。
「俺の車椅子のタイヤに虫ピンを刺した奴と、椛田をつけ狙ってる奴。どっちも同じ奴なんだろうか」
『分からない。優子さんの事故を調べられたら都合の悪い奴がいるとして、僕をつけ狙うのはまだ分かる。でも、一郎まで狙われる理由が分からないよ。……そういえば、この間のインターホンの件はどうなった?』
「ああ、あれな。警察と管理会社、両方に相談したらチェックしてくれるって言ってたけど……あれ? そういえば連絡がないな」
既にあれから二週間近く経つ。警察はともかくとして、管理会社からも何の返事もないのは少々おかしかった。
『少しせっついてみる?』
「そう、だな。この後……は無理だから、明日でも電話してみるよ」
時計を見ると、既に九時を回っていた。以前の一郎ならば「まだ早いな」と思う時間だったが、今は違う。今の一郎はシャワーを浴びるのも着替えるのも一苦労なので、寝るまでの準備を早めにしなければ日付が変わってしまうのだ。
「すまん、そろそろ……」
『あ、ごめんね、こんな時間まで』
「いや、いいよ。ちょうど椛田の声が聞きたいところだったし」
『え、ええっ!? そ、そうなんだ。なんか……照れるな』
――聞きようによっては恋人同士の甘い会話にも聞こえるやり取りがおかしくなって、どちらからともなく吹き出す。二人は、学生時代にもこのような仲の良さげな会話をしょっちゅうしていたので、一部の友人からは「実はデキているのでは?」等と言われたものだった。
『ははっ、なんかこういうやり取りも久しぶりだね』
「だな。……じゃあ、今度こそ」
『待って一郎』
「ん? なんだ、まだ何かあったっけ?」
『うん。間違ってたらごめんなんだけど……一郎、何かあったの?』
「――っ」
思わず言葉に詰まる。椛田は決して勘が良い方ではない。そんな彼にも気付かれてしまうほど、今の一郎はおかしいらしい。
言うまでもなく、弥生や美佳に言われたことが原因だ。今まで一郎が信じてきたものを否定されたようで、心がずっとざわついているのだ。
「お前にまでそんなこと言われるなんて、な。俺、相当参ってるみたいだな」
『やっぱり。なんか声に元気がなかったし。僕で良かったら相談してよ。頼りになるかどうかは、保証できないけど』
「そんなことないよ。お前は頼りになる奴だよ、椛田。……あのな、もし知ってたらでいいんだが。姉貴と弥生って、もしかして仲が悪かったのか?」
『……どうしてそう思うんだい』
「うん。本当に些細なことなんだけどさ、ある人からそんなような話を聞いて、ちょっとモヤモヤしてたんだ。昔のあの二人は、普通に仲良かったのにさ。何かあったのかなって」
『それは……』
電話の向こうの椛田が珍しく言い淀む。どうやら、思い当たる節があるらしい。一郎は静かに、椛田が再び口を開くのを待った。
ガランとしたリビングの中に、一郎の吐息と回線越しの息遣いの音だけが僅かに響く。そして、ややあって――。
『ごめん、一郎。僕は君に黙っていたことが、まだあるんだ』
「やっぱり。何か知ってるんだな? 頼む、教えてくれ」
『うん、話すよ。話すけど……一郎、どうか気を強く持ってね。きっと一郎にとっては、天地がひっくり返るくらいショックな話だから』
「ははっ、今更だよ。天地くらい、目覚めてからこの方、何回もひっくり返ってるよ」
強がりを言う一郎だったが、その実、心臓はバクバクと早鐘を打ち始めていた。何かと無邪気な失言の多い椛田が、ここまで言い淀むのだ。きっと、その警告は事実なのだろう。
『分かった。あのさ、一郎。一郎は、弥生ちゃんと代田くんが結婚したことに、違和感を持たなかった?』
「違和感? ……違和感ってほどじゃないけど、確かにあの二人が結婚したことには驚いたな。昔から仲は良かったけど」
『そうだね、あの二人は確かに仲が良かった。――でもね、一郎。その仲の良さが、君が考えている以上のものだったとしたら、どう思う?』
「……は?」
椛田の言っている意味が分からず、一郎は思わず間抜けな声を上げてしまった。一郎が考える以上の仲の良さ。つまり、友達以上の仲の良さ。
それは――それはまるで。
『あの二人は……弥生ちゃんと代田くんは、二十年前のあの旅行の前から、デキてたんだよ』
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