第二話「見慣れぬ故郷」

 救世山総合病院は、救世山市を見下ろす丘の上に建っている。入院病棟の窓は市街の方を向いており、入院患者が「戻るべき場所」を眺めながら治療を受けることが出来ると、そこそこ評判らしい。

 だが、一郎にとってそれはむしろ拷問だった。ベッドの上で体を起こせるようになり、外の景色を眺められるようにはなったが、退院も一時帰宅も出来る状態ではなかったから――今までは。

「小山内さん、心の準備はいいですか?」

「……ああ」

 看護師の酒井の声が、いつもとは違う方向から響いてくる。普段は車椅子を馬車馬のような力強さで押してくれている彼は、今は一郎の傍らに立っていた。

 一方の一郎の様子も、少し前までとは変わっている。車椅子が、プロメテウス株式会社から貸与された高性能電動車椅子「ハーキュリー1」になっていた。

 二人は今、病院のエントランスの内側にいた。二重の自動ドアの向こうでは、十月だというのに未だ煩い太陽の光が燦燦と辺りを照らしている。

「では、行きましょうか」

 酒井が歩き出す。それを追うように、一郎もハーキュリー1を操作して同じ速度で動きだす。二つの自動ドアを無事に通り抜け、日差しの下に晒される。

「……外だ」

「今までも中庭になら出てたじゃないですか」

「あそこは建物とフェンスに囲まれてるから、外って感じがしないんですよ」

「ああ、なるほど」

 そんな会話を繰り広げながら、病院の敷地外へと続く歩道をゆっくりと進んでいく。

 そして――。

「……おおっ」

 眼下に現れた光景に、一郎が思わず感嘆の声を上げる。救世山総合病院の前からは、緩やかに下るほぼまっすぐな道路が伸びている。その道路を下りきった先に広がっているのが、救世山市の中心街だ。

 その街並みが今、一郎の目にはっきりと映っていた。病室の窓越しではない、二十年ぶりの光景だった。

 街並みを貫くように走る線路。時計塔をモチーフにした独特の駅舎。戦後まもなく建てられたという、古ぼけた市庁舎。駅前に立ち並ぶ百貨店のビルたち。

 どれも一郎にとってなじみ深い建造物だ。

「どうですか? 今の救世山の街は」

「……あんまり変わってないようにも見えますね」

「そうですね。駅も市役所も、僕が子どもの頃と比べても代り映えしてないですからね。でも、駅前に行ったらビックリすると思いますよ」

「ビックリ?」

「見れば分かりますよ。さあ、行きましょうか」

 酒井が意味深な笑みを浮かべながら巨体を揺らして歩き出したので、仕方なく一郎もそれに続く。

 今日の外出は、ハーキュリー1による外出試験を兼ねている。一郎は、ここ一週間ほどで病院内や中庭での移動を完璧にマスターした。プロメテウス社側が次に求めたのは、市街地での走行テストだった。これは病院側も当初からの計画として了承済みのものだった。

 弥生がこっそり教えてくれたのだが、実は別府たちがやってくる数日前には、一郎の外出許可は下りていたのだという。だが、どんな思惑があるのか、病院理事たちはそれに待ったをかけて、別府との面談を仕組んだらしい。理事たちにどんな考えがあるのかは分からないが、自分を振り回さないでほしいと一郎は思った。

 緩やかに下る病院前の道路沿いの歩道を、ゆっくりゆっくりとハーキュリー1で下っていく。所々に小石やら犬の落とし物やらがあるのだが、ハーキュリー1はそれらを素早く認識しては、回避したり乗り越えたりしてくれる。もちろん、一郎も自分で操作はしているのだが、AIによる動作アシストが快適過ぎて、殆どオート運転の気分だった。

「どうですか小山内さん」

「快適そのものですよ。まあ、ここの歩道は広いし、すれ違う人もまだいないしで、別府さんたちの欲しがるデータは採れてなさそうですけど」

「はは、違いないですね。……っと、僕らのこの会話も筒抜けかもしれないんですよね」

「ええと、ドライブレコーダー? って言うんでしたっけ? それが前後の映像と音声を記録してて、リアルタイムにプロメテウス社のサーバーに送信してるらしいですね。でも、その分析も基本的にはAIがやるらしいですよ」

「はぁ~。人の手を介さないんですね。なんか、SFだなぁ。凄い世の中になりましたね」

「俺なんか二十年の空白があるから、カルチャーショック凄いですよ」

 酒井と二人で苦笑いしながら、坂を下り切る。市の中心部は、もうすぐだった。


   ***


「はあ~」

 感嘆なのかなんなのかよく分からない声が、一郎の口から漏れた。

 病院を出てから十数分後、二人の姿は救世山駅前にあった。一郎の記憶では、そこには大型スーパーや有名百貨店のビルが建ち並んでいたのだが……実際に目に映る景色は少し違っていた。

 大手百貨店だったはずのビルには、家電量販店の看板がかかっている。

 大型スーパーが入っていたビルの壁面には、100円ショップやファストファッションやファーストフード店の看板がこれでもかとかけられていて、統一性がない。

 他にも、建物は変わってないのだがテナントが丸ごと入れ替わってしまっているビルが多かった。一郎が好きだったラーメン屋も見当たらない。

「容れ物は同じなのに、中身が全然変わってる……」

「ははっ、驚いたでしょう? ここ十数年で百貨店はすっかり撤退しちゃったんですよ。大型のスーパーも郊外のショッピングモールの方に移って、駅前には細々したのしか残ってません」

「百貨店って、無くなるんだな」

 確かに、一郎の記憶の中の二十年前にも百貨店の苦戦は伝えられていた。郊外型ショッピングモールなどの進出が著しく、駅前百貨店の需要が低下している……だとかなんとか、ニュースで言っていた記憶がある。

 一郎は「きっとまた盛り返すだろう」等と軽く考えていたのだが、蓋を開けてみればこれである。諸行無常を感じてやまなかった。

「俺が子どもの頃って、百貨店とか大型スーパーが遊園地みたいなもんだったんだけどな……店の中はピカピカしてて、なんでも置いてあって、店員さんはみんな親切で」

「僕が子どもの頃も、ギリそんな感じでしたよ。幼稚園の頃、祖母に百貨店のおもちゃ売り場に連れてきてもらうのが楽しみでしたよ。外国製の、こう、高そうな積み木とか買ってもらったり」

「ドイツ製のやつですか?」

「ああ、多分それですね! 懐かしいなぁ、まだ実家にあるかなぁ……」

 そんなとりとめもない話をしながら、似てるようで違ってしまった故郷の街並みを歩く。車椅子からの視点は子ども時代に近いので、余計に違和感が強い。

 そんな、一抹の寂しさを感じながらも、一郎は良い変化にも気付いた。街のそこかしこでバリアフリー化が進んでいるのを実感したのだ。

 二十年前にもかなりの部分がバリアフリー化されていたが、今はそれよりも更に進んでいる。段差が厳しかった道がスロープになっていたり、駅前のペデストリアンデッキに直結するエレベーターが出来ていたり。些細な部分から大きな部分まで、変化を如実に感じていた。

(きっと、こんな体にならなければ、気にも留めなかったんだろうな)

 自嘲気味に心の中で呟き、一郎は一人苦笑した。亡き父が障碍者支援にも熱心だったことを、ふと思い出したのだ。

『誰でも突然、障碍者になる可能性はあるんだ』

 そんな父の言葉を、自分は果たして真剣に受け止めていただろうか? 一郎は独り、後悔の念を噛みしめた。

「小山内さん、どうかしましたか?」

「あっ、いえ。ハーキュリー1の性能のお蔭もあるけど、歩道とかも車椅子で通りやすくなってるなって」

「ええ。街中のバリアフリーは日進月歩ですからね。まだまだ不便なところも多いですけど、その内、車椅子で行けない場所は無くなるんじゃないですかね。……流石に、都市部限定でしょうが」

 看護師としての実感なのか、酒井がどこか嬉しそうに語る。もしかすると、彼も患者と一緒に大変な思いをしたことがあるのかもしれない。なんとなく、そう思った。

「いい世の中になりましたね。でも……人間の方は進化してないのかも」

 道行く人とたちとすれ違いながら、一郎が呟く。駅前だけあって人通りが多いのだが、実は先程から、人々の車椅子への無関心に辟易させられていたのだ。

 ハーキュリー1の自動回避機能は、歩いている人間相手にもある程度働くらしく、先程から危なげなく歩道を移動出来ている。だが、危ないのはむしろすれ違う人々の方だった。車椅子が向かってきているというのに、寸前まで全く避けようとしないのだ。

 中には、「歩きスマホ」をしながら真っ直ぐに突っ込んでくる女性までいた。一郎が思わず「うわっ!」と声を上げたにも拘らず、女性は一郎の方を一瞥もせずに歩いて行ってしまった。すれ違いざまに見えたのだが、耳にコードのないイヤホンのような器具を装着していた。酒井に聞いたところ、あれはワイヤレスイヤホンらしい。

「ああ、年齢性別問わず、周囲に関心がない人って結構いますからね。――小山内さん、気付いてますか? 道行く人達の中には、マスクをしてない人の方が多いってことに」

「言われてみれば……。まだ新型コロナとやらは流行ってるんですよね? その割りに、マスクをしてる人が少ないような」

 一郎はまだリハビリ半ばであらゆる病気に弱くなっているらしく、他人と接する時はいつもマスクを装着するようにしていた。医師や看護師も、病院の中にいる時は食事以外では殆どマスクを外さない。

 にも拘らず、道行く人々のマスク装着率は思ったよりも低い。半分もいかないだろうか。とても、世界を騒がせた凶悪な感染症が蔓延している様子には見えない。

「一年以上前ですかね、新型コロナの法律上の扱いが、季節性インフルエンザと同等に引き下げられたんですよ。ワクチンとか治療薬とか、ある程度出てきてたからそれはいいんですけど……何故か、『マスクは個人の裁量で』みたいな話もくっついてきて、マスクをしてくれない人が増えたんですよ」

「……それは、感染が落ち着いたからとかではなく?」

「全然。未だにインフルとは比べ物にならない勢いですから。建前上は『咳や発熱などある人はマスク推奨』ってなってますけど、付けてくれない人は絶対に譲りませんからね。病院にもノーマスクで突撃してきて、警備員に制止されて逆ギレする……なんて人も、月に何人もいます」

「うへぇ……。何考えてるんでしょうね、そういう連中」

「何も考えてないんだと思いますよ。――僕らは最前線で新型コロナの恐ろしさを味わいましたが、若くて体の丈夫な人は無症状で済むことも多いですからね。甘く見てるんですよ。でも、そういう人は自分は無症状だからって、ノーマスクで他人に移しまくって周囲の健康を害するんです。ホント、やってられませんよ」

 普段は穏やかな酒井が語尾を荒らげていた。きっと、一郎が想像できない程に酷い目に遭ってきたのだろう。

 ――その時、一郎達とすれ違った中年男性が「ゲホゲホ」と痰が絡むような咳をした。マスクはしていない。

 二人は顔を見合わせると、足早にその場から立ち去った。


   ***


 その後、二人は救世山病院方面へと向かう路線バスへと乗り込んだ。駅前から病院の運行する巡回バスも出ているのだが、プロメテウス社から「出来るだけ公共の乗り物を利用してみてください」と依頼があった為、そちらを選んでいた。

 駅前のバスターミナルに停車中だったバスの搭乗口へ向かうと、運転手が目ざとく一郎の姿に気付き、降りてきた。運転手は、そのまま一郎を中扉へ誘導するとスロープを準備してくれた。バスのステップ部分からスロープが引っ張り出される光景は、一郎の目にはとても新鮮に映った。

「では、誘導しますのでゆっくりとスロープを上がってください」

 運転手に「これでもか」というくらい丁寧に誘導してもらいながらスロープを上がっていく。途中にICカードリーダーが設置されていたので、運転手の指示に従ってそれにカードをタッチする。二十年前はまだ、バス会社でICカードを導入しているところは無かったはずなので、なんだか不思議な感触だった。

 車内には車椅子用のスペースが用意されていた。一郎は運転手の誘導に従ってハーキュリー1をそこへピタリと寄せる。

「車椅子の方、固定しますね。お降りになられるバス停に着いたら、私の方で外しますのでお客様の方でも、タイヤのロックをお願いします」

「ありがとうございます」

 一郎が丁寧にお礼を言うと、運転手は爽やかな笑顔を残して運転席へと戻っていった。マスク越しではあったが、かなり若く見えた。それなのに立派だな、等と一郎は年寄りのような感想を抱いてしまった。

「運転手さん、随分と手慣れてる感じですね」

「今や路線バスもバリアフリーが当たり前ですからね。うちの患者さんも、ここのバス会社には大変お世話になってますよ」

「へぇ……。バスがICカードに対応してたり、車椅子で当たり前に乗れたり。本当に、この二十年で色々変わったんですね」

 二十年前も車椅子に対応したバスはあったはずだが、一郎の記憶ではまだそこまで普及している印象はなかった。変われば変わるものだと、一郎は感心した。

『発車します』

 運転手のアナウンスと共に、バスはゆっくりと加速し始めた。一郎の傍に立つ酒井の体が少しだけ後方に揺れたが、すぐに安定する。一方、車椅子上の一郎は快適そのものだった。

「小山内さん、どうでしたか? 久しぶりに街へ出た感想は」

「……俺の主観だとたかだか数か月ぶりなんですけど、あまりにも変わっていて浦島太郎になった気分ですよ」

「あはは、乙姫様はいませんけどね。看護師長か松浦が付いて来れれば良かったんですが。すみませんね、半日近くむさい男が一緒で」

 ――当初、一郎の介助には弥生と松浦が名乗りを上げていた。だが、弥生は看護師長としての仕事も多忙であり、また万が一のことを考えると屈強な酒井の方が安全だろうという話になり、松浦も却下されていた。

「とんでもない! 頼りがいがありましたよ。いつももですけど、ありがとうございます酒井さん」

 そんな、ほんわかとした会話を交わしながら、一郎と酒井はバスに揺られて救世山総合病院へと舞い戻った。一郎の初めての一時外出と、ハーキュリー1の実地試験としては上々の結果だったので、二人とも少し浮かれていた。

 ――だから、二人は気付かなかった。同じバスの中、一郎の姿を注意深く観察する者の姿に。

 もし二人が、後部座席に少しでも注意を払っていたら、気付いていたかもしれない。一番後ろの座席に、息をひそめるようにして座っている女性の姿に。その女性は、先程一郎にぶつかりそうになった歩きスマホの女だった。

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