第六話「旧友」
病院の中がやけに静かだと思ったら、どうやらゴールデンウィークの真っ最中のようだった。昔は心躍らせた大連休だが、ベッドの上から動けぬ一郎にとってはゴールデンどころか毎日がブルーだ。精々、いつもは騒がしい病院内の空気が、寂しいまでに静かなことくらいしかいいことがない。
連休中は救急病棟以外は休診日になっている為、いつもなら遠くから聞こえてくる病院内の喧噪も、今はほとんど聞こえない。時折、入院患者の具合が悪くなったのか、看護師達が慌ただしく動く音が聞こえてきたり、救急車のけたたましいサイレンの音が窓の外に響いたりするくらいだ。
(それにしても救急車の数が少し多くないか?)
大連休中で浮かれてバカな事故を起こす人間が多いのか、はたまた例の新型コロナとやらの患者が多いのか、あるいはその両方なのか。救急病棟は病院全体の静けさとは裏腹に、さながら戦場のような様相だろうな、等と考えて、思わず苦笑いが浮かぶ。
当の一郎が、旅先で意識不明となり救急搬送された人間なのだ。きっと自分の時も、懸命に救命措置を行ってくれた医師や看護師がいたのだろう。
一郎はそっと、「せめて一人でも多く助かりますように。出来れば五体満足で」と心の中で呟いた。
――「彼ら」がやってきたのは、そんな連休のただ中の夕方のことだった。
***
「失礼します。……一郎くん、気分はどう?」
午後三時を回ってしばらく経った頃、カーテンの向こうから弥生が姿を現した。他の看護師が周りにいないので、今はタメ口モードらしい。
「良くも悪くもない、かな」
「そう……。あ、あのね一郎くん。今日はお客さんが来ているのよ」
「お客さん?」
「うん。ほら、二人とも入って」
弥生がカーテンの外側に手招きすると、おずおずといった感じに二人の人物がやってきた。マスクを付けているので顔立ちは半分見えないが、どちらも中年男性のようだ。
一人は中肉中背の男で、やたらと色白で目つきがぎょろっと鋭い。服装はブラックジーンズと黒いジップアップのタートルネックと黒づくめ。中々様になってはいるが、なんだかチェスみたいな男だった。
もう一人はやや背が低く、小太りの男だった。こちらは、まだ肌寒いというのに、よく分からない英単語がグラフティアート調に描かれた黄色いTシャツに、カーキ色のハーフパンツという出で立ちだ。見ている方は寒そうに見えるが、本人は汗をかいており、マスクの隙間から湯気が漏れそうな程に粗い息遣いをしていた。
「……ええと?」
「マスク越しじゃ分からないかな? ほら、二人とも」
弥生が気安い感じで更に二人に手招きをする。彼女がこんな態度で接する人間で一郎との共通の知人と言えば、限られてくる。そこでようやく、一郎は二人の男の正体にピンときた。
「もしかして……代田と椛田か?」
「ふん、気付くのが遅い。頭に問題はないと聞いていたが、少し怪しいんじゃないのか?」
「だ、代田くん! そんな言い方は酷いよぉ。一郎、ちゃんと僕たちのことも分かってるじゃないかぁ」
黒づくめが憎まれ口を叩き、小太りがそれを窘めた。やはり、黒づくめは悪友の代田勝で、小太りは親友の椛田丈志に違いなかった。
「二人とも、来てくれたんだな。ありがとう」
「そんなっ! 来るのが遅くなって、ごめん! 本当はもっと早く来たかったんだけど、僕も色々と忙しくて、さ」
椛田が大げさに一郎のことを拝みながら謝ってくる。その、どこか情けなさそうなユーモラスな仕草は、学生時代から全く変わっていない。
「……俺は別に顔を出すつもりはなかったんだがな。弥生の奴がどうしてもって言うから来てやっただけだ。感謝される謂れはない」
等と、憎まれ口を叩いたのは代田。これも学生時代からあまり変わらない。言葉こそ辛辣だが、こうして見舞いに来てくれたということは、少しは心配してくれていたのだろう。代田はそういう、素直ではない所が昔からあった。
「勝! 貴方またそんな憎まれ口を……ごめんね一郎くん」
「いや、いいよ。なんか、二人とも変わってなくて、普通に嬉しいし」
平謝りしようとする弥生を慌てて止める。一郎としては代田の口の悪さは「普段通り」で特に気になるものではないのだが、やはり傍から見ると険悪に感じるらしい。
「……ありがとう、一郎くん。本当はね、他の人達も来たがってたんだけど、まだ感染対策で大人数のお見舞いは出来ないことになってるの」
「見舞い一つとっても大変なんだな。二人とも、そんな中来てくれて、本当にありがとう」
「と、当然だろ! 一郎が二十年ぶりに目覚めたんだ。本当ならお祝いパーティーしたいくらいだよ!」
椛田が大げさに腕をぶんぶんと振りながら主張する。ちなみに、この男の言う「パーティー」とは文字通り、大きめのホールを借りて行う立食形式のパーティーなので、二重の意味で洒落になっていない。
「ははっ、ありがたいけど、あいにくと見ての通りのざまだ。当分、自力じゃ動けないからどこかへ出かけたりするのは無理だよ」
「そ、そうか。ごめんね」
椛田が今度はしょんぼりとした表情で肩を落とす。学生時代から感情の落差が激しい忙しない男だったが、どうやら中年になった今もそれは変わらないらしい。
一郎は思わず、自らの頬が緩むのを感じた。
だが――。
「けっ、病院ではしゃいでんじゃねぇぞ椛田。……そもそも、お前も小山内も祝い事出来るような身分じゃねぇだろ」
「代田……?」
突然、代田が毒づき始めた。先程までのただ単に口が悪いのとは違う、明らかにイライラしている様子だ。今の一郎と椛田とのやり取りの中に、彼を不機嫌にされる要素があったのだろうか。
「こんな調子じゃ、お前の姉ちゃんも浮かばれねぇよ。……俺は帰る」
そんな捨て台詞を残して、代田が足早に立ち去ってしまう。和やかになり始めていた空気は一転、医療機器の奏でる定期的な電子音だけが響く、空虚なものになり下がってしまった。
「ちょっと、勝!? 待って!」
立ち去る代田を弥生が追いかける。後に残されたのは、ベッドの上で動けぬ一郎と、おろおろするばかりの椛田のみ。
「だ、代田くん、突然どうしたんだろ?」
「……いや、あいつの言うことも少しは分かるよ」
「えっ?」
「俺の姉貴、ほんの数ヶ月前に事故で死んだばかりなんだろ? ……正直、まだ受け止め切れてないけど」
「あっ……」
椛田の表情が見る見る内に曇っていく。一郎にとっては実姉であり、椛田にとっては元妻である優子が亡くなったのは今年の三月のこと。まだ二ヶ月しか経っていない。
代田の目には、酷く薄情な光景に映ったのかもしれなかった。
「ご、ごめん! そうだよね、一郎だってまだショックだろうに、僕ばっかりはしゃいじゃって……」
「いや、謝らないでくれよ。――聞いたよ、姉貴と結婚してたんだって? 姪っ子も生まれててさ。変な話だけど、椛田が姉貴と結婚して美佳が生まれていなかったら、俺は本当の天涯孤独になってた訳だし。その、むしろ……ありがとう?」
「なんで疑問形」
「いや、だってさ。まさかお前と姉貴が結婚してたなんて、思わないじゃん」
「あはは、うん。自分でもよく結婚出来たと思うよ。結局、離婚しちゃったけどね」
椛田が汗っかきの顔に苦笑いを浮かべた。
――別に一郎も、椛田を悪く言いたい訳ではない。裕福な家の生まれだし、見た目はユーモラスだが賑やかで人当たりの良い男でもある。一郎にとっては「親友」とはっきり呼べる相手だ。
けれども、優子の異性の好みは椛田とは全くの逆だった。姉は質実剛健と言えばいいのだろうか、真面目でリーダーシップがあり、運動が得意で体格が良く、ついでに顔が良い男が好きだったはずだ。
残念ながら椛田はそれにかすりもしない。
「その……俺もまだ詳しくは聞いてないんだが、姉貴の最期は事故だったんだって? 椛田は詳しいこと、知ってるのか?」
「うん。元だけど配偶者だからね。美佳と一緒に警察に色々聞かれたし、色々話したよ」
「教えてもらっても?」
「もちろん。そうだね、どこから話そうか」
それから椛田は優子の最期について、彼の知っている限りをぽつりぽつりと語り始めた。
「優子さんがね、亡くなった当日にも、実は会ってたんだ。一郎がもしかしたら目覚めるかもしれないって、嬉しそうに教えてくれてね」
「えっ、どういうことだ?」
「弥生ちゃんから聞いてない? 三月の……八日だったかな。あの日、一郎はこの二十年間で初めて目を薄っすら開けたり、周りの音に反応したりしてるような動きを見せたんだって。だから、優子さんも弥生ちゃんも、もしかしたら希望が持てるかもって喜んでたんだ」
「そんな……ことが」
その話は初耳だった。単に話すタイミングが無かったのか、それとも何か一郎への配慮があるのか。後で弥生が戻ってきたら確かめておこうと、一郎は思った。
「僕もね、嬉しかったさ。優子さんが久しぶりに会ってくれたこともそうだけど、何より一郎が目覚めるかもしれないって――でも、まさか、その直後にあんなことになるなんて」
感極まったのか、椛田が目頭を押さえて視線を下げる。その姿に、「もしかすると、椛田は優子に未練たらたらだったのかもしれないな」等と、一郎はぼんやりと感じた。
「運転中の事故、だったんだよな?」
「うん。一郎のお世話を終えて、僕に連絡をくれて、ちょっとお茶して……。それからいったん家に帰って、車で美佳を迎えに行く途中に事故に遭ったみたい」
「単独事故だったのか?」
「そうだね。崖沿いの道を走ってる時に、ハンドル操作をミスして、そのまま崖下に落ちたらしい。十数メートルくらいの高さのある場所でね。落ちた先が雑木林で誰もいなかったのは、不幸中の幸いかもしれないけど……」
「あの姉貴がハンドル操作をミスったってのは、俄かには信じられないな。もしかして、事故が多い道だったとか?」
「いや? 曲がりくねってはいるけど、ここいらにはよくある何の変哲もない道だよ。……実はね、一郎。優子さんは、眠気を催す薬を飲んでたらしいんだ」
「えっ?」
それも初耳だった。中川の話にも一切出てきていない。
「ご両親が亡くなって、優子さんはずっと一人で一郎と美佳のお世話をしてきたんだ。結婚した前後の数年は、僕も手伝ってたけどね。残念ながら足を引っ張るばかりで、だから三下り半を突き付けられたんだけど――それはともかく。優子さんは強い人だった。それでもやっぱり精神に多少の不調は抱えていてね。心療内科に通ってたらしいんだ。それで、そこで処方されてた薬の中には、眠気を催すものもあったらしい」
「……慎重な姉貴が、運転前にそんなものを飲むとは思えないな」
「僕もそう思ったよ。でも、警察は、優子さんが事故る前に飲んでいた薬は、間違いなく処方されているものと同じだって言ってた」
「それは確かなのか?」
「検死って言うのかな? お医者さんにかなり念入りに調べてもらったらしいから、まず間違いないって。でね、そのお医者さんによれば、その薬で眠気を催すかどうかは、体質や体調にもよるらしいんだ。だから、普段の優子さんは眠くなったことがないから運転の前でも普通に飲んでしまっていた。でも、あの日はたまたま体調に変化があって、眠気が強く出たんじゃないかって――推測混じりだけどね」
椛田が悔しそうに吐き捨てる。どうやら、優子の死因についてあまり納得していないらしい。一郎も同じ気持ちだった。
普段は眠気を催さない薬が、その日はたまたま、ハンドル操作を誤る程の眠気をもたらした――しかも、一郎に覚醒の兆しがあった、その日にだけ。そんな残酷な偶然があるのだろうか。
「悔しいけど、警察は事故だって判断した。僕も色々調べてみたけど、不審な点はなかったんだ。うん、だから一郎。優子さんの死は、やっぱり不幸な事故なんだと思う――理不尽だよね、世界は」
椛田はそれっきり、口をつぐんでしまった。きっと彼なりに色々と奔走してくれたのだろう。
「話してくれてありがとう。椛田も辛かったろう?」
「そんな……一郎ほどじゃないよ。その、ね。僕に出来ることがあれば、なんだってする。だから……だから一郎、頑張って!」
一郎の手にぬるっとした感触が伝わってくる。見れば、椛田が一郎の右手をギュっと握っていた。
(暑苦しいやつだな)
心の中で苦笑いしつつ、一郎は全力の力を込めて、椛田の手をほんの少しだけ握り返す。そこから伝わる確かな温もりが、冷めきっていた一郎の心にじわじわと沁み込んでいった。
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