第五話「それは現実」
月が替わり、早くも五月となった。一郎が目覚めてから、既に半月以上が経ったことになる。
少しずつだが、指程度は自力で動かせるようになってきた。
胃に繋がっていたチューブは取り外され、穴を閉じる手術も無事に成功した。
理学療法士によれば、リハビリは驚くほど順調で回復も見込めるのだという。
――にも拘らず、一郎の気分は全く晴れなかった。「全てを失ってしまった自分が今更動けるようになったところで、一体何になるのだろうか?」、そんな想いが、彼の心に大きな虚無感となってのしかかっていたのだ。
「小山内さん、お体を拭いていきますね」
一郎はまだ風呂には入れないので、定期的に看護師が体を拭いて清潔さを保ってくれている。今日は若い女性の看護師である松浦が担当だ。
「痛かったりしたら言ってくださいね」
松浦の手つきはとても丁寧だ。おまけに、小柄な割に肉感的な体つきをしているので、所々に柔らかな女体の感触が伝わってくる。気のせいか、一郎のセンシティブな部分を拭き取る際には、他の看護師とは明らかに異なる微妙な手つきをしているようにも感じる。
以前の一郎ならば、看護されていることも忘れて喜んだかもしれないが、今はそういう気持ちすら全く湧いてこない。人間らしい感情の一切合切が希薄になってしまっていた。
(これから、一体どうすればいいんだ)
看護師や理学療法士は懸命にリハビリを手伝ってくれている。一郎も彼らの労力を無駄にしたくないので、手を抜いたりはしない。けれども、それは一郎の生来の生真面目さが条件反射的に働いているのであって、「元通り動けるようになりたい」という強い欲求のようなものは、今の彼の中には無かった。
仮令、体が不自由になろうとも、家族が健在ならばこんな気持ちにはならなかっただろう。だが、その家族は誰一人生き残っていないのだ。唯一の肉親である姪は素っ気なく、また一郎としても面識がない相手を「家族」としては認識出来ない。これでは、天涯孤独も同じだった。
弁護士の中川は親身になってはくれているが、所詮は他人だ。家族ではない――。
「おはようございます小山内さん。今朝の具合はいかがですか?」
その時、柔らかな笑みを浮かべながら弥生がやってきた。途端、松浦のねっとりとした手つきが鳴りを潜め、他の看護師と同じような「普通の清拭」に変わる。やはりこの看護師、少しいかがわしい気持ちでもって一郎の身体をまさぐっていたのではないだろうか? 一郎は訝しんだ。
「おはよう……ございます。お蔭様で、体の調子は悪くないです。腹の傷はちょっと痛みますが」
二人きりの時とは打って変わって、一郎と弥生は「余所行き」の言葉を交わし合った。二人が旧知の仲であることは他の看護師たちも知ってはいるが、元恋人同士だということまでは知られていない。あまりにも親しげであるとおかしな勘繰りをされそうだと、どちらからともなく口調には気を付けているのだ。
「お腹の穴の方は、念の為あと一週間は様子を見ますからね。違和感があれば、すぐに教えてくださいね。もう少し体調が落ち着いたら一般病棟に移って、いよいよ本格的にリハビリの開始ですから」
「リハビリ……? 今やっているのとは違うんですか?」
今も毎日、看護師や理学療法士の手によって、強引に手足の曲げ伸ばしをされたり、自力で動かせないか手指に力を入れる練習をしたりしていた。一郎はてっきりそれがリハビリだと思っていた。
「もちろんです。手指以外にも足を動かす訓練も始めますし、EMSを使ったりもしますよ」
「EMS?」
「ああ、小山内さんは知らないかもですね。電気刺激で筋肉を動かす機械ですよ」
「……低周波治療器みたいなものですか?」
「イメージとしてはそれに近いものです」
「なるほど」
――こういった会話は実によくあった。弥生たちにとっては「以前からある物や概念」でも、一郎にとっては全く未知のものだということが、多々あるのだ。二十年という時間は、それだけ残酷なのだ。
一郎の中で「携帯電話」と言えば、まだようやくカラー液晶が当たり前になったりカメラが標準搭載になったりした程度の認識だった。ネットだって携帯専用のWEBサイトくらいしか見られなかった。
それが今や、「手の平の上にパソコンがある」くらいの多機能振りだ。カメラの画素数は二十年前の十倍以上だし、画面の綺麗さも段違いだ。アプリの入れ替えも自由で、一郎が使っていたパソコンよりも、ずっと高性能になっているらしい。
テレビだって、一郎の中ではまだまだ「ブラウン管」が主流だったのに、今はもう殆ど存在しないのだという。薄型の液晶テレビが当たり前になっている。かろうじて「地上波デジタル放送」の名前くらいは知っているが、一郎が最後に使っていたブラウン管テレビはアナログにしか対応していなかったので、実感としては知らない。
病院のベッドで寝たきりの状態でも、これだけのカルチャーショックを感じているのだ。もし今後、病院の外へ出かけられるようになったら、あまりの世間の変わりようにショック死してしまうかもしれない。
そんな益体もないことを考えながら、一郎の朝は過ぎていった――。
***
自分で出歩くことどころか、テレビを点けることさえ出来ない一郎の生活は、単調で受動的だ。決まった時間に食事を食べさせてもらい、決まった時間にリハビリを行い、決まった時間に体を拭いてもらう。診察だけがやや不定期だが、集貝医師がやってくるのは一般診療の時間外だけなので、時間帯はおおよそ決まっている。
その間、出来ることと言えばひたすら視線の届く範囲を眺めることだけだ。何の面白みもない。
そうなると、後は色々と考えをめぐらすことくらいしか出来ないのだが、絶望の淵にある一郎にとっては、物思いにふけること自体がある種の拷問だ。将来どころか、今現在の自分の境遇への不安で押しつぶされそうになる。正直、自ら命を絶ってしまいたいと思ったことも一度や二度ではないが、それが許される体でないのは、不幸中の幸いと言えるのか微妙なところだった。
だから、一郎は訪ねてくる者がない時の殆どを、睡眠に当てていた。睡眠と言っても、浅く緩慢な眠りだ。なんとなく周囲の音や光も感じ取っているくらいの、半覚醒状態に近い。
――そのせいなのか、最近の一郎はよく夢を見ていた。以前もよく見た、まだ昏睡状態に陥る前の夢だ。
夢の中の光景はあまりにも色鮮やかで、それが夢だとは信じられないものが多かった。「こっちが現実だったら良かったのに」と思わせる程に現実感があった。
しかし、それでいて一郎には「これは夢だ」という実感が強くある。所謂「明晰夢」というやつなのだろう。
今日はどうやら、高校時代の夢のようだ――。
***
「おい小山内。物理のプリント出してないの、お前だけだぞ。早くしろよ」
放課後の教室の騒がしい中に、やや低音のよく通る声が響いた。振り返ると、見慣れた顔が目に入った。
切れ長の目にやや浮き出た頬骨、全体の造形は決して悪くないのだが、いつも不機嫌そうな表情をしているので異性には人気がない。身長も一郎よりは少し高く、運動は苦手なのだが勉強は出来る――一郎の悪友である代田勝がそこにいた。
「物理のプリント……?」
はて、と思いながら周囲を見回すと、どうやらそこは高校一年生の時の教室のようだった。一郎と弥生、椛田、そして代田を中心とした「大人まで続く腐れ縁」グループが、唯一全員同じクラスになった時だ。一郎にとって、一番楽しかった時期の一つでもある。
「そうだよ。提出期限は今日の放課後、つまり今だ。遠見の奴、ああ見えて厳しいらしいから、提出遅れたら容赦なく追加課題喰らうぞ」
そう言えば、とふと思い出す。高校一年の頃に物理を教わっていたのは、遠見という初老の男性教師だった。いつもニコニコしている一件優しそうな先生なのだが、実際には大変厳しいタイプで、成績不良者や課題提出が遅れた者には地獄の追加課題が待っているのが常だった。
カバンの中を探ると……あった。きちんと答えが全て埋まっている課題のプリントだ。夢の中だから都合よく出て来たのか、それとも実際にあった出来事なのか、そのどちらなのかは分からない。が、少なくとも一郎に物理の授業で問題を起こした記憶はないので、別にどちらでも良かった。
「よろしく」
「……次はちゃんと、早めに出せよ」
一郎がプリントを手渡すと、代田はひったくるように受け取り、教室を出て行った。「そう言えば、なんで代田がプリントの回収をしていたのだっけ? 何かの委員だったろうか」等と、夢の中にも拘らずぼんやりと考えてしまう。
思えば、代田が一郎に話しかけてくるのは、必ずと言っていい程何かの駄目出しをする時だった。高校時代の一郎は、生真面目ではあったがその反面、課題の提出し忘れ等も多く、代田にピシャリと叱られることが多かったのだ。
(そんな代田と大人になってもつるんでたんだから、不思議な縁だよな)
決して仲が良いわけではなかったはずだが、気付けば同じグループに属し共に行動することが多くなり、大人になっても縁は切れなかった。本来の意味とは違うのだろうが、一郎は自分と代田の関係を「悪友」と呼んだものだ――。
***
――ゆっくりと目を開ける。そこに広がっていたのは放課後の教室ではなく、天井ばかりが見える病室の景色だった。
時計を見やると、十八時と少し前。もうそろそろ夕食の時間だ。どうやら目覚まし時計ならぬ腹時計によって、夢から覚めてしまったらしい。
「思い出も空腹には勝てない、か」
指一本動かすのがやっとの身体でも腹は減る。それが「生きている」ということなのだろうが、今の一郎にとってはそれすらも苦痛に思えてしまう。それ故の自嘲気味な独り言だったのだが、
「昔の夢でも見ていたの?」
丁度その時、弥生が夕食を乗せたワゴンを運んできた。どうやら、恥ずかしい独り言を聞かれてしまったようだ。
「高校時代の夢を見ていたのさ。随分と鮮明な夢だったよ。なんでもない日常の光景なのに、はっきりと覚えてるものなんだな」
「……一説によれば、人間の思い出って『忘れた』訳じゃなくて『思い出せない』だけ、らしいわ。だから、日常の何でもない出来事をふと鮮明に思い出すこともあるんだとか」
「へぇ。それなら、俺が川に落ちた時の記憶も、いつか思い出せるのかな? 思い出しても、いい事はなさそうだけど」
昏睡の原因になった川に落ちた時の出来事は、まだ全く思い出せていない。大方、酒に酔って足を滑らせるとか、そういった間抜けな出来事なのだろうから、思い出さない方が幸せなのかもしれない。
「慌ててても仕方ないわ。気長にやりましょうよ。……それで、高校時代の夢って、何を見たの?」
「ああ。なんでか、代田のやつが『物理のプリントを出してないだろ』って言ってくる夢でな。多分、本当にあった出来事なんだろうが、いつのことなのかも判然としないし、なんであんな些細なもんを思い出すのか、全く分からん」
代田の名前が出たことで、夕食をベッドテーブルに並べていた弥生の手が一瞬だけ止まった。
そう言えば、と今更ながら一郎は思う。今の弥生の苗字も悪友と同じ「代田」だ。苗字が変わったということは、結婚したということだ。「代田」という姓を持つ誰かと。
その「誰か」が、一郎の知らない別の「代田」であると考えるのは、むしろ不自然ではないのか。今まで考えないようにしていたが、もしや弥生の結婚相手というのは――。
「なあ、弥生。今まで余裕がなくて訊いてなかったんだけど、お前の結婚相手って……」
「ああ、うん。ごめんなさい、ずっと言いそびれてたけど……多分、一郎くんの考えてる通りの人よ」
「マジか」
それ以上の言葉は出てこなかった。もし目覚めたばかりの頃に教えられていたら、きっと複雑過ぎる感情が一郎を襲ったことだろう。だが、今の一郎には、激しく揺さぶられるだけの感情が消え失せている。何もかもを現実として受け入れなければ、ただただ後悔の念に押しつぶされてしまうだけだから。
そんな、ある種の諦観、あるいは達観がそうさせたのか、気付けば一郎は「おめでとう」の言葉を口にしていた。
「……怒らないの?」
「そんな権利は、俺には無いよ。二十年間も眠っていた方が悪い」
「一郎くん、そんな言い方は……」
「悪い。でも、全ては済んでしまったことだろう? 俺が今更何かギャーギャー騒ぎたてたって過去が変わる訳じゃないし、失った二十年が戻ってくる訳でもないよ――そんなことより、腹が減ったんだが」
「あっ。ご、ごめんなさい。すぐに準備するわね」
慌てながら、しかしテキパキと夕飯を用意すると、弥生は淀みない手つきで一郎に食事を与えていった。そこには何かの感情が挟まる余地はなく、熟練の看護師が自らの職責を果たそうとする丁寧さしか感じられない。
(まいったな。全く味がしないわ)
一郎は一郎で、義務的に流動食じみたそれを食み、嚥下していく。最初の頃は酷くむせたものだが、最近では飲み込むのに苦労もしなくなってきた。
どちらかの手が使えるようになれば、この赤ん坊なのか老人なのかよく分からない受動的な食事も少しまともになるのだろうか? 味気ない食事を続けながら、一郎は自分が生きている意味について考えないよう、心を無にすることに徹していた。
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