第四話「そして誰もいなかった」

 ふと、目が覚めた。カーテン越しに明かりが漏れているが、これは照明の光のようだ。一郎が寝ている部屋は、基本的に消灯しないらしい。そのせいで、時折今が昼間なのか夜なのか、よく分からなくなることがある。

 ベッドサイドを見やる。そこには床頭台と呼ばれる車輪付きのチェストが置かれていた。本来は入院患者の日用品を仕舞っておく為のものらしいが、今の一郎には無用の長物だ。中には看護師たちが使うタオルやら器具やらが入ってるはずだ。

 その上に、少し前までは無かったものがちょこんと置かれていた。小さな置時計だ。デジタル表示で、西暦と日付、時刻を音もなく刻んでいる。

『2024/4/22 AM1:25』

 一郎にとって残酷なだけの現実の、その一つが見せ付けられるように表示されている。自分は本当に二十年後の世の中に目覚めたのだと、突き付けられているような気分だった。

(それに……もう、皆いないだなんて)

 昼間のことを思い出す。「もう皆、死んでるから」という、初対面の姪から伝えられた残酷な事実を受け止め切れず、一郎はその場で気を失った。

 愛する父が、母が、そして姉が。誰一人もうこの世にいないだなんて。二十年間眠りについていたことと同じくらいか、それ以上に認めたくない話だった。

「う、ううう……」

 知らず、嗚咽が漏れる。既に目からは滂沱の如く涙が溢れ、枕元へと滑り落ちている。

(あんまりだ。こんなの、あんまりだ)

 最後に見た三人の姿を必死に思い出す。

 姉は過保護で、旅行に出かける直前まで「あれはどうした。これはどうした」と忘れ物のチェックに余念がなかった。

 母は既にパート先に出ていて、出発の日には顔を合わせていない。前日に「おやすみ」を言ったのが最後だ。

 父にいたっては、連勤続きで最後に顔を合わせたのがいつなのかさえ、はっきりしない。もしかすると、朝のトイレがかち合って、じゃんけんで順番を決めた時が、父と会った最後かもしれない。

 物心ついてから「親はいつか見送る時が来るもの」と、ぼんやりとした不安と寂しさを感じてはいた。けれども、まさかこんな形の別れになるなど、誰が予想出来るだろうか? 姉にいたっては、一郎と二歳しか違わないのだ。むしろ、あちらの方が長生きする等と思っていたくらいなのに――。

「小山内さん? 大丈夫ですか」

 と、その時。カーテンの向こう側から大柄な影がぬっと現れた。看護師の酒井だった。

 一郎を担当している看護師の一人で、身長一八〇センチを超える巨漢だ。昔は柔道選手だったらしく、全身これ肉の塊といった風情がある。体つきも顔も四角いので、なんだか冷蔵庫の上に鬼瓦が乗っているような印象だ。年齢は三十歳くらいだろうか。

「あ、いえ……すみません、うるさくして。ははっ、恥ずかしいな、いい年して、こんな」

 一郎の病室は集中治療室のようなものらしく、ナースステーションと直接繋がっている。恐らく酒井は、一郎のすすり泣く声を聴きつけて様子を見に来てくれたのだろう。

「とんでもありません。ご家族のことを聞いたのでしょう? 泣いて当たり前ですよ。僕だって、もし両親をいっぺんに失ったら……」

 酒井がその分厚い手で、一郎の手を力強く包み込む。弥生や松浦もよくこうしてくれるが、看護師特有の仕草なのだろうか。不思議な安心感がある。

「やよ……代田さんは?」

「看護師長なら、本日は帰宅しました。ここのところずっと病院に泊まりっきりだったので、流石に上から怒られまして」

「――っ」

 思わず言葉を呑み込む。自惚れかもしれないが、弥生は一郎の為に病院に泊まり込んでくれていたように思える。彼女にも家族があるだろうに。

「ええと、その、俺の姪? の――」

「美佳さん?」

「そう。美佳は、どうしましたか」

「小山内さんが気を失ってすぐお帰りになったみたいですね。また近い内に来るそうですが」

「そうですか……ありがとうございます」

「いえいえ。今日は僕と、もう一人当直がいますんで、何かあったら声、かけてくださいね」

 鬼瓦のような顔をしているのに、酒井の物腰は最後まで優しかった。流石は看護師と言ったところだろう。

 ――再び一人になり、一郎は大きくため息を吐いた。

 二十年もの時を失った。

 大切な家族はもういない。

 自力ではベッドから起き上がることすら出来ない。

 唯一の肉親らしい姪は、なんだか冷たい。

(これから、どうすればいいんだ)

 ナースステーションにいる酒井に聞こえぬよう、一郎は心の中で弱音をこぼした。


   ***


 姪の美佳が再び一郎を訪ねてきたのは、それから数日後のことだった。しかも、一人ではない。見事に禿げ上がった年配の男性と一緒だ。

「一郎くん、私が分かるかい?」

 男性が一歩前に出てそう言った。顔が分かるようにという配慮か、一度マスクを下げて、再びきちんと付け直す。右足が悪いのか、先程から少し引き摺るような歩き方だ。一郎は、そんな歩き方をする人物に一人だけ心当たりがあった。

「もしかして……中川先生ですか? 父の知り合いの弁護士の」

「そう! よく、よく覚えていてくれたね、一郎くん!」

 感激しながら、一郎の動かせぬ手をしっかりと握る中川。少し痛かったが、それよりも喜びの方が上だった。

 中川は、一郎の父の剛堂が懇意にしていた弁護士だ。一郎とも面識があり、家に遊びに来たこともある。一郎の父はよく「父さんに何かあったら、中川先生を頼りなさい」と言っていたものだった。

 尤も、一郎が知っている中川は、まだ四十半ばの男盛りだ。髪も黒々としていた。それが今や、すっかり「おじいさんの入口」に立っている。時の流れの残酷さを改めて思い知る。

「本当に……本当に、よく目覚めてくれた。君のご両親やお姉さんが生きておられたら、どれだけ喜んだことか」

「あの、先生。両親や姉は、本当に?」

「残念ながら。今日は、弁護士としての仕事が半分、もう半分は君のご家族をよく知る者の一人としての責任を果たす為にやってきたんだ。――君が眠っていた二十年で小山内家に何があったのか、一番よく知っているのは、おそらく私だからね」

 ビジネスバッグから何冊かのファイルを取り出しながら、中川が看護師の用意してくれたベッドサイドの椅子に腰かける。一方の美佳は、つまらなそうな表情でベッドの足元に立ったままだ。一郎とは目さえ合わせてくれない。

「教えてください、先生。俺の家族に、一体何があったんですか?」

 一郎の問いかけに深く深く頷くと、中川は静かに語り出した。小山内家に降りかかった不幸と、必死に足掻いた彼らの二十年間を。


   ***


『脳に大きな損傷がないにも拘らず、意識が戻らない。いつ目覚めるとも知れない』

 一郎の回復を待つ戦いが長期に亘ることを知った小山内一家の決断は早かった。

 家族が通いやすいようにと、すぐに地元の救世山総合病院への転院を決めた。

 父の剛堂は少しでも長く働き家計と一郎の入院費を賄えるよう、自らのキャリアプランを一から練り直した。

 母と姉は、一郎がいつ目覚めてもいいように、毎日のように病院へ通い、関節が固まらないように手足の曲げ伸ばし等の処置を行なった。

 言葉にすれば単純なことのようにも思えてしまうが、実際には彼らの人生を一変させてしまう程のインパクトがあったことは、一郎にも想像出来た。

 姉の優子はアパレル系の会社で総合職としてバリバリ働いていたはずだが、一郎のことをきっかけに地元の中小企業の事務に転職したそうだ。自分のキャリアを捨ててまで、弟の回復を信じ支え続けたことになる。

 整形外科医だった父は勤務医で一生を終えるつもりだったが、自ら医院を開業。定年を気にせず働き続けようとした。

 母はそんな二人を支える為にパートを辞め、父の医院の手伝いと家事を担当した。自由な時間は殆どなかったそうだ。

 そんな家族の献身にも拘らず、一郎は季節が一巡りしても、二巡りしても、二度のオリンピック開催を経てもなお、目覚めなかった。

「俺の……俺のせいで、家族が……」

「犠牲になった、なんて思っちゃいけないよ、一郎くん。お父さんもお母さんもお姉さんも、大切な君の為にやったことなんだ。苦になんかしてなかったはずだよ――優子ちゃんには、美佳ちゃんという素敵な娘も生まれたしね」

 中川が美佳のことをチラリと見やるが、当の美佳はスマホを弄っていて目もくれない。

「あ、そういえば。姉は誰と結婚したんですか? というか、美佳……ちゃんが小山内姓なのは、どうして?」

「ああ、そのことかい。美佳ちゃん、話してもいいかい」

「どうぞ。どうせ、その内勝手に知るでしょうし」

「許可も出たので、改めて。優子ちゃんはね、一郎くんの看病に奔走している時に支えてくれた男性と結婚したんだ。君も知っている人だよ」

「えっ」

 中川の言葉に、思わずギョッとする、優子と結婚しそうな相手で一郎も知っている男など、見当も付かなかった。

「椛田丈志さん、覚えているかい?」

「え、ええ。俺の高校からの友達ですけど――って、まさか」

「うん。その椛田さんが美佳ちゃんの父親なんだ。数年前に離婚してしまったけどね」

「まさか、姉貴と椛田が?」

 全く予想外の組み合わせだった。確かに椛田は、一郎を通じて優子とも面識があった。けれども、逆に言えば接点はそれだけだ。ついでに言ってしまうと、椛田は優子の好みのタイプとは正反対の男だ。姉のお眼鏡に適ったというのは、俄かには信じられなかった。

「叔父さんの言いたいことは分かるよ。だから離婚したの」

 話自体は聞いていたのか、美佳が初めて自分から口を挟んできた。その声音にはどこか嫌悪感が漂っていて、一郎はこの姪が父親と良好な関係にはないことを薄っすらと感じ取った。

 ――中川の話は続く。

 一郎が目覚めぬ中でも、家族は決して悲観せずにお互いに支え合い懸命に生きていた。けれども、まず父の剛堂が倒れた。若い頃の無理がたたったらしく、脳や内臓に複数の疾患を抱えることになった。

「病院の経営は他の人に譲ってね。それでも、理事として、医師として最後まで現場を離れなかったんだ。けれども、二〇一五年に、遂に力尽きてね」

 剛堂、享年七十歳。多くの人に惜しまれる死だったという。

 一家の大黒柱を失った小山内家だったが、剛堂は自分の死の可能性をも考慮して財産を遺していた。十分な預貯金や保険金により、母と姉は生活に困るようなことはなかったそうだ。その頃から、母の美枝の口癖は「どうせなら百まで生きてやるわよ」になったらしい。

 けれども――。

「健康そのものだった美枝さんを不幸が襲ったのは、今から四年前、二〇二〇年のことだよ。――一郎君は、新型コロナウイルスのことを知っているかい?」

「新型……なんです?」

「そうか、まだ知らないのだね。簡単に説明するとね、ここ数年間で世界の状況はすっかり様変わりしてしまったんだ。新型のコロナウイルス――風邪の原因ウイルスの一つだね――これが世界中に蔓延して、それは大騒ぎになったんだよ。夥しい数の方が亡くなって、世界の平均寿命を大幅に押し下げてしまったんだ」

「ええっ!?」

 コロナ禍の間も眠り続けていた一郎には、まさに寝耳に水だったであろう。

「そんな大事があったんですか。まるで『復活の日』だな……。って、もしや、母はそのウイルスに?」

「ああ。今はワクチンも数多くあるが、当時はまだ開発中でね。美枝さんは、日本でウイルスが蔓延し始めた頃に運悪く感染して、そのまま――」

 中川の話によれば、母は厳重に隔離されたままの状態で息を引き取り、優子さえもその最後を看取ることが出来なかったのだという。二人は仲の良い母娘だった。一郎のことを差し引いても、優子の哀しみと絶望は察するに余りある。

「厄介なウイルスでね。私たちがこうしてマスクをしているのも、病院内にウイルスを持ち込まない為なんだ」

「ま、まだ収まってないんですか!?」

「残念ながらね。感染拡大が長引きすぎて、国はもう対策の為の補助金も出してくれないよ。今は、個々人が対策するしかない状態だ――と、話がずれたね。ちょっと失礼」

 中川がマスクをしたまま一郎に背を向け、小さく咳をした。一郎は「マナーが良いことだな」等と呑気に思ったが、後にそれがウイルス拡散を防ぐ「念の為」の行動だと知った時には、ひどく驚くことになる――。

「父が九年前、母が四年前、ですか。それで、その……姉貴は、いつ?」

 我知らず声が震える。平静を装ってはいるが、一郎の心は壊れそうな程に痛みを訴えていた。それでも、知らねばならぬという強い思いで、なんとか踏ん張っているのだ。

「優子ちゃんは……一郎くん、気を強く持って聞いて欲しい。優子ちゃんが亡くなったのはね、今年の三月なんだ」

「三、月? えっ、だって今は……」

 チラリと、近くに置かれた時計を見やる。日付は「4/25」となっている。一郎が目覚めたのは二週間ほど前である。つまり――。

「そ、そんな……じゃあ姉貴は、俺が目覚める本当に少し前に……?」

「事故だったそうだよ。一人で車を運転中にハンドル操作を誤って、崖から転落したんだ」

 中川がチラチラと美佳の方を盗み見しながら、優子の死因を語った。一方の美佳は気にした風もないように見えるが、その実、スマホを握る手が小刻みに震えていた。聞けば、美佳はまだ十八歳の大学一年生だという。精神年齢が二十五歳の一郎から見ても、まだギリギリ子どもと呼べる歳だ。親を亡くしたばかりの娘の反応としては、むしろ気丈な部類に入るだろう。

 ――だから一郎も、その場で叫び出したい衝動を必死に抑え込み、冷静さを装うことが出来た。


   ***


「中川先生、家族の最期の様子を教えてくれて、ありがとうございました」

「一郎くん……大丈夫かい? 無理は、していないかい?」

「大丈夫です。受け止め切れたと言えば嘘になるでしょうが……どの道、この体じゃ絶望して家族の後を追う、なんてバカなことも出来ませんから。少しずつ受け止めていきます」

 腕が動けばガッツポーズでもするところなのだろうが、残念ながらまだピクリとしか動かせない。仕方なく、一郎は引きつりそうな表情筋を総動員して、強がりの笑顔を浮かべてみせた。

「そうか。なら、次は弁護士としての仕事をしよう。主に相続や保険金の扱いについてだね。手続きの殆どは私や税理士の先生方で行うことになっていたのだが、君が目覚めたのなら少しやり方が変わってくるんだ。大変だとは思うが、書類に目を通してもらう必要があってね。署名なんかは、私や美佳ちゃんが代わりに出来るものも多いんだが」

「美佳……ちゃんが? でも彼女、まだ十八歳ですよね? 未成年が俺の代理なんて出来るんですか?」

「ああ、そうか。一郎くん、びっくりするだろうけどね、今の日本の成年年齢は十八歳になってるんだ」

「ええっ!?」

 ――成年年齢が二十歳から十八歳に引き下げられたのは、二〇二二年の四月のことだ。一郎が知っているはずはなかった。

「お蔭様で、父の世話にはならずに済んでるよ」

 自分の名前が出たからか、珍しく美佳が自分から会話に参加してきた。

「ということは、美佳、ちゃんは」

「呼び捨てでいいよ。『ちゃん』って歳でもないし」

「そうか。……美佳、は一人暮らしなのか?」

「違うよ。中川先生のところにお世話になってる。一人暮らしだと、父が気軽に訪ねてきそうなんで」

 それだけ言うと、美佳はまたスマホの虫に戻ってしまった。まだスマホを自分で扱ったことのない一郎には、「何がそんなに楽しいんだろう?」と、とても奇異な光景に見えた。

「ああ、叔父さん。それと、もう一つ」

「うん?」

「私には私の生活があるから、叔父さんのリハビリを手伝ったり、親戚づきあいをしたりする気はないから。色んな手続きが済んだら、基本的にもう会うことはないと思ってね」

「えっ……」

 スマホを弄ったまま、「ちょっとゴミ出ししておいて」くらいの雰囲気でとんでもないことを言い出した美佳。そのあまりの素っ気なさに、一郎は今度こそ言葉を失ってしまった。

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