第三話「家族」

「一郎くん、もう朝よ。起きて」

「……んっ」

 弥生の声に目を覚まし、ゆっくりと起き上がる。ぼんやりとした視界に広がるのは、どこか南国をイメージしたお洒落な寝室。明らかに自分の部屋ではない。

「もしかして寝ぼけてる? 大丈夫?」

「……いや、大丈夫だ。そっか、旅行に来てたんだったな」

 ゆっくりと伸びをしながら弥生に答える。そうだ、一郎は恋人の弥生や友人の椛田達と共に、山梨へ旅行に来ていたのだった。

 男三人、女三人の総勢六名の小旅行。だが、恋人同士なのは一郎と弥生だけで、あとはただの友人だ。だから、部屋は男女別々。旅先というシチュエーションを活かした恋人同士のお愉しみは、残念ながらお預けだった。その代わり、昨晩は温泉を楽しんだ訳だが。

 一郎の隣のベッドでは、椛田がその小太りな身体を揺らしながら、軽くいびきをかいていた。その姿はさながら陸に打ち上げられた海獣のようであり、一郎は思わず吹き出しそうになってしまった。

「おい、椛田。もう朝だぞ」

「う~ん……あと五分……」

「ふふっ。椛田くん、昨日の運転で疲れたのよ。それに、昔から朝は弱かったもんね」

「そう言えば、高校の時はよく遅刻スレスレに登校してたな。お母さんか誰かに車で送ってもらってたんだったか」

 椛田の一族は地元では有名な資産家で、彼の両親も名だたる企業の株や都内の一等地を多く所有している、本物の金持ちだ。かなり甘やかされて育ったらしく、椛田自身もかなり浮世離れしている。

 それでいて、高校は一郎達と同じ地元の公立校に進学したのだから、なんとも意味が分からない男だった。

「まっ、こいつは寝かせておくか。先に朝飯にしようぜ」

「そうしますか」

 ちょっと悪い笑顔を浮かべながら、弥生が答える。

「――っ」

 思わず、その笑顔に見惚れてしまう。高校時代から変わらぬ美人振りは、二十代半ばになっていよいよ大人の色気を身に付け始め、色褪せることがない。

「どうしたの? 私の顔なんかじっと見つめて」

「いや、なんか、な」

 照れくさくて言葉を濁す。「お前に見惚れていた」なんて、恥ずかしくて言えるはずもない。

 ――ああ、でも。今思えば、きっときちんと伝えておけばよかったのだ。これが二十代の弥生をまじまじと見た、最後の時だったのだから。


   ***


 パチリと目を覚ますと、いつもと同じ病室の天井が目に入り、一郎はため息と共に朝を迎えた。何やら幸せな夢を見ていたようだが、これが今の一郎の現実だった。

『今は西暦二〇二四年で、一郎は二十年間も昏睡状態だった』

 集貝医師から衝撃の事実を伝えられたのが、昨日の昼のこと。最初は何かの冗談かと、実は今日は四月一日じゃないのかと、半笑いで受け止めた一郎だったが、集貝医師が見せてきた画面だけのノートパソコン――タブレット端末と呼ぶらしい――に映し出された新聞の日付や、「スマホ」という見慣れぬ形の携帯電話、何も映らないアナログ地上波テレビの画面を矢継ぎ早に浴びせられ、頭の中で警告音が鳴り響き始めた。

 そして、止めの一撃が何より強烈だった。代田看護師長が持って来た手鏡。何の変哲もないそれが一郎に突き付けられた時、そこには悪夢としか言いようのないものが映っていた。

 やせ細り落ちくぼんだ目。

 髭だらけのたるんだ皮膚。

 張りのないカサカサの頬。

 ――鏡の中にあったのは、どう軽く見積もっても四十路は超えていそうな男の顔だった。全く知らない中年男だ。一郎が瞬きをすると彼も瞬きし、口を開けると真似をするように彼も口を開けた。タイムラグは全くのゼロだ。

 これ以上ない、残酷な証拠だった。

「二十年、か。ははっ、浦島太郎よりはマシかもしれないな」

 自嘲気味に独り言ちる。あまりにもショックだったからか、いつの間にか一郎の口調は流暢になっていた。本人は全く気付いていないが、ある種のショック療法のような効果があったのかもしれない。

 体の方も劇的に回復していればそれこそ奇跡だったのだろうが、残念ながらまだ指一本動かすのがやっとの状態だった。

 しかし、体が動かないのはむしろ良いことだったかもしれない。もし一郎が自力で動けていたなら、衝動的に自殺にでも走っていたかもしれないのだ。二十年もの時を昏睡状態で過ごしていたという事実は、それほどまでに衝撃的なことだった。

「……ま、これなら、ジジイになってから目覚めてた方が、まだマシかもしれねぇがな」

 一郎が自嘲気味に呟いた、その時だった。

「そんなこと言わないで。少なくとも、貴方が目覚めてくれて嬉しいと思っている人間が、ここに一人いるのよ」

「代田さん……」

 いつの間にやって来ていたのか、看護師長の代田が悲しそうな視線を一郎に向けていた。いつもの丁寧語は消え失せている。どうやら、これが彼女の素の口調らしい。

「そりゃ、代田さんたちは懸命に看護してくれたんだろうけど、二十年だぜ? 代田さんだって、二十年間ずっと俺の看護をしてた訳じゃないだろ?」

「……いいえ。ずっとよ。ずっと、二十年の間、貴方が目覚めるのを待っていたのよ」

「ええっ? ええと、ずっと俺の担当だった、ってこと?」

「そうじゃなくて……。そうよね、はっきり言わないと、分からないわよね。二十年も、経ってるんだから」

 そこで代田は、初めてマスクを外した。整ってはいるが化粧っ気のない口元が顕わになる。深く刻まれたほうれい線から見るに、やはり一郎よりも二十は年上――否、同年代の四十路のようだ。

「……?」

 そこでようやく、一郎はあることに気付いた。初めて見た時から、代田の顔にはどこか見覚えがあった。マスクを外したことで、ようやく彼女が一郎のよく知っている人物にそっくりだということが分かったのだ。

 随分と歳をとってはいるが、彼女は――今朝、夢でも見た愛しい――。

「もしかして……弥生、か?」

「ええ。私よ、一郎くん」

 目尻に涙を浮かべながらにっこりと笑うその姿は、確かに一郎のよく知る恋人のものだった。


   ***


「なんで最初に言ってくれなかったんだ」

「ごめんなさい。二十年も眠っていたという事実を伝えるタイミングは、集貝先生に一任されていたの。だから、私が先に伝える訳には行かなかったのよ。どうか、許して」

「いや、そこまで謝られると……逆に困る」

 目を伏せる弥生の姿に、一郎は思わず言葉に詰まってしまった。ただでさえ、見事な中年女性となってしまった弥生の姿に違和感をぬぐい切れないのだ。気を抜くと敬語で話してしまいそうになる。

 自分がもう四十五歳の中年男であることは認めざるを得ない。だが、だからと言って体感時間で数日前まで二十五歳だった一郎が、急に中年男らしい人格を持てる訳ではない。一郎の主観では、自分はまだ二十五歳の感覚なのだ。

「誰も見舞いにも来てくれないって、へこんでたんだぜ?」

「それは……ええ、誰かがお見舞いに来てしまえば、二十年も経ってることがすぐに分かってしまうと思ったから。ごめんなさい」

「だから、謝らなくてもいいから。それで、家族はいつ見舞いに来てくれるんだ?」

「あっ――ええ、ええ。連絡は入れたから、今日明日には来てくれると思うわ」

 何だろうか。弥生が一瞬だけ言い淀んだ様子に、一郎はぼんやりとした不安を感じた。もしや、まだ何か隠しているのだろうか。

「そう言えば、ここはどこの病院なんだ? 山梨?」

「いいえ、ここは救世山くぜやま総合病院よ」

「救世山? なんだ、地元じゃないか」

「救急搬送されたのは山梨の病院だったわ。容体が落ち着いた頃に、転院したのよ」

「容体が落ち着いた頃、ね」

 意識が戻ってもいなかったのに「容体が落ち着いた」とはどういうことなのか。一郎は思わず不満げに鼻を鳴らしてしまった。

「そもそも、俺はどうして昏睡状態になんてなったんだ? バーベキューをやった辺りまではなんとなく覚えてるんだが」

「……一人でいる時にね、川に落ちたのよ。その時に川底で頭を強打して、そのまま」

「川に? なんだそれ。俺、飛び込みでもやろうとしたのかな」

「覚えてないの?」

「全く」

 そもそも、バーベキュー場沿いの川はかなりの急流だった。加えて、一郎は泳ぎに自信がない。不用意に近付くとは思えなかった。

「不幸中の幸いだったのは、すぐに川岸に流れついて、殆ど水を飲んでなかったこと。私と椛田くんが倒れてる貴方を発見して、すぐに救急車を呼んで……脳にも脊椎にも深刻なダメージは無かったのに、ずっと意識が戻らなくて」

「とんだ世話をかけちまったな。はは、随分と長い休みをもらっちまったんだな、俺」

 自嘲気味に呟く一郎の手を、温もりがそっと包む。加齢と仕事の影響か、弥生の手は記憶の中のそれよりもかなりガサガサになってしまっていた。けれども、その優しい温もり自体は少しも変わっていなかった。

「いいのよ。これからゆっくり、社会復帰していきましょう。私も出来るだけ協力するから――何があっても、絶対に」

「頼りにしてるよ。……そう言えば、弥生は『看護師長』だったか。出世したんだな」

「しがない中間管理職よ――さ、まだちゃんと喋れるようになったばかりだから、あまり無理をしないで? って、沢山喋らせたのは私か」

 ペロッと舌を出しておどけて見せる弥生。その姿が一瞬だけ二十五歳の彼女に見えた。


   ***


 その日の夕方のことだった。リハビリのような何か――看護師や理学療法士に一方的に手足を曲げ伸ばしされる拷問――が終わった頃を見計らって、集貝医師と弥生が病室へとやってきた。気のせいか、二人ともに表情が重い。

「何か、ありましたか?」

「こんにちは、小山内さん。……良い知らせと悪い知らせがあります」

 集貝医師の言葉は単刀直入だった。その表情から、一郎は「どちらかというと悪い知らせが本命では」と感じた。

「……漫画の中でくらいしか聞いたことがない台詞ですね。いいですよ、聞かせてください。覚悟は出来てるって言ったら嘘になりますが、二十年間も眠っていたんです。今更、大概のことでは驚きませんよ」

「分かりました、助かります。では、良い知らせの方から――お入りください」

 集貝医師がカーテンの外へ呼びかけると、ベッドの足もと――カーテンの切れ目から一人の若い女性が姿を現した。

「お、姉貴」

 考えるよりも先に、一郎の口から言葉が漏れ出る。現れたのは、一郎の姉の優子だった。マスクを付けているので顔の半分は見えないが、一郎が見間違えるはずもない。少々ブラコンが過ぎること以外は欠点の見当たらない、自慢の姉がそこにいた――のだが。

(あ、あれ?)

 今度は口に出さず、心の中でつぶやく。何かがおかしかった。

 優子は一郎の二つ年上の姉だ。だから、今年で二十七歳――な訳がない。一郎の主観から、既に二十年の時が流れているのだ。優子は既に四十七歳になっていなければおかしかった。

 にも拘らず、目の前の女性はよくて二十歳そこそこだ。優子にそっくりだが、彼女のはずがないのだ。

「ええと……?」

 助けを求めるように、集貝医師と弥生に視線を送る。集貝医師は更に弥生を視線を送り、説明を促した。

「一郎くん。分かっているとは思うけど、この人は優子さんじゃないわ。優子さんの娘の美佳さん。つまり、貴方の姪よ」

「俺の……姪だって?」

 一郎の覚えている限り、姉の優子は独身だったはずだ。当然、子どももいなかった。ということは、この美佳という名の姪は、一郎が昏睡状態になってから生まれた子ども、ということになるだろうか。

 「父親は誰だ」だとか「それにしても姉貴そっくりだ」だとか、色々な言葉が一郎の頭の中でグルグル回る。

「――初めまして、と言えばいい? 顔だけは何度も合わせてたけど、意識がある貴方と会うのは初めてだもんね。ということで、改めて。初めまして、一郎叔父さん。私は小山内美佳、貴方の姉の娘で、。仲良くする気はないけど、以後よろしく」

「あ、ああ、よろしく……? いや、待て。君、今なんて言った?」

「以後よろしく?」

「いいや、その前! 前だよ。『唯一の肉親』って言わなかったか?」

「言ったわね」

 美佳が、感情が全く籠っていない返事をする。声まで優子に似ているのに、一郎に対する態度は全く似ていなかった。一郎の背筋に、何か冷たいものが走る。

「き、君のお母さんがいるだろう? 親父と母さん……君のおじいちゃんとおばあちゃんだって」

「いないわよ」

「はっ?」

「だから、いないわよ、三人とも。もう皆、死んでるから」

 何でもないことのように言い放った美佳の言葉に、一郎の目の前は文字通り真っ暗になった。

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