第二話「眩しい世界に目覚めて」
最初に感じたのは眩しさだった。瞼を薄っすらとしか開けていないのに世界はとても眩しく、視界の殆どが白一色に染まっている。
次いで、息苦しさが襲ってきた。喉に何かが詰まっているような感覚があり、息をする度に「ヒュー」という不快な音が響く。酷い喉風邪をひいた時の数十倍の不快感だ。
少しはしゃぎ過ぎて疲れが出たのかもしれない――そう考えてから身を起こそうとして、ようやく気付く。身体が全く動かない。まるで明け方に悪夢にうなされながら金縛りにあった時のように、手足の感覚は薄っすらとあるのだが、力が全く入らないのだ。
そこでようやく、白一色だった視界にぼんやりと像が蘇り――一郎は、自分が見知らぬ天井を見上げて横たわっていることに気付いた。クリーム色の飾り気のない天井だ。宿泊先のホテルのものではないし、もちろん自分の部屋のものとも違う。
(どこだ……ここは?)
――記憶を探る。自分は確か、仲間達と共に二泊三日の旅行で山梨県へとやって来ていたはずだ。
車の中で眠気に身を任せたことまでははっきりと覚えているが……どうも、その後が判然としない。薄ぼんやりとしていた。
予定通り、温泉付きのリゾートホテルに泊まった……と思う。
椛田の車で川沿いのバーベキュー場へ向かいワイワイと肉を焼いた……気がする。
それから――それから、どうした?
「小山内さん? 分かりますか? 小山内さん?」
一郎の思考を邪魔するように、誰かが彼の名を呼んだ。やけに耳にキンキンとくる、女の声だ。強めの目薬を差した時のようなひり付く痛みを我慢しながら眼球を動かすと、いた。マスクを付けた中年の女性が、傍らから一郎の顔を覗き込んでいた。一郎の名を呼び続ける表情はマスク越しでも分かるほど真剣そのもので、鬼気迫ると言った感じだ。
(耳元で大声を出さないでください)
そう女性に伝えようとするが、喉が上手く動いてくれない。声帯はヒューヒューと弱々しい風切り音を奏でるだけで、人間の言葉を忘れてしまったらしい。仕方なく、口の動きでなんとか意思を伝えようとして、はたと気付く。口には何か硬いものが突っ込まれていて、開いたままだ。その何かは舌を押さえつけ、更には喉の奥にまで達しているようだった。
(なんだ……これは?)
軽くパニックになりながら、口に突っ込まれた何かを引き抜こうと手を動かす――が、ピクリとも動かない。それどころか、力を入れようとすると電気を流されたような痛みが関節という関節を襲い、音にならない悲鳴が上がる始末だ。顔の筋肉も同様らしく、痛みに顔をしかめたくても表情筋はピクリとも動いてくれず、代わりに焼けるような痛みが顔中を襲った。
「小山内さん、無理に動こうとしたり喋ろうとしたりしないで。今、先生が来ますから、ゆっくり呼吸をして、私の目を見てください」
「――」
一郎の手を優しく握りながら、中年の女性が呼びかける。よく見れば結構な美人のようだが、目尻の皴等を見るにどう軽く見積もっても四十路は超えている風情だ。一郎よりも二十は年上だろう。「守備範囲」ではない。
けれども、何故だろうか。一郎は彼女の優しい視線と手のぬくもりに、不思議な安心感を覚えていた。まるで十年来の友人に宥めてもらっているような、不思議な感覚だ。その目元にもどこか覚えがある気がする。
(先生……ってことは、ここは病院で、この人は看護師、かな?)
少しだけ冷静さを取り戻し、一郎はようやく自分が病院のベッドに寝ているらしいことに気が付いた。
ひり付くような痛みをこらえながら眼球だけを動かし、周囲の様子を探る。何やら仰々しい機械がベッドサイドに並んでいて、そこからケーブルやらチューブやらが一郎の体まで伸びている。なんとも大げさな感じだが、身体を全く動かせないところを見るに、自分はどうやら重症らしいと悟った。
***
そこからややあってから、ようやく医師がやってきた。小柄で小太りな五十絡みの男で、「タメガイ」と名乗った。アンパンのような丸顔に小さめのマスクを付けているので、なんだかどこかのキャラクター然としていて、愛嬌がある。
名札には「集貝」と書いてあった。「初見じゃ読めないな」等と、一郎は思った。
集貝医師は一郎の身体のそこかしこを触診したり聴診器を当てたり、忙しなく動き、度々手にした板の上でペンを走らせた。バインダーにしては重そうだが、何かの医療機器だろうか。板の裏側に描かれているのは、一郎もよく知る「欠けた林檎」のマークだ。
(あの会社も手広くやっているんだな)
ぼんやりと感心しながら、集貝医師に身体をまさぐられ続けて十数分。今度は問診が始まった。
とはいえ、一郎はまだ全く喋れない。口の中に突っ込まれた謎の物体も取り除いてもらえない。どうするのかと思っていたら、「質問の答えがイエスなら瞬きを二回、ノーなら三回してください」と提案された。なるほど、これならば喋る必要はない。首を動かせれば良かったのだが、残念ながらそちらもまだ動かせなかった。
集貝医師の質問は単純なものばかりだった。
「名前は『小山内一郎』で合っているか」
「生年月日は一九七八年八月一日か」
「年齢は二十五歳か」
当たり前だが、どれも「イエス」だった。恐らくは記憶がしっかりしているかを確認したのだろう。
「意識の方ははっきりしているようですね。結構、結構。体については……口の中のものや体についているチューブは、しばらくはまだ我慢してください。順次、外せるか検討しますから」
集貝医師の言葉に、一郎は二回瞬きをして見せた。「分かりました」という意味だ。一郎との意思の疎通が問題ないからか、集貝医師はその丸顔を柔和に歪ませると、「また来ます」と言い残して去っていった。
後に残ったのは、例の看護師だけだ。
「良かったわね小山内さん。麻痺もないし、視力も聴力も問題なさそうで。今はまだ体が満足に動かせなくて不便でしょうけど、少しずつ出来ることを増やしていきましょうね」
にこやかに微笑む看護師。名札には「看護師長 代田」と書いてある。偶然にも悪友と同じ苗字だが、もしや親類だろうか。
「絶対に……絶対に良くなるから。がんばりましょう!」
また一郎の手を優しく握りながら元気付けてくれたその目元には、やはりどこか見覚えがあった。
***
翌朝。まだ多少の眩しさを感じつつも、一郎はゆっくりと目を開けた。昨日は、集貝医師の診察が終わってから程なくして強い眠気を感じて、そのまま寝入ってしまっていた。
一体どのくらいの時間眠っていたのか。ベッドの両側にカーテンがかけられているので外は全く見えないが、そこから漏れてくる光は紛れもなく朝日のものだ。目が届く範囲に時計が見当たらないので、正確な時刻は分からないが、すっきりとした良い目覚めだった。
(そう言えば、俺の携帯はどこだろう?)
買ったばかりの携帯電話の存在を思い出し、視線を彷徨わせるが、目の届く範囲にはないようだった。
――改めて、自分の置かれた状況について考える。仲間達との旅行の最中に、バーベキュー場へと赴いたことは、なんとなくと覚えている。そこで食べた安物の肉の雑な味も、肉の硬さも。うっすらと思い出せる。
肉の仕入れ担当だった椛田のことを、皆で冗談交じりに叱りつけて、それを一郎の恋人である弥生が笑いながら庇って……。学生時代から変わらぬ騒がしくも楽しいひと時だったはずだ。
(代田の奴も来ればよかったのに)
偶然にも看護師長と同じ苗字の悪友のことを思い出す。友人には違いないのだが、何故か一郎に対しては食って掛かることが多く、それでいて喧嘩になる訳でもない。一緒に遊びに行くことは多かったし、サシで食事をすることだってあった。代田と一郎はそういう関係だった。椛田や弥生と同じく高校時代からの付き合いだが、思えば不思議な仲である。
だが――と、一郎はふと思い出す。そういえば、代田とは少し気まずい関係になっていた。一郎が過労で倒れ、会社から酷い扱いを受け退職に追い込まれたことについて、慰めるどころか厳しい言葉を浴びせてきたのだ。旅行に来るはずもない。
(しかし……無職の上に、こんな体が不自由になっちまって……俺の人生、これからどうなるんだろうな)
どこか他人事のようにぼんやりと考える。失職した一郎を慰める旅の途中で、当の本人がこんな状態になってしまったのだから笑えなかった。
――そもそも、どうしてこんなことになってしまったのか?
バーベキューを平らげた後のことが全く思い出せない。どうやら事故か何かに遭ったようだが、あれから何日経っているのか。弥生や椛田、他の友人達の姿が見えないのはどういうことなのか。
疑問は尽きないが、今の一郎は口に突っ込まれたチューブのせいで喋ることも出来ない。
(早々に、こいつを取ってもらわないと)
そう考えながら、一郎は看護師か医者が来るのを待った。
***
口に突っ込まれていた謎の物体は、思いの外早く取ってもらえることとなった。
「朝の診察です」とやってきた集貝医師と看護師長があれやこれや相談した結果、あっさりと取ってくれたのだ。喉の奥の方まで差し込まれていたらしく、引き抜かれる時は何とも言えない不快感があったが、その後は快適そのものだった。
だが――。
「アイアォ?」
『ありがとう』と言おうとして、喉の違和感に気付いた。声を出そうとすると豪く喉が痛む上に、掠れてしまってまともにしゃべれなかったのだ。自分の声帯が奏でるゾンビの呻き声のような音に、思わずギョッとしてしまった。
「小山内さん、しばらく声帯を使ってなかったせいで、上手く喋れないだけだと思いますから、慌てないでくださいね。訓練すれば、ちゃんと喋れるようになりますから」
看護師長の慰めの言葉に、パチパチと二回瞬きをして「分かりました」と答える。もどかしいことこの上ないが、喋れないものは仕方がない。本当ならば、訊きたいことは沢山あるのだが、言葉以外で伝える自信はなかった。
家族や友人たちはまだ見舞いに来ないのか、だとか。
自分は何日くらい意識を失っていたのか、だとか。
元のように動けるようになるのか、だとか。
「小山内さん、動けず喋れず、不安だとは思います。ですが、どうか慌てず、一つずつやっていきましょう」
心を読んだかのように、集貝医師が一郎に告げた。口元こそマスクで見えないが、にっこりと布袋様のような笑顔を浮かべているようだ。そう言えば、体型もそっくりだ。
その日から、リハビリのようなものが始まった。看護師だとか理学療法士だとかが入れ替わり立ち代わり病室にやって来ては、声を出す訓練や、手足を曲げ伸ばしする訓練を手伝ってくれた。手足は相変わらず、力を入れようとすると電気が走ったような痛みが出てしまう。自力で動かせるようになるまでには、時間がかかりそうだった。
不幸中の幸いだったのは、声の方だ。やや呂律が回らないが、数日もすると「あいうえお」くらいは言えるようになり、段々と医師や看護師たちとの意思疎通も出来るようになっていった。
「凄いです小山内さん! 驚異の回復ぶりですよ!」
「あいがとう」
若い、松浦という女性の看護師がべた褒めしてくれたので、一郎も気を良くして「ありがとう」と返す。派手な茶髪と化粧が看護師らしくない松浦だが、可愛い系の顔立ちで歳も一郎とそう遠くなさそうなので、とても話しやすい相手だった。
今は丁度、食事の時間だった。松浦が食べさせてくれるおかゆのような病院食を、ゆっくりと咀嚼し慎重に嚥下する。目覚めてから初めて口にする固形物だった。今までは水しか口にしていなかったので、味が口の中に広がっただけで感動してしまう。
「お腹のチューブも、近い内に取れますからね。もう少しの辛抱ですよ」
「あい」
今、一郎の腹からは一本のチューブが伸びている。どうやら、意識不明の間はこのチューブを通して胃に直接栄養を送っていたらしい。自分の体に穴が開いていると聞いた時は身震いしたものだが、取り除けばきちんと塞がるものだというので、今は我慢だった。
「とおろで、まつうらあん」
「はい?」
「ところで松浦さん」と回らない呂律で呼びかけたが、どうやらきちんと通じたらしい。
「かろくは、いつ、みまいに、きますあ?」
「かろく……? ああ、ご家族、ですか。ええ、ええ。近い内に来るはずですよ」
「そうてすか。あいがとうごあいます」
既に一郎が目覚めて一週間は経っているはずだが、家族も友人も見舞いには訪れていなかった。看護師たちに尋ねてみても、今のように「近い内に来ます」の一点張りだ。
この病院がどこにあるのかは知らないが、山梨での旅行中に事故に遭ったのだとしたら、少なくともその近隣だろう。家族も友人たちも、その殆どが神奈川県内に住んでいる。その日の内に来ようと思えば、余裕で来られる距離だ。
寡黙で仕事人間だが、実は人一倍家族思いの父・剛堂。
明るく気さくで交友関係の多い、母・美枝。
弟の一郎を溺愛し、ちょっと過保護だが美人で頭も良い自慢の姉・優子。
三人に早く会いたかった。きっと、沢山心配してくれただろうから。
「小山内さん。失礼しますね」
食事が終わった頃、集貝医師と代田看護師長がやってきた。一郎が食べ終わるのを見計らっていたのだろう。二人が松浦に何やら目配せすると、彼女はさっさとどこかへ行ってしまった。
――何やら嫌な予感がした。
「小山内さん……これから、大事なお話をしなければなりません」
集貝医師の言葉に心臓がドクンと跳ねた。明らかに「悪い知らせ」が飛び出す雰囲気だった。
もしや「一生ベッドから起きれません」とでも言われるのだろうか? それとも、何か別の後遺症が判明したのか。
しかし、集貝医師の次の言葉は、一郎の予想だにしないものだった。
「さて、小山内一郎さん。今が西暦何年だか、お分かりになりますか?」
「えっ……? へーせーじゅーろくねん? ええお……せーれきらと?」
咄嗟に西暦が出て来ず、頭の中で計算する。平成十六年なので、二〇〇四年のはずだ。
「にせんよねん、れす」
「二〇〇四年……ええ、ええ。そうですね。小山内さんの中では、まだ二〇〇四年なのですね」
「……えっ?」
集貝医師の言葉の意図するところが分からず、一郎はぽかんと口を開けてしまった。「小山内さんの中では、まだ二〇〇四年」という言葉には、今が二〇〇四年ではないというニュアンスが含まれている。
――つまり一郎は、年が変わるほどの間、昏睡状態だったということになる。旅行に出かけたのが八月のことだったので、少なくとも四か月以上は経過している計算だ。
「そ、そんな! せんせぇ、おれはいっらい、なんかえつくらい、ねむってたんれすか?」
回らない呂律でまくし立てる一郎。一方の集貝医師は、いつもの人懐っこさが嘘のように冷たい目で彼を眺めている。傍らの看護師長などは、肩を震わせながら一郎から目を逸らしてしまっていた。
――寝たきりの背中に、びっしょりと汗をかいているのを感じた。
「いいですか、小山内さん。落ち着いて聞いてください。今は……今は西暦二〇二四年です」
「……は?」
「ですから、今は西暦二〇二四年なんですよ、小山内さん。貴方は二十年間も昏睡状態のままだったんです」
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