夢なき暗闇を抜けて

澤田慎梧

第一章「覚醒」

第一話「二〇〇四年八月」

 長らく視界を塞いでいた遮音壁が姿を消すと、山と緑、そしてまばらな民家と沢山の田畑とが一郎を出迎えた。山梨県内に入ってしばらく経つはずだが、一郎はようやくその実感を得ることが出来た。

 少し身を乗り出してナビの画面を確認すると、まだしばらくは高速道路の上を走らなければならないようだった。

「一郎、どうかした?」

 運転席の椛田はなだが一郎の動きに気付き、バックミラー越しに尋ねてくる。神奈川県内からずっと運転し通しな割に疲れの色が見えないのは、慣れ親しんだ愛車を運転しているからこそだろうか。

「いや、もう結構来たんだなって」

「うん。でもまだ高速をしばらく行って、その後は一般道に降りて、三十分くらいかな?」

「一般道に入ったら運転変わろうか?」

「いいよ、いいよ。このタイプの車、運転したことないでしょ? ゆっくりしててよ」

「……悪いな」

 確かに椛田の言う通り、彼の愛車であるミニバンタイプの車を、一郎は運転したことがなかった。そもそも、最近はろくに車の運転も出来ていなかったのだ。慣れない旅先で無理をすることもない。

 そう考え、一郎は再びシートに身を沈め椛田の言葉に甘えることにした。運転席の後ろの、所謂「上座」のシートだ。「気を遣われているな」と思う。

 ――そもそも、今回の旅行の目的は一郎の慰労にある。勤め先で散々な扱いを受け、心身共にすり減ってしまった一郎を労おうと、恋人の篠原弥生と親友の椛田丈志とで企画してくれたものだ。

 一郎と弥生、椛田の三人と、そこに御手洗、真田、塚原の三人を加えた計六人。高校時代からの腐れ縁の六人で、山梨県内の温泉付きリゾートホテルに泊まり日頃の疲れを癒しつつ、バーベキューや自然散策を楽しもうという計画だった。

 三列目シートでは、御手洗ら三人が雑誌を広げ、近場の観光スポットを入念にチェックしている。

 弥生は助手席で椛田のサポートを行っている。

 一郎はと言えば、二列目のシートを独占させてもらい、完全に「お客さん」扱いだった。快適ではあるが、手持無沙汰であるし、何より微妙な罪悪感が湧いてしまう。

「なあ、やっぱり俺――」

「一郎くんはゆっくりしてて。まだ顔色悪いわよ?」

「うっ」

 今度は弥生にピシャリと言われてしまった。実際、車の窓ガラスにうっすらと映る一郎の顔はげっそりとしており、顔色も土気色だ。まだ本調子ではない証拠だった。

 おまけに、弥生の職業は看護師だ。プロに言われてしまっては、大人しくしているしかない。

 仕方なく、一郎はヘッドレストに頭を預けると、ゆっくりと目を閉じた。

(……二年とちょっと、か。職歴としては、ギリギリかな)

 途端、ネガティブな思考が頭の中を支配する。

 一郎が仕事中に倒れたのは、新卒で入社して二年目のことだった。中堅のIT会社に体よく入社し、新人ながらにやりがいのある仕事を任されて、がむしゃらに働き続け、気付けば過労で死にかけていた。

 会社は最初こそ一郎を手厚く扱ったが、長い療養を終えて会社に戻ってみると、一郎の席は既になかった。陰で「追い出し部屋」と呼ばれていた殆ど仕事の発生しない保守部門に転属され、まともな仕事も貰えぬまま数ヶ月が過ぎ、一郎は退職を決意した。

 事実上、退職を強制されたようなものだった。

 一郎はそのことで身体だけでなく心にも変調をきたし、つい先週まではろくに食事も摂れない有様だった。それが、至れり尽くせりの状態とはいえ旅行にまで出かけられるようになったのは、家族と弥生による献身的なサポートが大きかった。

 ややブラコンの気がある姉の優子など、自分の仕事を休んでまで一郎の世話をしてくれた。この旅行で、何かお土産を買っていくべきだろう。

 その一方で、やはり高校時代からの付き合いである悪友の代田だいたは、

『今時モーレツサラリーマンとか流行らん』

『真面目さが取り柄のお前が真面目さに殺されそうになってどうする』

『言わんこっちゃない。面倒見切れんわ』

と、一郎を慰めるどころか罵倒してくる始末だった。

 彼の口が悪いのは学生時代から変わらないが、それにしても今回はいつもより厳しかった。――もしかすると、あれは彼なりに一郎を心配しての言葉だったのかもしれないが。

(まあ、それはないか。今回の旅行にも、結局来てくれなかったし)

 心の中で独り言ちながら、左の空席を見やる。高校時代からの腐れ縁仲間は、代田を含めた七人だ。椛田の愛車は全員が乗ってもなお余裕がある。にも拘らず、代田は今回の旅行に全く興味を示してくれなかった。

(腐れ縁も、本当に腐っちまったら、終わりなんだろうな)

 ぼんやりとそんなことを考えていると、不意に心地よい睡魔が襲ってきた。しばらく前までは、心労でろくに眠れなかったことを考えると、眠気を感じること自体が幸せと言える。一郎は、その幸せを甘受することにした。

 ――意識が闇に落ちていく刹那、耳に残ったのはカーステレオから流れてくる、名前もよく覚えていない女性アーティストの歌声。

(名前、なんて言ったっけ?)

 それが一郎にとって、はっきりと思い出せる二〇〇四年八月の最後の記憶となった。

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