第2話 老人奴隷






 泥の臭いが染みついた荒れ果てた貧民街で、二人の男が話していた。

 彼らは奴隷を買いに来た。


 遊び、犯し、殴り捨てるための性奴隷を探しているのだ。



「物好きな女がいたもんだな。あんなジジィの奴隷を買うなんて。」


「知らねぇのか? あいつ、忌み子だぞ。ローウェルト家の。」


「あぁ、道理でな。小汚ぇと思ったよ。ジジィとでも体を重ねんじゃねぇか?」


「汚ぇ話だ。ま、あの奴隷しか買えなかったんだろう。」



 連れられて歩くのは、黒い頭巾に身を包んだ老人。

 足は鎖で繋がれ、皮膚は病に蝕まれていた。


 その錆びついた鎧は皮膚と同化し、身に着けた布は体と溶け合っている。



「あなたも……この世界に居場所がないの?」


「……歳です。思案はとうにやめました。」


「……そう。もう、居場所を求めることもないのね。」


「左様。」



 老人は年老いていた。

 新しいことを始める気力も、幸せを願う気持ちも、とうに消え失せていた。


 彼の片腕の腱は、長年にわたる劣悪な扱いの末に、ちぎれてしまっていた。

 折れた剣をズルズルと石畳に引きずり、朧げな足取りで前に進む。


 奴隷にとって、長く生きることは決して幸運ではない。

 ......不幸そのものだ。



「着いた。ここが私のアトリエ。」


「ここがお好きなのですな。」


「え?」


「よく手入れされておりますな。」


「分かって……くれるの?」


「年寄りなもんで。」



 小屋はおそらく、雨風も凌げないだろう。

 だが、そんな小屋を与えられているだけでも、幸運といえるのかもしれない。



「私は絵描きなの。」


「それはそれは。」


「特殊な力を持った絵描きなの。」


「ほぉ。」



 彼女はそう言って小屋に入る。

 中には奇怪で不気味な色を帯びた絵が、いくつも飾られていた。


 顔料のせいだろうか。絵は酷く荒んで見える。

 彼女の描く絵は、決して上手いものではなかった。



「この絵のカエル。」


「枯れ果てておりますな。」


「この絵のカエルは、ひと月前まで生きて動いていたのよ。」


「ふむ、なるほど。」


「驚かないの? 疑わないの? 騙されてるって思わないの?」


「見れば分かりますがな。」



 地獄。老人は地獄を生き抜いてきた。

 彼は、奴隷の中でも特に死にやすい『戦闘奴隷』だった。


 しかし老人は、決して強くはなかった。運が良かったわけでもない。

 彼が生き残ったのは、ただその精神によるものだった。



「私はね……絵の中に、自由に世界を作ることができるの。このカエルを取り出すことも、できるのよ。」


「お戯れを。」


「やっぱり……分かるのね。私が嘘をついていることが。」


「自由では、ありますまい?」



 老人は穏やかな声で、眠りそうなほどゆっくりと、か細く返した。



「そうよ。特殊な顔料がいるの。カエルを描くにはカエル、土を描くには土から作った顔料が必要なの。」


「……人の顔料があらば人を描ける。だから恐れられたのですな。」


「凄い……何でもお見通しね。でも一つだけ違うの。このゾウガエルは、ガマガエルの顔料で描いたのよ。でもゾウガエルとして生きた。つまり、カエルであればいいの。」


「……なんと。」


「大地を描くには土の顔料が必要。でもどの大地を創造するかは、私の自由。それでも、ただの絵……そのはずだった……」


「……」



 不穏な空気が漂う。

 たとえ絵に命を吹き込めたとしても、所詮絵は絵。


 現実とはなりえない。

 絵の中に入ることも、そこで暮らすこともできない。



「ねぇ……世界で最も黒い顔料を知っている?」


「黒い顔料? 夜の暗闇、あるいは土の中でしょうか?」


「ううん、違うの。もっと黒いのよ。暗黒の中にさえ穴を開ける、黒すぎて存在すら許されない『純黒』」


「純黒?」


「……あるの。本当にあるのよ……信じて……」


「……」



 彼女はそう言って包帯を外し、自らの腕を見せた。

 だが、そこにあったのは、肩から指先まで続く暗闇のような手の形だった。


 かつては腕があったはずだ。

 しかし、今は果てしない暗黒がそこにあるだけだ。



「近いものを手に入れたの。それで、小さな端切れを塗りつぶした……たったそれだけでこうなったのよ。」


「近いものと?」


「……負よ。負を溜め込んだ雨水。どうやって負が溜まったのかは分からないけど、あなたを手に入れる代償として押し付けられたの。」


「して、その水と絵は?」


「遠い山に捨てたわ……そしたら山の命全てが朽ち果てたの。封を開けるべきじゃなかったって……後悔してる。」


「絵は?」



 老人は見逃さなかった。

 彼女は今、「雨水」のことしか話していない。



「……あれは、あれはきっと繋がってはいけない場所と繋がったの。私の腕はそっちに行ってしまったのだと思う。」


「絵は?」


「……隠したわ。あれは捨てられない。触れたもの全てを引き摺り込もうとするの。私が出られたのは……偶然にすぎない。」


「……」


「でも、15分くらいの猶予がある。それまでは腕も何ともない。」



 偶然ではないはずだった。だが老人は理由を聞かなかった。

 彼がここに買われてきた理由は、既に明らかだからだ。



「とりあえず……何か食べましょう。昨日路地裏で捕まえたネズミがいるの。」


「ほぉ。それはそれは。」


「死なないといいけど……黒焦げにするしかないわね。」


「そうですな。」



 今日も二人はドブネズミを食べる。

 ネズミは多くの病原菌や細菌を持っている。


 彼らの行動は……凡そ一般の常識からは、遥かにかけ離れていた。

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