其の二 道を示す灯火(後)~加賀見と柳~

 翌日、加賀見と柳は新たなあやかし事件の発生により、帝都の外れに急行していた。


 現場に着くと、陰鬱いんうつきりが町の一角を覆い尽くし、その霧の中で倒れ込んでいる人々の姿がある。彼らは苦しげに咳き込み、目や喉を押さえて呻いていた。


「こいつが原因っすか……」

 柳が眉をひそめ、霧を吸い込まないように片腕で軽く口元を覆う。


「『おぼろ』だな。霧に包まれた人間や、他の妖の生気を吸い取る厄介な奴だ。早く対処せねば危険だ」

 加賀見が冷静に状況を見極め、拳銃嚢ホルスターから銃を取り出した。


「でも、辺り一面に広がってるっすよ。どうやって攻撃するんすか? 影だってないし……」


「落ち着いて意識を目の前に集中させろ」

 そう加賀見に言われて、柳は慌てて頷く。


 すると揺らめく霧が徐々に濃くなり、倒れた人々の間から、朧が人の形を取り始めた。最初はぼんやりとした影だったが、その輪郭が次第に鮮明になり、まるで薄暗い影の人間のような姿へと変わっていく。


 先日遭遇したディルクの手下の土人形よりも動きは不規則で、いつ飛びかかってくるか予想がつかない。


 朧の二つの目が赤く光り、不気味な笑みを浮かべているように思えた。周囲に響く、異様な音が彼らを威圧し、空気が重くなっていく。


「俺が隙を作る」

 鋭い目つきで標的を捉えると、加賀見は躊躇ためらいなく引き金を引いた。弾丸は一筋の光となり、真っ白な揺らめきを切り裂くが、散った霧はすぐに元通りになる。


 だが、朧の目は確実に加賀見と柳に向けられた。


「お前たちは民間人の救出と安否確認を! 柳は俺についてこい!」

 加賀見が部下たちに指示を飛ばし、その場からパッと離れる。柳は慌てて彼の後を追った。


 朧は地を舐めるように静かに近づいてくるが、その動きは俊敏で、まるで煙のように捉えどころがない。


「どうするんすか?」

 柳が緊張した声で尋ねると、加賀見は冷静に銃を構えた。


「形がないように見えるが、妖には必ず核がある。お前の力でその核の影を捉えるんだ!」


「灯りなんてどこにも――」

 今夜は生憎あいにくの曇り空。それでなくともすべてが影になってしまう夜は、対象物のみを狙うことができない。ゆえに柳は夜の出動が苦手だった、自分が無能のように思えて。


「瞬きするなよ……必中ひっちゅう!」

 加賀見の指が軽やかに引き金を絞る。放たれた弾丸は眩い光を放ちながら風を裂き、人の形をとっている朧とは見当違いの方へ飛んでいった。しかし――。


「……見えた! 影踏み!」

 加賀見の銃弾によって照らされたわずかな瞬間、柳は霧の中で蠢く影を見た。そしてそれを素早く踏みつける。


「よくやった」

 息を合わせたその瞬間、加賀見が放った次の弾丸が正確に朧の核を貫通し、それを破壊した。


 人型の霧は激しく揺れ、その形を崩して林の中へ消えていく。


「最高っすね!」

 柳は感嘆の声を上げながら、尊敬の眼差しを上司に送った。


「お前が朧を足止めしてくれたからな。次も頼むぞ」

 加賀見は弾倉の中身を冷静に確認しながら、柳を一瞥する。


「へへっ、任せてくださいっす!」

 不意に褒められた柳はじわじわとそれを実感して顔をほころばせた。


 周囲では他の捜査員たちが、朧の影響を受けて気を失ったり、立ち上がれない人々を保護し、事態の収拾に努めている。


「状況は?」


「今のところ命に別条がある者はおりません。これから救護班が隠匿術をかける予定です」

 加賀見は部下の報告に頷いた。


 一定の間の記憶を閉じ込める精神術を使える者が救護班にいる。記憶の底に沈め、夢か現かわからなくなるほどに記憶が交じり合うことで、巻き込まれた人間の口から世間に妖事件のことが現実のこととして漏れ出ることはない。


 柳は他に被害者がいないか林の方を探索していた。その時、奇妙な気配とともに黒い影が足元に近づいてきてぎょっとする。


「ひぃっ」

 驚いて身をすくめると、足に絡んできたのは一匹の黒い子猫だった。


「お前……親は……朧にやられたんすね」

 柳は草むらに倒れている少し大きめの猫が息をしていないのを見て、眉根を下げる。


「間に合わなくて、ごめんな」

 そう言って柳は子猫を抱き上げると、上着の中に包んで持ち場に戻った。


 そこでは、あらかたの指示を出し終えた加賀見がポケットから煙草を取り出し、吸い始めている。


 白い煙が静かに夜空に消えていく様子は、彼の静かな自信を象徴しているようだった。煙草を吹かすと明るくなる彼の手元に向かって、柳は真っ直ぐ向かう。


「そろそろ俺たちも帰っていいっすよね」

 柳がにっと笑うと、加賀見は紫煙を吐き出しながら軽く睨んできた。


「おい。、元いた場所に返してこい」

 加賀見は低い声で強く言い捨てる。


「それがただの猫じゃないことぐらい、わかるだろう?」


「うっ……よく気がついたっすね」

 柳の笑顔がひきつったものに変わる。そして上着の合わせから子猫が顔を出し「みゃあ」と鳴いた。その目は赤く光っている。


「妖の一種なんでしょ? わかってるっす。でも、親はさっきの奴にやられて、ひとりなんすよ。ちゃんと俺が世話するっすから」

 柳は瞳を潤ませ、じっと加賀見の顔を見つめた。


「はあ……お前が捨て猫みたいな顔してどうする」

 加賀見は肩をすくめ、深く息をつく。その表情には苛立ちよりも、呆れた色が浮かんでいた。


「だめっすか?」

 柳が黒猫の頭を撫でると、子猫は丸い目を細めて喉を鳴らし始める。


「……今は害がなさそうだから、一時的に保護するのはいいが、家に結界を張って外に出さないように管理しろよ」


「ありがとうございます!」

 柳は目を輝かせ、黒猫を抱え直すと柔らかな毛並みに頬擦りした。


「ちっ……俺も甘くなったな。以前なら、妖なんてすべて排除していたのに」

 加賀見はそう言い捨て、煙草を携帯していた吸い殻入れに押しつける。


 柳は黒猫を抱き直しながら、彼の呟きを聞いていた。


(加賀見さんが変わったのは、あの二人のおかげっすかね)

 柳はアランと紗由の顔を思い浮かべる。


 人ならざる者と人間、両者が共存できる道もある――。


「まぁ、とにかく……ありがたいっす!」

 柳は黒猫を優しく撫でながら、加賀見に向かって頭を下げた。


「あ、名前も決めたっす。黒介くろすけにするっす!」


「お前……今、俺の顔を見ながら考えただろう」

 加賀見が嫌そうに眉をひそめる。


「いやぁ、加賀見さんみたいに強い子に育ってほしいなと思って」

 柳は頭をきながら、はははと笑う。


 その実、そうなりたいのは自分の方だ。彼のように、何かを守るために強く、そして寛大な男になりたい。これからも彼の背中を追いかけることで、少しでも近づけるのだろうか。けれど、加賀見の背中はまだ遠い。


(俺も、もっと強くなりたいっす)

 心の中で、柳はそう誓った。


「お前には資質がある。しっかりやれよ」

 まるで決意が加賀見に伝わったかのように、彼がふっと表情を和らげる。


 その瞬間、柳の胸の奥に灯火がともった。少しだけ、だが真っ直ぐに照らされた道を、前に進む力を、与えられたような気がした。

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