其の二 道を示す灯火(前)~加賀見と柳~

 ――今回はうまくいきそうな気がする。


 支払いを済ませたやなぎ修司しゅうじは喫茶店の扉を開け、穏やかな夕暮れの光に満足そうに目を細めた。


「ケーキ、とてもおいしかったわ。さすが柳さんのお勧めのお店ね」


「気に入ってくれたならよかったす!」

 褒められた柳は照れくさくなって、へらりと相好そうごうを崩した。


 友人の紹介で知り合った女性と初めて二人きりで映画館に出かけた後、喫茶店でも終始しゅうしなごやかな会話ができたと思う。


(ええと、それから次の約束を取りつけるんだっけ?)

 心臓が高鳴り、緊張が最高潮に達する中、彼は意を決して彼女の方へ視線を向ける。


 その瞬間、彼女にぶつかって駆け抜けていく男の姿があった。男は勢いよく彼女の肩からげていたかばんを奪い取る。


「きゃあっ、私の鞄が……!」

 女性がこちらによろめいたので、その身が転ばないように受け止めた柳は、すぐに彼女から手を離して反射的に男の後を追って走り出していた。


「止まれ! 警察っすよ!」

 そう言われて素直に待ってくれる犯人はいないが、一応前置きをしてから男の背中を見据えた。


 相手は足に自信があるようだが、ありがたいことに西日はこちらに向かって射している、つまり、長い影がこちらに伸びていた。


 本来であれば、公衆の面前で特異能力を使うことは禁じられている。だが今はそんなことを言っていられない状況だと判断した。


 ――影踏み!


 柳は咄嗟とっさに力を解放し、男の影を踏みつける。途端に男の足が地面に縫い留められたように動かなくなった。


「さあ、観念するっすよ」

 柳は仁王立ちになり、自信たっぷりに胸を張る。そこから距離を詰めて捕まえるつもりだったが、次の瞬間、横から別の青年が素早く動きだし、ひったくりの体を拘束した。


「この盗人ぬすっとめ、娘さんに鞄を返してやるんだ!」

 無駄なく流れるようなその動作に周囲の人々は驚きの声を上げ、冷静な判断力と機敏な振る舞いに、感嘆の眼差まなざしと喝采かっさいを送る。


「へ?」

 柳は茫然ぼうぜんとその光景を見つめた。


「ありがとうございます!」

 彼の横を走り抜けていった女性が、青年のもとに駆け寄り、熱っぽい視線を向けている。


「柳さん、警察官なのに、どうして追いかけるのを諦めたの? あなた、肝心な時に頼りにならないのね」

 女性は冷ややかな口調で柳を一瞥いちべつした。


「いや、それは――」

 柳は言葉を失った。


 自分の特異能力を使って男の足を止めたからこそ民間人でも捕縛できたわけだが、それを公表することはできない。特務捜査局の存在も特異能力を持っていることも世間には秘匿ひとくなのだ。


 彼女の冷たい一言と、周囲の不信感いっぱいの視線が胸に刺さり、どやった恥ずかしさで顔が熱くなる。


 結局、柳は何度目になるかわからない失恋を経験し、挙句あげくの果てに警察署でひったくり犯の調書を取る羽目になったのだった。


 署内のデスクに向かい、ため息をつきながら書類を作成していると、背後から革靴が床を鳴らす音が近づいてきて、机の前で止まる。


「柳? お前、今日は非番じゃなかったか?」


 聞き慣れた声が落ちてきて疲れ果てた顔を上げると、そこには加賀見龍介がいた。


「俺、この仕事辞めたいっす」

 投げやりに言って筆を置いた柳は、椅子のもたれれに寄りかかって不貞腐ふてくされる。


「なんだ、やぶからぼうに」

 加賀見は揶揄からかうように笑ったが、柳が本気で落ち込んでいるのを見て、ため息をついた。


「まったく……さっさと終わらせて帰り支度したくしろ、今夜は俺がおごってやる」


 柳はその言葉に少し意外そうに加賀見を見上げたが、酒でも飲まなければやっていけないと思い、上司の申し出に甘えることにする。



 浅草にある飲み屋の中は、賑やかな話し声や笑い声が響き渡っていた。


 薄暗い照明の下、木製の机や椅子が並び、壁には古びた酒瓶や色褪せた写真が飾られている。飲み屋特有の魚や焼き鳥の香ばしい匂いが漂い、酒の香りが鼻をくすぐった。


 柳は、加賀見と向かい合って座っている。


「俺がいなかったら逃げられてたんすよ。それなのに目の前で手柄を横取りされて……」

 柳はビールをグイっと一気に飲み干した。泡が口の周りにつき、彼はそれを手で拭いながら早くも二杯目を注文する。


「どうして俺には感謝の言葉一つないかなぁ……」

 柳の声は、周囲の騒音に埋もれることなく、加賀見にはっきりと届いていた。加賀見は静かに日本酒の入った猪口ちょこを口に運び、柳の言葉に耳を傾ける。


「任務に見返りを求めるんじゃない」

 加賀見は重い口調で言った。


「俺たちは、目に見えないところで治安の維持に努めている。時には理解されず、評価されないこともある。だが、俺たちがいなければ、多くの人が苦しむことになる。それを思い出せ」


「それはわかってるっすけど……」

 そう言いながらも、柳の顔には不満の色がありありと浮かんでいる。


「俺たちの特異能力は、世間には公表できない。同時に怪異や妖の存在もな。もし人々に知られたら、恐怖と混乱を引き起こすからだ。力を持つ者を担ぎ上げようとする者も出てくるかもしれない。それがどれだけ危険なことか、わからないほどお前は馬鹿じゃないだろう?」

 加賀見はそう言って、一瞬考え込むように目を細めた。


「それは……」

 柳は少し黙り込み、目の前のつまみをつつく。焼き鳥の芳醇な香りが食欲をそそるが、心の中のもやもやは晴れない。二杯目のビールをぐうっと飲み干しても苦い思いが広がるだけだ。


「お前の能力は他人にはない特別なものだ。その力のおかげで未然に防げた事件はいくつもある。少なくとも俺はお前を高く買っているぞ」

 加賀見は、柳の目を真っ直ぐに見つめながら言った。


「ほんとっすか? やっぱり俺の力ってすごいっすよね」

 自分の努力が認められた気がして、柳は軽く身を乗り出し、子どものように目を輝かせる。


「……単純な奴だな」

 加賀見は苦笑しながら枝豆を口にした。


「だが、まあそこがいいところでもある。真っ直ぐな奴は周りからも好かれる。もっと自信を持つんだな」


「そうっすよね! そうしたら俺も加賀見さんみたいに美人の奥さんと所帯もてますかね?」


「……仕事と家庭を同列に語るな」

 肩をすくめつつ、「焦らなくても、お前にはお前の道がある」と言って、加賀見は器に残っていた酒を一気に飲み干した。


「今は自分の力を高めることに集中しろ。結果は後からついてくるもんだ」


「はい! さすが加賀見さんっすね。かっこいいっす、憧れるっす!」

 涙目で焼き鳥を頬張りながら、三杯目のビールを注文する。


「俺も、もっと頑張るっすよ」

 その夜、柳は明るい未来を夢見ながら再び此盃器コップを傾けた。

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