番外編

其の一 夜を越えて君を待つ(ディルク視点)

 さびれた田舎町の場末ばすえに、その酒場はあった。


 地元の住民や旅の途中で立ち寄った人々の目と耳を癒していたのは、一人の若い娘だった。小さなステージの上に立ち、歌声を響かせている。それはどこか哀愁あいしゅうを帯びていながらも温かみのある澄んだソプラノだった。


 肩までの黒髪がふわりと揺れ、彼女の淡い肌に優しくかかる。少し華奢な体つきだが、その姿勢は凛として美しい。淡紫色のワンピースが彼女の優雅さを際立たせ、古びた酒場でも彼女だけが輝いて見えた。


「ルーナちゃん! 今夜もよかったよ!」

 彼女が歌い上げると、満席の客の間から、わっと歓声と拍手が湧いた。


「ありがとうございます」

 ステージに立っていた娘は、恥ずかしそうにはにかんで頭を下げる。


 客の中の一人――ディルクは、一目で彼女が自分にとってのだと気づいていた。


 その夜、ルーナが仕事を終えて酒場から出てくるのを待っていたディルクは、酔客に絡まれている彼女を助ける。


「家まで送ろう」

 ディルクは冷静な声で言った。


 ルーナは驚いていたが、彼の穏やかな雰囲気に安心感を覚えたのか小さく頷く。


 家に向かう道は静かで、月明かりだけが二人を照らしていた。

 それからディルクは彼女の仕事帰りに家まで送るのが習慣になる。


「ディルクさんって、不思議な人ですね」


「どの辺が?」


「なんだかお姿が薄暗い路地に溶け込むようで、神秘的で……綺麗」

 彼女は、そこまで言うとハッと口に手を当てて「なんでもないです」と首を横に振った。


 ルーナは病弱な母の看病や仕事に追われ、自分の未来を考える余裕はなかったのだ。しかし、ディルクはそんな彼女をそっと支える存在として、彼女の心に深く刻まれ始める。


 ある晩、彼女はディルクに微笑みながら、ぽつりと「いつもありがとうございます」と言った。彼女の声には感謝がこもっていたが、同時に何か言い足りない思いが隠れているようだった。


 ディルクはその瞬間、ルーナをどうしても手放したくないという強烈な感情に駆られた。彼女の甘い香り、優しい声が彼を引き寄せ、彼は抑えきれない衝動に突き動かされた。


「ルーナ」

 彼は低く呟くと、瞬く間に彼女を自分の腕の中に引き寄せた。


「ディルクさん……?」

 ルーナは驚きと困惑の入り混じった表情を見せたが、ディルクの鋭い深紅の瞳に釘付けになり、動けなかった。


 そのまま、彼はルーナの首筋に顔を埋め、彼女の温かな血潮に唇を寄せる。


 ルーナは一瞬、何が起こったのか理解できず、次の瞬間には体が力を失っていくのを感じた。だが、不思議と恐怖はなかった。ディルクの行為は激しくも、彼女にとってはどこか甘く、心地よいものだった。


「あなたは……吸血鬼……だったんですか?」


「……逃げないでくれ」

 ディルクは彼女を強く抱きしめた。


「君を……手放したくないんだ」


「ディルク……さん……」

 彼の声は切実で、ルーナはその言葉に胸を締めつけられた。


 彼女は、自分がこの不思議な男に、こんなにも深く惹かれていたのだと改めて感じたのだった。たとえ正体が吸血鬼であったとしても。


 ルーナと過ごした時間は、ディルクにとって永遠に続くかのように思えた。


「君と一緒にいると時間が止まっているかのように感じる。君のことをもっと知りたい、もっと近くに……」


「私もよ、ディルク。あなたと一緒にいるとすべてが輝いて見えるわ。あなたはとても不思議で、でも……それがいいの」


 ディルクはそう笑う彼女の頬に触れ、優しく微笑み返す。


「君は私にとって、これまでの人生でもっとも大切な存在だ。君がいる限り、どんな夜も幸せで満ち溢れている」


「ディルク、私もあなたと出会えて本当に幸せ」


 星空を見上げ、互いの存在がどれほど大切なものなのか確かめ合った。


 穏やかな日々、手を繋いで微笑み合う時間、そして二人だけの秘密の会話。それらはすべて、ディルクの心に深く刻まれている。彼女は正真正銘の特別な存在だった。


 ルーナの名前を呼ぶだけで、ディルクの胸は温かく満たされる。


 彼女は、寿命が尽きるその日まで、変わらない愛を彼に注いでいた。


「いつか生まれ変わったら、私を見つけてくれる?」

 彼女は亡くなる前、弱々しくも微笑みながらそう尋ねる。


 彼女の瞳には希望が輝いていた。ディルクはその瞬間、彼女が生まれ変わっても、必ず見つけると誓った。その言葉は偽りではなく、心からの誓いだった。


 ルーナが逝った後、ディルクは何も感じなくなる。


 時間の流れも、色彩も、味わいも、すべてが鈍くなり、虚ろな日々が続いた。彼は吸血鬼であり、人間の生き血を啜り続ける限り、永遠に生き続ける運命を持っている。


 ディルクは彼女との約束を守るため、彼女の生まれ変わりを探し始めた。匂いで特別な存在を嗅ぎ分けられる吸血鬼の力を信じていた。しかし、百年という長い年月が過ぎても、その特別な存在は見つからない。


 彼は次第に焦り、絶望に打ちひしがれた。彼女の言葉を信じていたが、生まれ変わりなど幻想なのではないかと疑い始める。そして、見つけられない自分自身への苛立ちが募り、彼女との約束が重荷に変わっていった。


 ある晩ディルクは、月夜の静寂の中、ルーナの面影を思い出していた。


 彼女の優しい声、笑顔、そして彼に誓った再会の約束。百年もの間、その言葉だけを信じて生き続けてきた。愛する彼女の生まれ変わりを探し続け、彼女との再会を夢見て。


 だが、どんなに人間の血を吸い、どれだけ多くの命を奪おうとも、ルーナの香りを持つ存在には出会えない。


 最初は悲しみがディルクを支配していた。彼の胸には、焦がれるような思い出があり、彼女に会えないことがただの試練であると信じていた。再び彼女に会えた時、この孤独が報われるのだと。だが、時が過ぎるたびに、希望は薄れ、やがて絶望が彼の心を蝕んでいった。


「どうして……」

 ディルクは呟いた。


「どうして生まれ変わってこないんだ、ルーナ……約束したはずじゃないか……」

 彼の声はかすれていた。


 深紅の目からは涙がこぼれ落ち、彼はその涙を指で拭う。吸血鬼である彼にとって、涙は無意味なものであるはずだったが、それでも彼は泣いていた。


 ――そして次第にその涙さえも乾いていく。


 時が経つにつれ、再会の望みが消え、愛情はやがて怒りへと変わり始めた。ディルクは思い出す。彼女が「必ず生まれ変わる」と笑って約束したことを。だが、もしそれがただの偽りであったなら……。


「嘘をついたのか、ルーナ……」

 彼は歯を食いしばり、拳を固く握りしめた。


「生まれ変わると約束しておいて、なぜ現れないんだ? 私をこの孤独に永遠に閉じ込めるつもりだったのか?」

 徐々にディルクの心は変わっていった。愛するあまりに、彼女を待ち続けることが耐えられなくなったのだ。


「私を裏切ったな……そうだ、ルーナ、お前が私を騙したんだ。生まれ変わりなんて嘘だったんだろう?」

 ディルクの声は荒れ狂い、目には憎しみの炎が宿る。彼の胸に残るのは、もはや純粋な愛ではなく、彼女への執着と裏切りへの怒りだった。


「この絶望を味わわせたのは、お前だ……ルーナ。お前が私をこんなにも長く待たせているんだ。お前に復讐してやる……たとえこの先何百年かかっても、必ず見つけ出して、私の憎しみをぶつけてやる」

 ディルクの心は、もはや彼女との再会を望む純粋なものではない。愛していたからこそ、その愛が壊れた時、憎しみは深く根を張り、彼の存在そのものを変えてしまったのだった。


 ある日、ディルクは一人の吸血鬼と出会う。特別な存在を見つけ、その女性との間にいともうけ、穏やかで幸福そうにしている男の姿を見て、ディルクの胸の奥で何かが弾けた。


 ――なぜこの男だけがこんなにも幸せなんだ。


 激しい憎悪が彼の胸を貫く。愛していたはずの彼女が生まれ変わらないことへの失望と、見つけられないことへの苛立ちが彼を狂わせていた。


 ディルクは計画を練り、その男を吸血鬼ハンターに狙わせる。狡猾に立ち回り、ハンターを誘導しつつ、次に男の妻を標的にした。子どもは見つからなかったが、それでも充分に溜飲は下がった。


 それから数年が経ち、ディルクは吸血鬼ハンターの追跡が厳しくなっていることを感じ始める。彼はより安全な場所を探し、吸血鬼の存在があまり知られていない遠い地、へと移動することを決意した。日本では、吸血鬼の伝説が根付いていないため、彼の行動が目立たないはずだった。


 そこで藤堂という男に出会った。藤堂は、ディルクの力を知り、その能力を利用しようと近づいてきた。彼の計画には興味がなかったが、ディルクはただ質の良い血を手に入れられればそれでよかった。


 特にの血をもつ人間が手に入れば、より命を永らえることができる。


 彼は、今や復讐だけを糧に永遠を生きる怪物と成り果てていた――。

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