最終話 想いは永遠に

 胸の奥底に沈んでいた嫌な記憶が浮上してきて、紗由の心臓がどくどくと嫌な音を立て始める。何もできなかった自分、ただ耐えるしかなかった日々――。


「私は……」

 なんとか声を出そうとしたが、すぐに言葉が詰まった。何を言っても否定されるだけ、言い返せばその何倍もつらい言葉や態度が返ってくるくらいなら、黙っていた方がいいと過去の自分が重くのしかかる。


「あんたさえいなければ、私の家はこんなに落ちぶれたりしなかった。藤堂さんだって……あの人が私を騙したのも、全部あんたが悪いのよ、この……疫病神!」

 千代子の声は怒りと憎悪で震えていた。


 八つ当たりだとわかっていてもその言葉が鋭く胸に突き刺さり、紗由の心が一瞬、折れそうになった。だが、完全に折れることはなかった――。


 確かに、自分はいつも誰かの足手まといだったのかもしれない。知らず知らずのうちに誰かを不快にさせていたのかもしれない。


(でも、今は……違う)

 紗由はぎゅっと眉を寄せて千代子を見据えると、長椅子から立ち上がった。


 アランを支えたい、ずっとそばにいると決めたのだ。それは自分にしかできないこと。美鈴という大切な友人もできた。自分には、守るべき大切な居場所がある。


「千代子姉さん……私を責めるのはあなたの自由です。今まで通りの生活が一変してしまうって、とてもつらいですよね」

 紗由は、深く息をついてから続けた。


「私にできることがあれば助けます。けれど、私を憎んだからといって千代子姉さんの心が軽くなるとは思えません。諦めずに前を向いていけば、きっと自分だけの幸せを掴めるはずです」

 そう、はっきりと言い切った。心の奥にあった弱さが消え、自分の声が芯を持ち始める。


「何を偉そうに……同情なんかしてほしくないわ! 根暗で気持ち悪いあんたがそんな着物を着る資格はないし、どこまでもひとりぼっちがお似合いってだけ!」

 千代子は苛立ちと憤りを溢れさせながらも、口元に薄い笑みを浮かべ、紗由が俯くのを待っている。


 ここで、下を向いたら負けだ。


 紗由はお腹にぐっと力を入れ、顎を引いて千代子を強く見つめ返す。


「あなたに何を言われようと、私は私の道を進みます」

 毅然としたそのことに、千代子の顔がゆがむ。


「ふ、ふざけないで! 紗由のくせに、生意気――」

 そう吐き捨てながら千代子は手を振り上げ、紗由の顔めがけて振り下ろそうとした。


 痛みを覚悟して、紗由はきつく目を閉じる。


「そこまでだ」

 待ち受けていた痛みはやってこず、ふいにアランの声が低く響いた。


「先生……」

 ハッと目を開けると、彼が立ち上がって千代子の手首をしっかりと掴んでいる。彼の目は冷たく光り、普段の穏やかさが消えていた。


「……っ」

 千代子は驚きで言葉を失い、アランの手を振り解こうと必死だったが、彼はその手を決して離さない。


「俺の大事な人に手を上げることは許さない。次に彼女を傷つけるようなことがあれば女性であっても容赦しない」

 アランの冷酷な声に千代子は怯え、大慌てで手を引っ込める。


 彼がそれを離した反動で彼女のポケットから何かが落ちた。千代子は目を見開いてそれを急いで拾い上げ、隠すように握り込む。


「今の……わたくしの母の指輪ではなくて?」

 美鈴がぽつりと言った。


「これは……私の持ち物です」

 目を泳がせた千代子の声は震えていた。


「それなら見せていただけるかしら?」

 美鈴は穏やかな笑みを浮かべて、ふっくらとした白い掌を彼女に見せる。


 渋々といった様子で千代子は指輪を手渡した。


「……はぁ。あなた、最低ですわね」

 いろいろな角度からそれを眺めていた美鈴が、呆れたため息をついた。


「これは、結城家の家紋が指輪の内側に彫られているのです。正真正銘、母のものですわ。千代子さん、あなたは女学校で何を学ばれたのかしら? お客様に対する態度もなっていない。所作も、言葉遣いも何もかも、結城家の使用人としてふさわしくありません。次の仕事先を探しなさい。まあ、どこへ行っても同じかもしれませんけれど」

 美鈴の言葉は冷たく、千代子は狼狽えた。


「そ……んな……だって私は……紗由なんかより……」

 震える手で自身の頬を両手で覆った千代子の目から、大粒の涙が零れ落ちる。


「まだ私の友人を侮辱するというのなら、相応のお覚悟をなさってね?」

 美鈴が立ち上がって紗由の腕に自身の腕を絡ませ、軽やかな笑みを浮かべた。


「紗由さんの優しさに免じて警察沙汰にはいたしません。その代わり、今すぐ出ていきなさい。家政婦長には私から事情をお話しておきます」


 美鈴が強い口調で言い放つと、千代子はその場から逃げるように部屋を出ていった。


「立派だったよ、紗由さん」

 アランは紗由に優しく寄り添い、その肩に手を置く。


「紗由さん、かっこよかったですわ。強くて聡明で、やはり紅璃にそっくりです。お作りになるドレスは赤に決まりですわね」


 二人の言葉に紗由は胸がいっぱいになり、ホッとして涙が溢れそうになった。今まで誰かに認められることなんてなかった。だけど、今はアランや美鈴が自分を見てくれている。


 アランの家には、一緒に料理を作ったり、髪結いをしたりしながら明るい気持ちにさせてくれるしず子もいる。それに、自分を養女に迎えてくれた桐野夫妻もいる。


 ――もう、ひとりぼっちではないのだ。


「そろそろ他のお客様もお待ちかもしれないわ。素敵な方とのご縁を祈っていてね」

 美鈴がかわいらしく片目をぱちっと瞑ってみせたので、紗由は笑顔で頷く。


 彼女の誕生日パーティーは盛大に華やかに行われた。豪華な食事と賑やかな会話に包まれ、まるで夢の中にいるようなひとときだった。紗由は美鈴やアランと笑顔が咲き誇るような時間を過ごす。


 やがてパーティーが終わり、美鈴が用意してくれたタクシーで二人は帰宅した。車を降りてから夜風が肌寒く、思わず肩にかけたショールに顔を埋めて玄関に向かった。


 家の中は外に比べればましだったが、やはりひんやりとしている。


「少し温まろうか」

 ずっとショールを外さない紗由に、アランが声をかけた。


「あ……すみません。美鈴さんのおうちがあまりにも温かくて」

 昼間みたいに明るい照明のせいだったかもしれない。紗由は苦笑いを浮かべながらアランに続いて居室へ入った。ここには瓦斯ガスストーブがあるので、朝晩の冷え込む時間はこちらで過ごすことが増えてきた。


 彼が暖房を入れてくれたので、部屋が温まるまで二人で並んで長椅子に腰かける。


「実は……篠田家の皆さんには、あまり親しくしてもらえなくて……」

 紗由はぽつりと呟いた。今まで暗く惨めな過去をアランや他の人に話さなかったのは、同情で優しくされたくなかったからだ。けれど、お互いに信頼を築けた今なら言える。


 その告白を彼は最後まで静かに聞いていた。


「紗由さん、今までよく一人で頑張ってきたね。これからは俺のことも頼ってくれ。同じ人生みちを歩いていくんだから」


「アラン先生……」


「もうじき夫婦になるんだ。困ったことがあったら二人で解決していこう」


 その穏やかな言葉に紗由の視界が潤んで、とめどなく涙が溢れる。


 アランは紗由の頬にそっと手を添え、彼女の涙を優しく拭い取った。その指先が触れる度に、心臓が早鐘を打つ。


 彼の温もりが伝わり、その優しさに包まれて、体が自然とアランに引き寄せられていくのを感じた。


「紗由さん……」

 その声には、これまで以上に優しさが満ちていて、紗由は胸が締めつけられるようだった。彼女の目がアランの瞳と交わり、心の奥から湧き上がる期待と緊張で、小さく震える。


 ふわりとした甘い空気に包まれ、アランの唇がそっと紗由のそれに触れた。


 ほんの一瞬、優しく触れるだけの口づけだったのに、鼓動が激しく高鳴る。彼の唇は柔らかく、温かく、そして何よりも深い愛情を感じさせた。


 まるで、世界が静まり返ったかのようだ。彼の存在だけが、すべてだった。


 アランが何も言わずに少しだけ離れて、再び彼女を見つめる。紗由の唇に残った彼の温もりが、離れても消えずに残っているようだった。

 

 視線が絡み合い、アランはもう一度、今度は少し深く彼女の唇を捕らえた。


 二度目の口づけは、さきほどよりも長く、強い気持ちが込められているのがわかる。紗由は目を閉じ、そのまま身を委ねた。彼の手が彼女の頬からゆっくりと髪へと移動し、そっと撫でるように触れている。その優しい仕草に、鼓動は高鳴りっぱなしだ。


「私……とても、幸せです。アラン先生、ありがとうございます」

 静かに唇が離れると、紗由は小さく瞼を震わせながら目を開けた。


「俺は、今よりもっと君を幸せにすると約束するよ」

 少し細められた瞳には柔らかな光が宿り、紗由の存在を丸ごと包み込んでくれるようだった。


「この世で一番愛している、紗由」

 迷いも遠慮もないまっすぐな感情をぶつけられて、紗由は瞳を潤ませたまま眉を八の字に曲げて微笑む。宣言したそばから紗由の中で膨らんでいた幸せを、さらに大きくしてくれたのだから、彼の言うことは正しい。


「アラン先生。私も……あ、あ……い……」

 同じ気持ちなのに、いざ口にしようとするとものすごく恥ずかしくて、最後まで言葉が紡げない。


 口をつぐみ、顔を真っ赤にして俯くと、彼の青い瞳に覗き込まれた。


? 『私も』の続きは?」

 いたずらっぽい言い方に、困った紗由は頬を膨らませる。


「あの……ちょっと、心の準備がまだ……」

 もうストーブなんていらないくらい体が熱い。


「祝言を挙げる春までには、聞かせてほしいな」


「は、はい……」

 すぐには無理でも、きっと時間が経てば言えるようになるはずだ、たぶん。


「約束したからね」

 そう言ってアランは紗由を抱き締めた。


 鼓動が甘く切ない悲鳴を上げる。彼は幸せの度合いを簡単に塗り替えてしまう天才だ。


 この出会いを運命と呼ぶのなら、二人の想いは永遠に続いていくだろう。



 ――了――


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