第27話 疼く傷痕
桐野直道と紗由の養子縁組が成立したという連絡があったのは、それから十日ほど経ってからだった。戸籍変更に関して、叔父は特に何も言ってこなかったそうだ。
もともと紗由を追い出したのは先方だ。どこでどう暮らそうが知ったことではないという姿勢だったのだろう。いつかはあの家を出ていく予定だったのだから、その時期が少し早まっただけだ。
桐野と名字が変わっても、紗由はアランの家にそのまま暮らしている。
『急にこちらに住むことになったら寂しがるでしょ?』
桐野家を再度訪問した時に、貴乃が含み笑いを浮かべて言った。
『えっと……それは……』
寂しいと正直に言ってもいいのだろうかと、紗由は自分の手元に視線を落とす。
『違うわよ。アランが!』
すかさずそう続けた貴乃が、朗らかに笑った。
一緒に来ていたアランの方を見ると、手で顔を覆って返答に困っていた。
思いもしないところで彼の知らない一面を覗けたことが嬉しい。
そういうわけで、紗由は今まで通り――いや、一つ変わった点は彼女の部屋が和館の客間から本館のアランの部屋の隣に移ったことだろうか。部屋を移った数日は壁を一枚隔てた向こうに彼がいるのだと思うと、緊張してなかなか寝つけなかったものだ。
過ごしやすい季節が少しずつ過ぎて、十月ももうすぐ終わろうとしていた。
数日後には、美鈴の誕生パーティーが開催されるとのことで二人も招待を受けている。久しぶりに彼女に会うのが楽しみで、アランと一緒に彼女への贈り物も用意した。
(今までとは違う。毎日が楽しい。先生のおかげだわ……)
窓の外には煌々と輝く盆のように丸い月が浮かんでいる。あの恐ろしい事件からひと月が経ったのだ。
「無理をしなくてもいいからね、紗由さん」
アランが念を押すように声をかけてきて、紗由はカーテンを閉めて振り返る。
「大丈夫ですよ。事件の後も先生が血液検査をしてくれて、軽い貧血以外に異常は見つからなかったじゃないですか。調合した薬よりも、私の血の方が本当に効果があるのか、検証の継続は必要だと思うんです」
紗由はにっこりと笑って寝台に腰かけた。
実は事件の後、紗由が貧血で起き上がれなかった間に、アランはしず子が起こしにいかなくても自分から目覚めることができるようになったのだ。
それに時々起きていた血の渇望の発作も、薬を飲まずとも過ごせているらしい。どうやら『特別な存在』である紗由の血を吸ったからだろうとアランは言った。
体質が変わったのかと思いきや、やはり満月が近づいてきて少しずつ体が以前に戻りかけてきているそうだ。
――そこで紗由が提案したのだ、満月の夜に自身の血を分けることを。
「君には負担をかけてばかりだ」
アランの声には、どこか申し訳なさが滲んでいた。
「負担だなんて……むしろ、こうして先生の力になれることが、すごく嬉しいです」
紗由は彼を安心させるように、大きな瞳を輝かせて答える。
「……ありがとう」
静かに紗由の隣にアランが座り、微笑を浮かべた。
長い黒髪を手で梳いて片側にまとめると、白い首筋が露になる。そこへ彼の吐息が重なった瞬間、柔らかい痛みが走った。だがそれを超えると、二人の絆が深まるような気がして、彼女の胸は温かさで満たされる。
優しく血を吸い上げた彼は、そっと彼女を両腕の中に閉じ込めた。互いに言葉はなかったけれど、穏やかに寄り添う時間は幸せそのものだった。
※
それから数日後――。
「紗由さん、アラン様! 今夜はわたくしの誕生パーティーに来てくださってありがとう!」
結城子爵邸の広々とした玄関ホールで、紗由たちを出迎えてくれたのは美鈴だった。
淡い水色のドレスに純白の羽飾りが縫いつけられている。動くたびに生地がキラキラと輝いて、正真正銘、主役の光を放っていた。編み込んだ髪がまるで王冠のようにきれいな円を描き、上品にまとめ上げられている。
「お誕生日おめでとうございます、美鈴さん。これ、よかったらもらってください」
深い紺青色の着物に身を包んだ紗由は、綺麗なリボンがかけられた包みを美鈴に渡す。
「あら、もしかしてこの形は、本……かしら?」
「美鈴さんならきっと気に入ると思って先生と選んだんです。それと……今お召しになっているドレスですけど、『風薫る夜の約束』の主人公リナが迎賓館で着ていたドレスみたいで、素敵ですね」
そう言うと美鈴は目を輝かせて紗由の手を取る。
「やっぱり! 気づいてくださったのは紗由さんだけですわ!」
さすがです、と美鈴は感心しきりだ。
「こんな感じに……と、伝えて、作っていただいたのよ」
「すごいですね。本当にお話から抜け出してきたみたいです」
紗由は目をぱちばちと瞬いた。
「まだパーティーには早い時間ですの。わたくしの部屋で少しお話なさらない?」
紗由とアランは美鈴に案内され、彼女の部屋に通された。
広々とした部屋は、華族の娘らしく豪華で上品に整えられており、壁には繊細な刺繍が施されたカーテンが優雅に垂れ下がっている。
「お茶を持ってこさせますわ。あ、そうそう。今度、紗由さんもドレスをお作りになりません? 『紅蓮の姫君』の
「紅璃のドレス? 私、あんな優雅さも気品もないです。ドレスに負けちゃいますよ」
紗由は苦笑いを浮かべて首を横に振った。
「そうかしら? 紗由さんはおっとりしていそうだけど、内に秘めた強さとか覚悟とか、紅璃に似ていると思ったのだけど」
美鈴はふふっと笑って、二人を長椅子に座るように促す。
「着物も素敵だけど、ドレスも似合うと思うよ」
アランまで持ちあげるようなことを言うので、紗由は
「わたくし、今夜こそ、素敵な殿方を見つけてみせますわ! と言いたいところですが、おとなしく愛想を振りまくしかなさそうですの」
「どうかなさったんですか?」
「藤堂の一件があったでしょう? 父に『騙されるお前も悪いのだ』と叱られてしまいましたの。結婚相手は父が見つけてくれるそうですわ」
残念そうに美鈴は肩をすくめる。
「でも、もし私が新しく見つけたお相手が、素敵な方だったら父も文句を言わないと思いません? 紗由さんとアラン様のように想い合って結ばれたいのですわ」
屈託なく笑う美鈴を見て、紗由もつられて笑った。
「美鈴さんなら、きっといい人が見つかりますよ」
三人でそんな会話をしていると、ほどなくして美鈴の家の使用人が軽やかな足音とともに紅茶を運んできた。
だが、運んできた人物を見た瞬間、紗由は身体を硬直させた。
「……千代子姉さん?」
「紗由!?」
紅茶のトレイを持って現れたのは、紗由の従姉である千代子だった。
彼女は以前とは全く異なる服装をしており、今は使用人としてのエプロン姿だった。
かつては裕福で見下すような態度をとっていた千代子のその変化に、紗由は驚きを隠せなかった。
「あら、ご家族……でしたの?」
美鈴がきょとんと首をかしげる。
「従姉……でした」
紗由は小さな声で答えた。
「そうでしたの。お仕事の面接にいらして、同じ藤堂に騙された者として気の毒だと思って雇って差し上げたのですわ」
篠田家の現状が厳しいとは以前聞いていたが、千代子が女学校を辞めて働きに出ていたとは知らなかった。
「……なんで、あんたがここにいるのよ?」
千代子はトレイを乱暴にテーブルに置き、キッと紗由を睨みつける。その口調は鋭く、まるで今にも攻撃を仕掛けるかのようだった。
かつて篠田家で受けていた懲罰を思い出して、紗由は身をすくめる。
もう消えたはずの傷がじくじくと疼くような感覚に冷や汗が流れた。
(どうしよう……ここには、アラン先生も美鈴さんもいるのに)
仕事が遅い、役立たず、どこに行っても同じ、物を盗んだと決めつけられる、追い出される……ひとりぼっちになる。
――また?
心の底から冷たいものが広がって、紗由の顔が真っ青になった。
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