第26話 金木犀の庭は真に甘く
翌日、しず子に支度を手伝ってもらった紗由は、アランと共に桐野家の本邸の玄関の前に立っていた。
淡い桃色と薄鼠色の格子柄の着物は、先日アランに買ってもらったものの一つだ。金糸が織り込まれた藤色の帯に、浅黄色と桃色の組み紐で作られた真珠付きの帯留めは、着物にはとても合っていたが、果たしてこれを着るだけの資格が自分にあるのだろうか。
不相応な物を着ていると思われたらどうしようと、紗由は不安になる。
左手の薬指には柘榴石の指輪がきらりと光っていて、震える心を
髪は、左右でふんわりと作った三つ編みをくるりと優しくまとめてもらい、母の形見の髪留めを挿している。
数日ぶりの外出になったが、至るところから淡く甘い香りが漂ってきた。
(金木犀の香りだわ。もうそんな季節なのね)
秋の気配が少しずつ色濃くなりつつあるこの季節は、なぜかどこか寂しいような懐かしいような気持ちになり、つい感傷的な気分にもなる。
(篠田家の人たちとは違う。アラン先生を育ててくれた人たちだもの、大丈夫。大丈夫)
深呼吸を一つして、先に中に入ったアランに続いた。
「おかえりなさい、アラン。と、そちらが……」
玄関で出迎えてくれた女性は、
勝手に絢爛な和装を想像していたので、なんだか気が抜けてしまった。
「以前お話していた、篠田紗由さんです」
アランの声に、紗由はハッと居住まいを正す。
「し、篠田紗由です! アラン先生にはいつもお世話になっていて、感謝の気持ちでいっぱいです!」
もっと他にちゃんとした挨拶を考えていたはずなのに、残念ながら全部飛んだ。
「まあ! 想像していた通りのかわいらしい娘さんね。私はアランの母の貴乃というの。さあ、どうぞこちらへ」
貴乃はパッと笑顔を浮かべると、二人を応接間に通す。
「よく来てくれたね、篠田さん」
応接間で待っていた直道がにっこりと笑って席を勧めてくれた。「はじめまして」と紗由は頭を下げてから長椅子に腰かける。
「今回の事件ではとても大変な目に遭ったそうだね」
「あ……」
そのことを話してもいいのだろうかと、隣に腰かけているアランの方を見た。
「藤堂の治療のためには父の協力が不可欠だった。二人への説明は捜査局から了承を得ているから、大丈夫だよ」
アランがそう言ってくれたので、紗由はホッとして頷く。
「そんな物騒な話を蒸し返しても紗由さんは楽しくないでしょう? 私はそれより二人のなれそめとか、どれくらい仲がいいのか聞きたいわ」
貴乃は首を少し傾げて、期待に満ちたきらきらとした視線を紗由に向けてきた。
「えっ……」
紗由はびくっと肩をすくめて、すぐに顔を真っ赤にする。
さきほどから、あ、とか、え、とか言葉らしい言葉を発せていない自分が情けない。
「そういう質問の方が答えにくいだろう」
直道が軽く妻を
「いつもこういう感じだから、慣れていってもらえると嬉しい」
アランが苦笑したので、紗由も困ったように眉根を下げながらも笑みを浮かべて頷いた。
そして和やかな空気の中で、普段どのように過ごしているのか、趣味や好きなものはあるのかなど、いろいろと聞かれ、紗由はぽつぽつと答える。
桐野夫妻の気遣いのある優しい雰囲気に、だんだん緊張も解れていった。
「実は、篠田さんに提案があるのだ」
茶が冷めた頃、直道がそう切り出してきた。
「はい。なんでしょうか?」
「もしよかったら……我が家の養女になってくれないだろうか?」
その言葉に紗由は驚き、一瞬言葉を失う。
「私たちには子がいない。アランを養子にしようとしたが、現行の法では無理でね。ただ、娘の婿として迎えればこちらの戸籍に入ることができる。君さえよければ……」
「ちょ、ちょっと待ってください」
アランが急に声を上げた。
「まるで紗由さんを俺のために利用しているみたいな言い方は、やめてくれませんか?」
彼は少し怒ったように眉を吊り上げる。
「いや、すまない。だが、以前から考えていたことなのだ。お前の戸籍は英国に残っているが、病院の後を継いでもらうには、こちらの戸籍に入ってもらった方が、話がこじれずに済む。篠田さんの話が出なければ、近いうちに見合いでも進めようかと思っていたところだった」
直道の表情は真剣そのものだった。
「強引な話ですね」
「いつものことでしょう?」
貴乃が笑うと、アランは肩をすくめた。
紗由は口を閉ざしたまま、考え込む。たとえ自分が篠田家に籍を置いていても、もうあそことは関わりはない。アランの将来が、より明るいものになるなら、自分にできることは何でもしてあげたい。
「無理に決めることはないわ」
と、貴乃は優しく言った。
「いえ……私は、もう、帰る家がないですし、ご迷惑でないのなら……その話、お受けします」
少し考える時間はあったものの、最初から答えは決まっていたようなものだった。
「紗由さん、ゆっくり考えてもいいんだよ?」
「篠田家には何の未練もありませんから。大丈夫です」
にっこりと笑って答えると、直道も貴乃も喜んでくれた。
(ん? 娘の婿?)
ふいに、直道の言葉が心の中に戻ってくる。そして押し寄せる恥じらいの気持ち――。
(なんで? どうして話がそこまでいってるの!? アラン先生ったら、どこまで私のことを話しているんだろう?)
自分の知らない所で外堀が埋められていく感じ。嫌ではないけれど、心の整理が追いつかない!
その後、昼食を共にすることになり、貴乃がアランの幼少期の話を楽しそうに話していたが、紗由はそわそわしながらうわの空で相槌を打っていた。
(アラン先生と、結婚……するの?)
実感が湧かない。自分しかアランを支えられないと自負しつつも、結婚相手としてふさわしいのだろうかと考えると自信はない。でもアランが他の女性を妻に迎えるのを想像するのも嫌だ。
(私って、我儘ね……)
紗由は自分に呆れてしまう。
食事が終わり、帰る前にアランと二人で庭を散歩することになった。石灯籠や小さな池があり、小道を進むと奥には立派な金木犀が植えられている。
「あの……今日は本当に、色々とありがとうございました」
紗由は静かに頭を下げた。
「礼を言うのは俺の方だよ。君がここに来てくれただけで嬉しい」
アランがそう言うと、ざあっと風が強く吹いて、金木犀の花弁が宙に舞う。それが紗由の髪についたようで、アランがそっと手を伸ばして摘まんで取ってくれた。
「花の精みたいだね」
「そんなこと……」
紗由は目元を赤らめて視線を足下に落とす。
――訪れる沈黙。木々がさわさわと揺れる音だけが聞こえた。
ふいに、アランの手が彼女の頬に触れ、指先でそっと撫でる。
その温もりが心に深く染み渡り、胸の奥から湧き上がる熱に耐えきれず、顔を上げることができない。
全身が痺れるような感覚の中、アランはさらに身をかがめ、紗由の額に優しく唇を寄せた。
(ま……っ)
その瞬間、紗由の心の中で何かが爆発する。
(ま、待って……! 何? 私、どうしたら……!?)
心の中で大混乱を起こしながら、紗由は震える手をどうにか落ち着けようとした。
するとアランは、それをしっかりと自分の手に包み込み、そのまま腕の中に抱き寄せる。
「好きだよ。絶対に君を離さない」
低く落ち着いた甘い声色が優しく降ってきて、もう一度髪に口づけが落とされた。
むせかえるような金木犀の香りの中、どうしようもなく胸が高鳴り続ける。
きっとアランにも聞こえているだろうと思ったけれど、彼の胸に押し当てた紗由の耳にも彼の落ち着かない音が響いた。
(先生も緊張しているの?)
その鼓動が自分に向けられた愛情の証に思えてきて、心の奥から喜びが溢れだす。
――幸せ過ぎて、夢みたい。
この温もりが続くなら、どんな未来も恐れない。彼となら、大変な道でも歩んでいけそうな気がした。
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