第四章 深紅の絆、永遠の最愛

第20話 真実と幻想と

 腐った臭いとびた鉄の臭いを混ぜた不快な空気に、紗由は眉を寄せる。思わず口元を手で押さえ、ハッと目を開けると、そこはアランの家の和館ではなかった。


 カーテンの隙間から差し込む望月もちづきの光が、室内をぼんやりと照らしている。


 壁には何かの絵画が飾られ、幾何学模様の絨毯が床に敷いてあった。背もたれが高く濃紫色の天鵞絨ベルベットが張られた舶来物の椅子が、重厚な衣装箪笥の前に一脚ぽつんと置かれている。


 その中で、紗由は窓際にある広い寝台の上に寝かされていた。さらりとした真っ白なシーツはかびくさくはない。少なくとも人の手が入っている部屋ということだ。


 ゆっくりと上体を起こすと軽い眩暈がしたが、掌で額を押さえながら周囲を見渡す。


「ここは……どこ……?」

 震える声が静まり返った部屋に響いた。だが、応じる者はいない。


 カーテンを開けると、周囲に光は見えない。どうやら帝都の中心部からは離れた場所のようだ。


(たしか、何か物音がして……)

 誰かの声を聞いた気がするが、その後の記憶がない。きっと気を失ったのだろうが、どれくらい時間が経ったのだろう。まだ月が出ているなら、少しの間ということで認識は合っているだろうか。


 ふと、部屋の扉が音もなくゆっくりと開き、その気配で振り返った紗由の鼓動が一気に跳ね上がった。


「ようやく気がついたか」

 暗がりの中から現れたのは背の高い男だった。


 光沢のある絹の外套は、夜の闇に溶け込むような濡羽色ぬればいろで胸元に金の刺繍が施されている。それだけではなく、中に着ている洋装スーツも足元まで黒で統一され、紐のように細いリボンタイだけが唯一白かった。


 病的なほどすらりとしているが、こちらを射抜く紅い瞳は、ぎらぎらと獲物を前にした獣のように光っている。


 白に見えた髪は月光を受けて薄い金色に輝き、緩く波打った長い前髪が片眼を隠していた。その顔立ちは美しく、同時に底知れない冷酷さを感じさせる。


 男の声色は冷たく、どこか楽しんでいるようにも聞こえたが、和館で聞いたものと同じ声だ。


「あなたは、誰……?」

 身をこわばらせた紗由の喉はかすれ、か細い声が絞り出された。


「ディルクだ。覚えておけ。お前がこれから長く仕えることになる主人の名だ」

 男はそう言って、豪奢な椅子に優雅な仕草で腰かけ、長い脚を組む。


 肘掛けに左肘をつき、その手が顎を軽く支えた。鋭い目つきはまるで紗由を品定めしているかのようだ。


「ディルク……?」

 耳にしたことはないが、この異様な雰囲気は人間離れしている。


「あなたが、連続失踪事件の犯人なの?」


「そうだと言ったら?」


「自首して、罪を償ってください」

 そう告げると、ディルクは無表情のまま軽く笑いを漏らした。


「自首? 罪を償う?」

 まるで馬鹿げた提案であるかのように、彼女の言葉を反復する。


「そんな概念は、人間だけが恐れるものだ」

 彼がそう言ってニヤリと笑うと、長く鋭い犬歯が恐ろしげに現れた。


(この人は……やっぱり吸血鬼なんだ。今まで攫った女の人たちは……)

 紗由は部屋に流れる異質な臭いの正体を想像して、ごくりと喉を鳴らす。


(でも、さっき、長く仕えることになるって言ってたわよね。すぐに私の命を奪うつもりはないのかしら……)

 ディルクの意図がわからないが、少しでも時間を稼げないだろうか。自分がいなくなったことにアランが気づいてくれれば、きっと探しに来てくれる。そう信じるしかない。


「どうしてこの国へ来たの? もともと住んでいたわけではないわよね?」


「この国は近年西洋の文化を取り入れるのに躍起やっきになっている。紛れ込むには絶好の機会だった。誰も吸血鬼という存在など知らずに暢気に暮らしているさま滑稽こっけいだよ」

 ディルクは笑ったが、すぐに真顔になる。


「私は藤堂という男に取引を持ち掛けた。若い女を提供してもらう代わりに、吸血鬼の血を使った不死の薬を開発してやるとな」


「不死? そんなことできるわけ……」


「もちろん嘘に決まっているだろう。だが吸血鬼の血を混ぜた溶液には、傷や病を通常よりも早く速度で回復させる効果がある。それで丈夫になった、若返ったと勘違いしているのだからめでたい奴らだ。やがて口にする溶液の量が増えていけば、それらは一人残らず私の手駒になるだけなのに、何も知らずに次々と売れていく」

 すでに藤堂は私の言いなりだ、とディルクは目を細める。


 そんな薬が巷に出回っているなんて知らなかった。もし、このままいけば帝都はおろか、日本中の人々の命が危険にさらされてしまう。


「そんなことをして楽しいの?」


「私は人間が嫌いなだけだ。復讐を遂げるまで誰にも邪魔はさせない」

 ディルクはわずかに顔をゆがめた。そこに何か苦い記憶でもあるのだろうか。


「誰に復讐するの?」

 紗由が尋ねると、彼はこちらを睨み、すっと立ちあがった。


「ごちゃごちゃとうるさい。お前は私の命脈になってもらう。おとなしく私に血を与えるんだな」


「命脈って……」


「文字通り、命を繋ぐものだ。お前には特殊な血が流れている。我々にとって最高の甘露」


「どういうこと?」


「その血を啜るだけで私の力が今まで以上に増強し、寿命も延びる」


「『特別な存在』とは違うの?」


「……なぜ、お前がその言葉を知っている?」


「アラン先生が……教えてくれたから。私は、先生にとって特別な存在だって」


「そんなものは幻想にすぎない。私は単にお前の血が欲しいだけだ。今まで自分の体が特殊だとは感じなかったのか? 人とは違うと思ったことは?」

 そう言われても、紗由には何も思い当たることがない。


 ――が、一つだけあった。


 曇天の空の下、降りしきる雪、事故で横転した車。横たわり、目を開けることのない両親の姿。


 七年前のあの時、自分も確かに大怪我を負ったはずなのだ。けれど、傷一つなかった。だから、ずっと自分は、親戚に連れられて病院へ駆けつけたのだと思い込んでいた。


 それはつまり、不思議な力が働いて傷を完治させたということなのだろうか。でも、どうやってそんな奇跡のようなことができたのかはわからない。


 ただただ悲しくて、ひとりぼっちになったことがつらくて、絶望に落とされた自分は母に教えられた通り笑っていた。

 笑って、笑って、嫌なことは全部忘れて――。


(思い出した……)

 千代子に言われたことは真実だったのだ。紗由は葬式の間中、ずっと笑顔でいた。


(私……なんてことを……)

 つらい時は笑ってというのは、きっと母なりの慰めだったのだろう。少しでも前向きな気持ちになってという励ましを、幼い自分は言葉の通りに受け止め、時と場所も考えずに実行してしまった。


「どうやら、心当たりがあるようだな。そうだ。お前の血には再生の力がある。吸血鬼の血は同胞には効果がない。だから普通の人間にはない、特別の血が流れている者を探していた」


 アランが言っていた「特別な存在」と、ディルクの言う「特別な血」。同じように聞こえても、意味は全く異なっている。


「アラン先生は、私を……好きだと……そう言ってくれました。あなたには、そんな特別な存在はいないんですか?」

 そう問いかけると、一瞬、ディルクの表情が曇った。彼は冷たく微笑むが、その笑みの奥には影が見え隠れしていた。


「そんなものは存在しない」

 彼はまるでその問いが無意味だと言わんばかりに、冷たい声で言った。


「……じゃあ、生き続けることに何の意味があるの? 誰に復讐したいのか知らないけど、その相手だって何年も生き続けるわけではないでしょう?」

 彼女の問いかけに、ディルクの瞳が一瞬だけ揺れた。


 それは紗由には気づかれないほどの瞬間だったが、彼の中に潜む何かを刺激したようだった。


 ディルクが立ちあがり、紗由の方へやってくる。


 紗由は慌てて寝台から下りようとしたが遅かった。


「もういい。さっさと血を寄越せ。私に逆らう気など起こさせなくしてやる」

 寝台に押し倒され、笑ったディルクの口元には猛獣のような鋭い牙が見えていた。


「いやっ!」

 抵抗してもびくともしない相手に、死をも覚悟した瞬間、ディルクが弾かれるように身を起こし、寝台から飛び降りた。


「お前……何かまじないの道具を持っているな?」

 口元を覆ったディルクの指の間から何か煙のようなものが出ている。同時に口の周囲が赤く焼けただれたようになって、皮膚がめくれていた。肉が焼けるような嫌な臭いが漂ってくる。


「ま……じない?」

 紗由はすかさず起き上がって、窓の方へ近づいた。


 さきほど覗いた限りでは、ここは一階ではない。落ちれば痛い思いをするか、命にかかわるかもしれない。けれどもし、自分に本当に不思議な力があるとするなら、ここから飛び降りても無傷で済むはずだ。


「そうか。その指輪に術をかけてあるのか。小賢しい奴だ」

 ディルクが舌打ちし、手を下ろすと、すでにそこには白い皮膚が再生している。


「自分以外の吸血を拒絶する西洋魔術。たしか、前にも同じ術を使う男がいたが……まさかな」

 ディルクは、忌々しげにこちらを鋭く睨みつける。


「その指輪を外せ」


「いやよ!」

 触れられないとわかっていて、みすみす言うことを聞く人間がどこにいるというのか。


「なら、その手首から先を切り落としてやる」

 それは冗談などではないだろう。


 紗由は慌てて窓の方を向き、鍵を外そうとしたが、構造が複雑で外れない。


「どうして……っ」

 どれだけ力を込めても鍵がびくともしない。


「術者を先に始末するという手もあるがな。目の前に獲物がいて喰らわないわけにはいかないだろう?」


 すぐ後ろでディルクが囁くのが聞こえ、紗由は大きく目を見開いた。それから懐に入っている物を思い出して、それを取り出し、力いっぱい振り下ろした。


「ぐ……ぅ……っ、力が、抜ける……」

 ディルクがうめき、太腿に刺さった純銀の簪をすぐに引き抜いて床に投げ捨てたが、がくりと膝をつく。


 窓が開かないのなら、扉から部屋を出るしかない。紗由はなりふり構わずに部屋を飛び出した。


 涙が出そうになったけれど、今は自分しか頼れる者はいない。少しでもディルクから離れ、逃げなければと、暗闇の中、手を伸ばして壁伝いに懸命に足を動かした。


 ――夜明けには、まだ程遠い。


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