第19話 奪われた夜

 しず子が作っておいてくれた料理を食卓に並べ、普段着に着替えたアランと向かい合わせの席についた。


「いただきます」

 二人で一緒に声を合わせて箸を手に取る。


 ふっくらと炊き上がった新米に、仄かな柚子ゆずの香りがする鮭の幽庵ゆうあんきがよく合う。つけ合わせの秋野菜の揚げ浸しは、茄子なすやししとう、南瓜かぼちゃがあって彩り豊かだ。菊花きくかとしめじのしろえは、さっぱりしているが奥深い味わいがある。


「先生が久しぶりにお夕食の時間に帰ってこられるって、しず子さん、はりきってたんですよ。すごくおいしいですね」

 大根と薄揚げの味噌汁を口に運んでから、紗由は、ほぅと息をついた。一緒に食べていってくれればよかったのに、と心の中でつけ加えながら。


 玄関での一幕ひとまくがあってからの二人きりという状況に、どうしてもそわそわする。


「うん。やっぱり家で食べる食事が一番だ」

 アランがこちらを見て微笑した。


「よかったです……」

 せっかく数日ぶりに彼と夕食を共にできているというのに、嬉しさよりも気恥ずかしさが勝ってしまって、紗由は当たりさわりのない話題を選んでしまう。


(アラン先生に、聞こえてなかったよね?)

 玄関でうっかり放ってしまった、アランを慕っている宣言。


 人前であんなに大きな声で主張したのは、初めてかもしれない。外までは聞こえていなかったと思いたい。


 彼は何も尋ねてこないけれど、時折こちらを見つめるその瞳が、何か言いたげだ。


 その視線から逃げるように急いで食事を済ませた紗由は、いつも以上にてきぱきと風呂を沸かし、彼が入浴を済ませている間に食器を洗う。


 どんな話をされるのだろう――。


 喜んでいいのか、がっかりするようなことなのか。夕方、アランははっきりと紗由を将来の相手と口にした。


(でも、それは美鈴さんを帰すための方便かもしれないし……)

 彼と入れ替わるように入った湯船の中で、顎まで浸かりながら考え込んだものだから、上がる頃にはすっかり茹蛸ゆでだこのように真っ赤になっていた。


「大丈夫かい?」

 ふらふらしながら浴室から出てきた彼女は、居室の長椅子で休ませてくれたアランに「ありがとうございます」と頭を下げる。


 彼は水の入ったコップを紗由に渡し、団扇うちわで優しく風を送ってくれた。


(私だけ、舞い上がっちゃって恥ずかしい……)

 ありがたく水を口にすると、喉に心地よい冷たさが流れていく。


「申し訳ない。俺が君を不安にさせているのはわかっている」

 アランが声の調子を落とした。


 居間の静けさが一瞬だけ重くなり、紗由はその言葉に顔を上げた。彼の瞳は、いつもと変わらない優しさをたたえながらも、どこか決意がこもっているように見えた。


「せ、先生のせいじゃありません」

 ゆるゆると首を横に振る。


「紗由さん、聞いてくれ。俺は……」

 アランはそこで言葉を切り、床に視線を落とし、言い淀むように深く息をついた。しかしすぐに顔を上げて、紗由を真っ直ぐに見つめてくる。


「……俺の体には吸血鬼の血が流れている。母は普通の人間だったが、父が吸血鬼だったんだ。だから、正確には半吸血鬼ダンピール、という」

 低く絞り出すような声が耳に届いた瞬間、彼女の心臓が跳ね上がった。


 ――半吸血鬼。


 人の生き血を啜るという化け物の血が、アランの体に流れているということなのだろうか。普段の穏やかで優しい彼の姿からは想像もつかない。信じられない気持ちと、理解しきれない驚きが胸を満たす。


 目の前の現実をどう受け止めればいいのか、一瞬言葉を失った。けれど不思議と恐怖は感じない。


「今まで黙っていて申し訳ない。本当はずっと隠し通すつもりだった。でも紗由さんが、今朝、俺の言葉や行動を信じると言ってくれたから、君には真実を伝えるべきだと思ったんだ」


 アランは、幼少期に日本へ連れてこられてから、吸血鬼の衝動と戦ってきたことを話してくれた。直道の調合した薬でほとんど症状は出なくなったこと、普通の人間と変わらない人生を送りたいと思っていることをゆっくりと説明する。


「血への渇望を和らげてくれるのが『特別な存在』だ。それは吸血鬼の本能でしか感じ取れない。その相手の血があれば他の者を襲おうと思わなくなると、実の父親は言っていた。紗由さんが、俺にとってのなんだ」

 アランの澄んだ青い瞳はどこまでも深くて、揺らぐことはなかった。


「でも幸いなことに俺には半分人間の血が流れているから、君の血を無理に求めようとは思わないから安心してほしい。ただ、そばにいてくれるだけで心が安らぐんだ」


 彼の言葉がすとんと胸に落ちてくる。今まで、ずっと彼が抱えてきた苦しみを思うと、やるせなさが込み上げてきた。紗由は少し俯いて、そっと息を吐く。


「アラン先生。本当のことを話してくださってありがとうございます。どんな秘密を持っていても、私は先生を信じています」


「ありがとう、紗由さん。俺は……君のことが好きだ。『特別な存在』ということだけではなくて、君自身に心から惹かれている」

 アランの言葉に、紗由の胸が熱くなった。


「初めて会った時、自分の夢を語る君がとても眩しく見えた。この人と同じ未来の景色を見られたら楽しいだろうなと感じたんだ」

 彼はそう言ってふっと笑う。


「私は……先生を応援したいし、支えたいです。これからも、ずっとそばにいたい」

 私の言葉に、アラン先生は深く頷いてくれた。


「よかった。夕方、君が言っていたことは俺の願望が聞かせる幻ではなかったんだ?」


「え、聞こえて……いたんですか⁉」

 紗由は目を丸くして、口元を手で押さえる。せっかく余計な熱が引いてきたのに、また逆戻りだ。


「ああ。でも、ちゃんと聞こえなかったから、もう一回言ってもらえると嬉しい」

 アランはそう言って、じっとこちらが話すのを待っている。


 全身から汗が噴き出してきた紗由は、深呼吸を何回繰り返したしただろうか。


「……先生のことをすごくお慕いしています」

 ようやく決心してはっきりと告げると、アランは泣き笑いのような顔になって「ありがとう」と呟いた。


「紗由さん、俺は今まで薬のおかげで今夜のような満月の日でも人を襲ったことはないけれど……でも、万が一のことがあった時には……これで僕を止めてほしい」

 そう言って彼が差し出してきたのは、真珠の飾りがついた美しい純銀のかんざしだった。繊細な桜の鎖細工がしゃら、と揺れる。


「吸血鬼は純銀で深く傷つけられると、しばらく動けない。その間に、俺のもとから逃げてくれ」


「先生……」

 そばにいてほしいと言ったアランが、どれだけ覚悟を決めてこの話をしてくれたのかが、痛いほど伝わってくる。


「苦労をかけるかもしれないけど……よろしく」


「私の方こそ、先生を思う気持ちだけは誰にも負けないつもりです」

 恥ずかしくて、視線を落としながらも、精一杯の気持ちを込めた言葉だった。


 それを聞いたアランは、優しく紗由を抱きしめる。


 その温かさに、全てが包み込まれるような気がした。彼の少し速い鼓動が耳に響いてくる。きっと同じように逸る自分のものも彼に伝わっているはずだ。


 胸がぎゅっと苦しくなるけれど、それは込み上げる幸せにまだ体がついてこないから。


 ずっとここにいていい。アランのそばにいていいのだ。やっと自分の居場所を見つけられた気がして、嬉しくて涙が滲んだ。


「少し遅くなってしまったね。今日は休もうか、紗由さん」

 アランは紗由をそっと離し、少し照れくさそうに微笑んでから言う。


「はい……明日もお仕事がありますもんね」

 彼女もはにかみながら、頬にかかった黒髪を耳にかける。その耳朶じだは真っ赤だ。


「ああ。それと……君にあげた指輪、全然着けていないみたいだけど、どんな時も身に着けていてほしいんだ」


「眠る時も?」


「そう。いつでも俺がそばにいることを忘れないでほしい」


「わかりました。それじゃ……おやすみなさい」

 毎日顔を合わせているのに大げさだと思いながらも、誰にも遠慮せずに彼からの贈り物を身につけられるのだと思ったら、とても嬉しくなった。


 自然と緩んでしまう頬を押さえながら、彼女は和館の客間に向かう。


「すごい霧ね」

 外は、庭の植木もよく見えないほど真っ白な霧が立ち込めていた。もちろん満月も見えない。


 紗由は部屋に戻ると、仕舞っていた柘榴石の指輪を取り出して薬指に嵌める。柔らかく指に馴染むその感覚は、まるでアランとの絆がまたひとつ深まったように感じられた。


 鏡を見ながら髪にそっと簪を挿してみる。桜の飾りが繊細な音を立てて揺れた。


(先生は私にとっても特別な存在……)

 紗由が目を細めた時、外で何か物音がした気がしてハッとそちらを向く。


 野良猫だろうか。時々、庭に迷い込んでくるのだ。


 彼女は銀の簪をはずして懐に仕舞うと、そっと立ち上がって廊下に出る。


 冷たい霧が肌にまとわりつき、背筋がぞくりとした。その中に紅く光る二つの目が見える。それが猫ではないのは明らかだった。


「ここにいたか、我が命脈よ」


 聞いたこともない冷酷無比な声を聞いたのを最後に、紗由の意識は暗転する――。


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