第18話 恋嵐

「アラン先生、いってらっしゃい」

 朝、紗由はいつものように彼に鞄を渡して出勤を見送ろうとした。


 しかし彼からの返事はない。いつもなら笑顔で応じてくれるのに、今日はどこか思いつめたような陰りがある。


「昨日、仕事を探しに行っていたんだってね?」

 アランがおもむろに口を開いたので、紗由はその静かながら鋭い声にギクリとした。


「新聞の求人欄が切り抜かれていたから、しず子に確認したら君が持っていったと」

 鞄を少し下げ、その視線はまっすぐに紗由を捉えている。


「はい……。住む所も用意してくれるお店だったんですけど、だめだったので、今日は他も見て……」


「住む場所を探す必要はない。君には、ずっとここにいてほしいと言ったはずだ」

 アランの声にはいつもと違う厳しさが滲んでいて、彼女は驚いて目を瞠った。


「で、でも、それじゃ、先生に迷惑が……」


「迷惑? 何が?」


「……先日、加賀見さんという警察の方がいらして、先生のことを吸血鬼じゃないかって……」

 紗由は、少し震える声で、加賀見に聞いた吸血鬼の性質のことを話して聞かせた。だから、自分がここにいることで、アランがあらぬ疑いをかけられているのでは、と。


 言葉が途切れると、彼は眉を寄せてしばらく沈黙していた。


「紗由さんは……それを聞いてどう思った?」

 柔らかな物言いだったが、その瞳には緊張が宿っているように見えた。自分がどう答えるかで、彼の未来が変わるような気がしてならない。


「私、は……」

 紗由は声を詰まらせたが、アランの真剣な視線に背を背けることはできなかった。


「アラン先生の言葉や行動を信じたいです。誰かが言うことよりも、自分の目で見たこと、感じたことを大切にしたいから」


「そうか……」

 答えが放たれた瞬間、彼の顔に微かだが確かに安心の色が浮かぶ。その肩が少し落ち、先ほどまでの緊張が解かれたようだった。


「今日は、定時で帰ってくるよ。君に大事な話がある」

 アランはそう言うと優しく目を細め、彼女はホッとして小さく頷く。


 彼はその反応を見て満足そうに再び微笑むと、手にした鞄を軽く握り直し玄関を出ていった。



 夕方、外はすっかり暗くなり、紗由は静かに居間で洗濯物を畳んでいた。しず子が炊事場で夕食の支度をしている音が響いてくる。


 ふと玄関の方から軽やかなノックの音が聞こえた。棚の上の時計を見ると午後六時を回っている。アランならノックもせずに入ってくるはずだ。


「どちら様ですか?」

 紗由が急いで玄関に向かい、扉を開けると、そこには見たことのない上品な女性が立っていた。


「こんばんは。わたくし、結城美鈴と申します。アラン様はご在宅かしら?」

 美鈴は上品に包装された和菓子の箱をそっと抱え、楚々そそと微笑む。深みのある柿色の着物には、金糸と赤紫のもみじの葉が繊細に刺繍されていた。


 袖口と裾には秋花が風に揺れる様子が見事に描かれている。左右で三つ編みにした髪を綺麗に巻き、浅黄色のリボンで飾っていた。


 その上、金と琥珀の髪飾りが、玄関の灯りにきらりと光る。そこにいるだけでパッと周りまで華やかにさせるような人だ。


「アラン先生はもうすぐ帰ってくる頃かと……」

 紗由はその絢爛な雰囲気に圧倒されながらも、なんとか言葉を返した。


「そう? なら少し待たせてもらうわ。あなたはこの家のお手伝いさん?」

 美鈴はにっこりと笑いながら、まるで親しい友人にでも話しかけるかのように言葉を続ける。


 紗由は一瞬戸惑ったが、「そのような、ものです……」と言葉を濁した。


「そうなの、かわいらしいですこと。アラン様ったら、こんな素敵なお手伝いさんがいるなんて幸せですわね!」

 美鈴の軽やかな褒め言葉に、紗由の胸の中で何かがざわつく。


 アランとどういう関係なのだろうか。もしかして、彼が話したいことというのは、この女性のことなのだろうか。最近ずっと遅いのも、そのせい――?


 紗由はそこまで考えて、ぎゅっと自身の着物を掴んだ。


「あ、あの、先生とは何かお約束を、なさっているのでしょうか?」

 何を言っているのだろう、と自分の中の一人が呆れる。


 見るからに高貴な家柄の令嬢に対して、玄関で立たせたまま対応するなど非常識だ。美鈴の後ろには従者らしき男も控えている。


 背後からは炊事場を出てきたしず子が、「お客様ですか?」と言いながらやってくる足音も聞こえた。


 加賀見のような胡散臭い男さえ家に上げたというのに、どうしても「どうぞ」と言えない。


 美鈴には中に入ってきてほしくない――なぜだか、そう思ってしまった。


「昨夜、アラン様に命を助けていただきましたの。それで改めてお礼に。勤め先ではご迷惑かと思ってこちらに参ったのですが、少し早かったのかしら。私、彼こそ運命の人だと思っていますの。優しくて、強くて、あんなに素敵な男性には出会ったことがないですわ!」

 美鈴の瞳が輝き、まっすぐに未来を信じているかのような無邪気な笑顔が眩しい。


 またしても、紗由の胸が締めつけられるように痛む。自分はアランがどこで何をしているか知ることすらできない。


 ――でも。


「アラン先生が素晴らしい人だというのは、そばで見ている私が一番感じています。わ、私だって、先生のことをすごくお慕いしているんです!」

 大きな声を出してから、ばくばくと心臓が暴れて、顔がかあっと熱くなった。


 美鈴と、自分と、どちらが優れているか誰が見ても明白なのに、子供のように意地を張ったりして馬鹿みたいだ。


 紗由は恥ずかしくて泣きそうになったが、非礼を詫びなければと口をパクパクさせていると、美鈴の後ろに控えていた従者が頭を下げるのが見える。


 誰だと思う間もなく、玄関にはこの家の主――アランが現れた。


「すみません、うちに何か御用ですか?」

 低く落ち着いた声が、秋風と共に家の中に入ってくる。


「まあ、アラン様! お待ちしておりましたわ。昨夜は本当にお世話になりました!」

 彼が玄関にやってくると、美鈴の顔がぱっと明るくなり、飛びつく勢いで近づいていく。


 彼女の表情は輝くような笑顔でいっぱいだが、アランは少し微笑んだだけだった。


「お元気そうで何よりです。ですが、お礼を言われるほどのことではありませんよ」

 アランの冷静な返事に、美鈴は少し驚いたように眉をひそめたが、再び明るい表情に戻り、さらに一歩近づいて言った。


「そんなこと言わないで! アラン様、私はあなたに運命を感じているのです。私の人生にはあなたが必要なのですわ! ぜひ将来を見据えたお付き合いを――」


 彼女の勢いに、アランが軽くため息をつき、片手を上げて続きを制した。


「美鈴さん……申し訳ないですが、将来の相手は、ここにいる紗由さん以外に考えていません」

 アランは紗由の方を一瞬見やり、さらりと言い切った。


「へ……?」

 美鈴は一瞬言葉を失い、沈黙がその場に広がる。


 ――え?

 紗由はぱちぱちと瞬きを繰り返した。睫毛に乗った涙の小さな粒が弾けて消える。


「な……なんですの。それなら、そうと先に言ってくださいませ。お手伝いなどと偽らずに……」

 美鈴は肩を落とし、紗由を恨めしそうにねめつけた。


「いえ、あの……」

 美鈴の責める視線に、紗由は戸惑うばかりだった。「そばにいてほしい」の次は「将来の相手」と言ったのだろうか、アランは。


 思考が全く追いつかない。


「『運命が違えば、私もあの星になれたのかしら……』」

 突然、美鈴が目を伏せてぽつりと呟いた。それは紗由には聞き覚えのある一節だった。


「『でも、たとえ星になれなくても、この地上で輝く灯火にはなれる』……?」

 おずおずと紗由が呟き返すと、ハッと顔を上げた美鈴がそばにやってきて、その手を握った。


「あなた、『月と星夜のものがたり』を知っているのね!?」


「は、はい……」


「まあ、文章をそらで言えるなんて相当読み込んだということですわよね? 主人公が恋に破れて落ち込んだ時に、相棒の黒猫が慰めてくれる場面は涙なしでは語れないのですわ」


「わ、わかります。だからこそ最後が……」


「ああ、なんて素敵な人なんでしょう! わたくしと同じ感性をお持ちの方がアラン様のご伴侶になられるのでしたら、諦めもつきますわ!」

 美鈴は清々しい笑みを浮かべ、紗由に菓子折りを押しつけるように手渡してきた。


「作者の他のご本はお読みになって?」


「い、いえ」


「では、今度持ってくるわ。あなたとはいい友人になれそう!」

 興奮した様子で握手を求められ、ぶんぶんと右手が上下に振られる。


「アラン様。本当に助けてくださったことには感謝しておりますのよ。日を改めて、また参ります。ごきげんよう」

 そう言って美鈴は、従者を連れて帰っていった。


 小さな嵐のような人だった。そして嵐が去った後に残されたのは――。


「私は、今夜はこれで失礼いたします」

 しず子が「野暮なことはいたしませんわ」となんだかとても嬉しそうに笑って割烹着を外し、勝手口からささっと帰っていってしまった。


「あ……の、おかえりなさい」

 玄関に立ち尽くしたままの紗由は、ようやくそれだけ言う。


「ただいま」

 久しぶりに聞くアランの穏やか返事に、紗由の胸にはくすぐったくも温かな光が灯った。

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