大正妖月(ようげつ)裏話

 闇を照らす満月の光が、風で揺らいだカーテンの隙間からわずかに差し込んできた。その薄明かりの中、白金の髪を持つ男は窓辺のとう椅子いすに長い脚を組んで腰かけ、右頬を指でなぞる。


 その指先に微かに付着するのは、久しく目にすることのなかった己の血。


忌々いまいましい、あの半端者め」

 男は舌打ちして、月明げつめいに目をすがめた。


 通常、人間の攻撃は痛くもかゆくもないが、純銀製の武器は別で、回復に時間がかかる。しかも対峙した男は正確無比にこちらを狙ってきた。それがわずかに頬をかすったのだ。半端者だと油断した自分に無性に苛々いらいらする。


「昨夜は残念でしたねぇ、ディルク様」

 そばに立っていた小太りの男が、暑くもないのに額の汗を一生懸命手巾で拭っていた。


「吸血鬼の血を引いていながら、人間の味方をするとは不埒ふらちな奴もいたものです」


「もういい、黙れ。せっかくの上物じょうものをみすみす手放すとは腹立たしい。藤堂にも言っておけ。今度はもっと人気ひとけのない場所に誘導しろ、と」

 ディルクの血のような赤い目がぎらりと光る。


「ひっ……かしこまりました。もうすぐこちらに到着する予定ですので、しかと言い聞かせましょう」

 小太りの男はひきつった笑みを浮かべながら、ごしごしとこめかみをこすった。


「私の血のおかげで藤堂家を潤わせているというのに、恩をあだで返すようなことがあれば承知しない」

 ディルクはかたわらのテーブルを指先でコツコツと鳴らすと、背もたれに身を預けて視線を遠くへ向け、深いため息をつく。


 足がつかないよう藤堂家の人間に女を誘い出してもらい、闇に紛れてそれをさらう。先日は一人の女の監視をこの男に任せたのが失敗だった。おかげで逃げ出されてしまったが、警察は見当違いの男を追い始めたのでしめたと思った矢先に、昨日の出来事だ。


 警察の到着の速さから、おそらくあの男が警察にマークされていたのだろう。


「今夜は例の女を連れてくる予定ですので、お待ちください」

 小太りの男はぺこぺこと頭を下げる。


「お前が見つけた、『命脈めいみゃく』の血を持つ女か」


「はい。病院の受付の女に暗示をかけて聞き出したところ、篠田という者で、以前祖母の薬を取りに来たとかで……その家も特定できました。確認したところ、その家に若い娘はおりませんでしたので、朔太郎に誘わせたのです」

 手巾をくしゃくしゃにしながら、男はびへつらうような弛緩しかんしきった笑みを浮かべる。


 その声に応じるかのように、部屋の扉がノックされた。


「藤堂朔太郎です。入ります」

 静かに洋風の扉が開かれ、朔太郎が女性を一人伴って部屋に入ってきた。


「ね、ねえ、二人きりになれる場所じゃなかったの?」

 女性が薄暗い部屋の奥に腰かけているディルクとそばに立つ男の存在に気づいて、戸惑いの声を上げながら朔太郎の二の腕にしがみつく。


さん、君の家には多額の援助をしたし、一時いっときでも幸せな夢を見られてよかっただろう? それじゃあ、さようなら」

 朔太郎は冷笑して彼女の手を振り払うと、さっさと部屋を出て行ってしまった。


「は? ど、どういうこと?」

 千代子は眉をひそめたが、ディルクが立ちあがる気配にびくっと肩を震わせる。


「これが……例の女だと?」

 ディルクが低い声で呟いた。


「え、ええと……あれ、なんか、匂いがまったくしませんな」

 小太りの男が千代子に近づいていき、あっと目を丸くする。


「こ、この女じゃない!」


「何の話をしているのよ?」

 千代子がむっとしたような目線を男に向けた。


「お前、姉妹はいないよな?」


「は? 私、一人に決まっているでしょう?」

 千代子はふんと鼻を鳴らす。


「ディルク様……申し訳ありません。どうやら手違いがあったようで」


「無能が」

 ディルクの声が低く冷たく響き、部屋の空気が急に重くなった。


 異様な雰囲気に千代子は言葉を失い、小太りの男は縮こまるように震えだす。


「も、申し訳ありません、ディルク様! 次こそは――」


「言い訳は聞き飽きた」

 ディルクは無感情に言い放ち、手を軽く振った。すると、小太りの男の喉元に鋭い爪が突き刺さる。次の瞬間、男は声も上げずに息絶え、音を立てて床に倒れた。


「ひぃぃぃっ!」

 その光景を見た千代子は、腰を抜かしてその場にへたり込む。逃げなければと思うのに、体が思うように動かない。


「た……助けて!」

 振り返って必死に扉に手を伸ばすが、しんと静まり返ったままだ。


「お前の血を啜れば、かすり傷を治すくらいにはなるか」

 背後からの重圧に耐えきれず、千代子はぼろぼろと涙と流し、「死にたくない!」と唾を吐きながらわめき散らした。


「ま、待って……私は、その女に心当たりがあるわ! 居場所も知ってる! だから、どうか……どうか見逃して!」

 しゃくり上げながら零すその命乞いの言葉に、ディルクは片眉を吊り上げる。


「それは本当だな? 嘘をつけばこの男のようになるぞ」

 彼は床に片膝をつき、赤く濡れた冷たい手で彼女のおとがいに指をかけ、顔を上げさせた。


「はい。その子、紗由というんです。偶然街で会って、その後、興味本位で後を尾けたんです。それで、彼女がどこに住んでいるかも、知っています……」

 だから、私の命だけは……と千代子はガチガチと歯を鳴らし、住所を語る。


 ディルクは一瞬黙り込んだ後、満足げに頷き、ゆっくりと立ちあがった。


「お前の言葉が本当かどうかわかるまでは帰すことはできない。連れていけ」

 ディルクが言うと、どこから現れたのか、表情のない青白い顔の男がゆらりとかげから出てきた。そのまま千代子の腕を掴み、別の部屋に引きずっていく。


 彼女のみみざわりな悲鳴に、ディルクは薄く笑った。


「会いに行くか、『命脈』の女に」

 窓に向かって真っすぐ歩いていった彼は、そのまま窓枠に足をかけ、ふいに消え失せる。


 きりなびく夜、かすむ月が、空を飛ぶ小さな影を寡黙かもくに見下ろしていた――。

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