第17話 追跡者たち(アラン視点)

 アランは帝都の夜の街を歩いていた。石畳の通りを照らすガス灯が薄明かりの中で揺れ、通りを行き交う人々の影が伸びては消える。

 飲み屋や料亭の暖簾のれんから漏れる灯りが、路地裏にかけて伸びており、時折、酔客の笑い声や三味線の音が耳に届く。


(明日は満月。そろそろ動く頃合いだろう……)

 アランは神経を研ぎ澄ませて、怪しい者の気配を探る。しかしながら感じ取れるのは後方にいる若い男の存在のみ。特殊な気配を感じさせる彼は、加賀見に近いものがある。おそらく彼の部下なのだろうが、尾行は織り込み済みである。


(毎晩、ご苦労なことだ)

 男を撒くことは簡単だが、現場に居合わせてもらった方が無実を証明する簡単な方法だと考え、放置している。


 おそらく連続失踪事件の真犯人は、普通の人間が太刀打ちできる相手ではない。


 ――吸血鬼。

 満月の日がもっとも力を発揮できる期間であり、同時に血の渇望がもっとも強くなる。


 日本の警察がその存在に目をつけていることには感心した。だが、どこまで本気なのかが読み取れなかった。加賀見という男はなかなかに食えない男である。


 世間ではまだ不気味さや謎を煽り、人々の好奇心を刺激する話題という扱いで、誰も本気でそんな化け物が本当に存在するとは思っていないだろう。そういう認識でいる間に片を付ける必要がある。


(紗由さんは、新聞を読んで俺が疑われていることを知っているはずなのに、いつもと同じように接してくれる。それが俺にとってどれだけ救いになっているか……)

 彼女の沈黙は信頼の証にも思えた。自分にはやはり紗由しかいないのだと強く感じる。


(事件を解決し、世間が吸血鬼のことを忘れてくれれば、俺も元の生活に戻れる。そうしたらもう一度紗由さんと話をしよう。俺が……として生きていくために)

 アランは喧騒けんそうけるように角を曲がって、路地裏に入る。


 その時、前方から微かな女性の悲鳴が聞こえた。彼は即座に反応し、音の方向へと素早く移動する。暗い路地に足を踏み入れると、そこには男が女性を壁際に追い詰めていた。


 男を視界にとらえた瞬間、空気が張り詰め、微細な振動が体を通り抜けていく。


「やっと見つけたぞ」

 アランが声を漏らすと、男がゆっくりと振り向いた。


 透けるような白い金の髪が緩く波打ち、頬にかかっている。背の高さはアランと変わらない。細身の体躯はやや病的にすら見えた。肌は死人のように青白いのに、不気味なあでやかさを漂わせている。


 もっとも印象的なのは、血の色に染まったかのような緋色の瞳だ。目尻がわずかに下がっているため、その表情にはどこか憂いを帯びた深さがあり、見る者を惹き込む危険な雰囲気を漂わせていた。


「ほう……こんなところで同胞にお目にかかれるとはな。だが、お前は少し違う、か」

 男が赤い唇を歪め、にやりと笑うと、その隙間から長く尖った犬歯が覗いた。目の前の獲物を狩る準備が整っていることを暗示している。


 アランはなんの躊躇ためらいもなく懐から純銀のナイフを取り出し、瞬時に男へと投げつけた。だが、相手はあざ笑うようにそれを軽々とけ、女性をその場に突き飛ばす。


「きゃあっ」

 女性が再び悲鳴を上げた。


「おい! 何をしているっ⁉」

 けたたましい笛の音とともに、アランを尾行していた加賀見の部下が駆けてくる。


 白金の髪の男は小さく舌打ちすると、闇に溶けるように消えていった。


「待て!」

 アランが男を追跡しようとした時、急に体が言うことをきかなくなる。


「もう動けないっすよ、アラン・ブラックウッドさん? あんたの影を踏ませてもらいましたからね」

 路地から現れた加賀見の部下はドヤっと胸を張った。その足元には街灯から伸びたアランの影がある。


「重要参考人として、同行――」


「この人は、わたくしを助けてくださっただけです!」

 張り詰めた空気の中に、明るい声が響いた。


「へ?」

 部下が面食らった様子で目を丸くする。


「不審者はさっき逃げていった男の方ですわよ!」

 地べたに座り込んだままの女性が、暗闇の方を指さす。だが、そこにはすでに男の影はない。


「というか……朔太郎さくたろう様はなぜ来ないのです? 二人で生きていこうって言ってくださったのに……騙されたということ? やはり藤堂財閥は敵だったのですわ~!」

 おさげを振り回しながらまくし立て、女性は悔しそうに着物の袖を噛む。


「えっと……?」


「あなた! どんな仕掛けか知りませんが、この方の拘束を解くのです。わたくし――結城ゆうき美鈴みすずの命の恩人を乱暴に扱ったら、お父様に言いつけてあなたをクビにしてやりますわ!」

 美鈴はキッと部下を睨みつけた。


「ええ……? 結城って、もしかしてあの結城子爵家?」


「そうですわ。早くなさい!」

 美鈴にそう命じられ、毒気を抜かれたような顔になった彼は、アランの影からゆっくりと足を引いた。


 するとアランの体が自由になる。どうやら加賀見の部下はただの警察官ではないらしい。


「ありがとうございます。あなたのおかげで誤解されずに済みそうです」

 アランは微笑み、座ったままの女性に手を伸ばして起こした。


「お怪我はありませんか?」


「は、はいっ! こちらこそ、ありがとうございました。わたくし、結城美鈴と申しますの。ぜひお礼を――」

 美鈴が目を潤ませ、アランを熱っぽく見つめる。


「その前に! 事情聴取が先っす!」

 部下が笛を鳴らすと、美鈴はそちらを見て不服そうに頬を膨らませた。





 アランと美鈴を乗せた警察の車両は、わかりにくい細い路地を何度も曲がりながら、一つの建物の前で止まった。周囲を雑木林に囲まれ、木立から少し欠けた月が見える。


「……ここは、警察署ではありませんね」


「そうっす。ここは内務省の管轄っすよ。あ、結城さんはこっち。まもなく家から迎えが来ると思うので別室でお待ちください」


「わたくしもアラン様と同じ部屋がよかったですわ」

 美鈴は顔を曇らせたが、おとなしく従うことにしたようだ。おそらく誰にも内緒で家を出てきたであろう罪悪感があるのかもしれない。


 アランは部下の案内で『取調室』と札に書かれた部屋に入れられる。


(美鈴さんの証言が役に立てばいいが……)

 アランは椅子の背もたれに凭れかかった。


 結城子爵といえば、金融や貿易業で名を馳せている華族の一つだ。そして彼女が口にしていた『藤堂財閥』とは、藤堂伯爵家以外に考えられない。旧藩主家系としての誇りを持ち、軍需産業や鉄道事業など手広い事業を行っていると聞く。


 厄介なことになりそうだなと思案していると、ほどなくして部屋の扉が開き、一人の男が入ってきた。


「やあ、ブラックウッド先生。またお会いしましたね」

 今日も黒髪をきっちりと後ろに撫でつけた加賀見は淡々とした声で言い、机を挟んだ向かいの椅子に座り、腕を組む。


「あなたへの容疑が晴れましたよ。結城子爵のご令嬢に感謝することですな……それとも、先生はそれが目的だったのですか?」


「どうでしょうか。私は最初からやましいところはありませんので」

 アランが悠然ゆうぜんと笑みを浮かべると、加賀見も負けじと眉を吊り上げて口角を上げる。


「現場に残されていたナイフは先生のものですよね、の。あなたは相手が『普通』の人間ではないと知っていましたね?」


「ただの護身用です――と言っても信じてもらえないしょうね。まず、ここが警察署ではない時点であなた方も『普通』の警察官ではない」

 二人の間に冷ややかな空気が流れる。それを崩したのは加賀見の方だった。


「はあ……先生にはかないませんね。あなたへの容疑はまだ完全に晴れたわけではありません、奴らの仲間という可能性もあるのですから。ただ、このままでは事件が長引きそうだということはわかりました。先生の正体はともかく、犯人を追跡するために協力していただけませんか?」

 加賀見は苦虫をつぶしたような顔で願い出る。


「我々は内務省直属の機関、特務捜査局です。所属している者はすべて特殊能力を持った者のみ。尾行していたやなぎの『かげみ』を受けたでしょう?」

 そう言って彼は、自分たちが世間で秘匿ひとくとされている職務について説明した。


「……ところでブラックウッド先生は、犯人の身元に心当たりがありますか?」


「いえ。ですが、かなり長い年月を生きている吸血鬼だというのは感じ取れました。表立っては行動せず、証拠も残さない。被害女性が逃げ出してこられたのは、おそらくあの男以外の仲間の失態……もちろん私ではありませんよ」

 アランが念を押すと、加賀見は適当に頷いた。


「人間側でそいつをかくまっている者がいるということですよね?」

 加賀見は腕組みを解き、机の上の灰皿を自分の近くに引き寄せ、懐から煙草を取り出して火を着けた。


「結城美鈴は、藤堂朔太郎――藤堂財閥の御曹司と密かに交際していたそうです。反目しあっている両家で交際は許されない……駆け落ちして幸せになろうと持ち掛けられ、あそこが待ち合わせ場所だった、とさきほど語りました」


「代わりにやってきたのはあの男……」


「そうです。それで、今までに行方不明届が出ている女性たちの行動を洗い直してみたら、全員藤堂家の夜会に出席していることが判明しました」

 加賀見はびっしりと文字が書かれた手帳を捲りながら、紫煙をくゆらせる。


「この短時間でそこまで結びつけられるとは、加賀見さんは優秀な方ですね」

 素直に褒めたのだが、加賀見はふんと鼻から息をして、まだ長い煙草を灰皿に押しつける。


「本当に伯爵家が関与しているとしたら、罪に問うのは難しいかもしれない――」

 加賀見は眉間に深いしわを刻んだ。


「しかし、事件を解決できればこれ以上の犠牲者は出ません。治安の維持があなた方の仕事なのでしょう?」


「命優先……実にお医者様らしい考えです」

 加賀見は肩をすくめて、二本目の煙草に火を着けた。


「お褒めいただき、ありがとうございます」

 アランは加賀見の顔を真っ直ぐに見据え、微笑を浮かべる。


 藤堂家の闇がどれだけ深かろうが、関係ない。

 紗由と穏やかに静かに過ごす光景――その未来を必ず掴み取るためには、この事件を早く終わらせなければならないというだけのことだ。

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