第16話 再会

 その夜、紗由が出した答えは、だった。


 きっと病院にも加賀見や彼の部下が足を運んでいるだろう。アランは何も言わないが、記者たちや世間の好奇な目にさらされて参っているはず。


 わざわざ家でまで話題にすることではない。彼には少しでも安心できる時間を作ってあげたい。


 その為には――。


 数日後、普段と同じように出勤するアランを玄関で見送ってから、紗由は炊事場に向かう。そこでは、風邪がすっかりよくなって仕事に復帰しているしず子が、食器を洗っているところだった。


「しず子さん、あの……今日ちょっと日本橋の方に出かけてきてもいいでしょうか?」


「あら、何かお買い物ですか?」

 ちょうど最後の皿を洗い終えた彼女は、水道の栓を閉めて振り返る。


「実は昨日、新聞の求人欄に洋裁店のお針子募集というのがあったので、お店に行ってみようと思うんです。これからは洋装も増えてくるでしょうし、楽しそうじゃないですか? しかもそこ、二階に住まわせてくれるんだそうです」

 紗由はにっこりと笑って、両手の掌を合わせた。


「紗由さん……、でも、そんな急がなくても……」


「しず子さんの腰痛のこともあって申し訳ないなと思うんですけど、私、やっぱり早く独り立ちしないといけないと思うんです。ほら、もう十八歳だし、働いてたらいい出会いもあるかも、なんて!」

 アラン以外にいい出会いがあるものかと、心の中の自分がちくちくと針でつついてきたが、ぐっとこらえる。


 ――吸血鬼というのは、時に一人の女性に異常なまでに固執する。


 加賀見の言葉を思い出し、紗由は決めたのだ。自分がいつまでもここにいるせいで、他の人間にあらぬ誤解をいだかせていると。


「アラン様が許可するとは思えませんけど……」

 しず子は眉を寄せて、不可解そうに首をひねる。


「先生は優しいから『ずっといてほしい』なんて言ってますけど、これ以上迷惑はかけられないので」


「アラン様がずっと……ずっと、と……?」

 しず子は何やら目を輝かせて両手で口元を覆ったが、こういう誤解をしてしまう人がいるから、ここを出て行く決断は間違っていないだろう。


「そういうわけで、今日はお時間をください」

 紗由は苦笑してから頭を下げた。


「一度アラン様に相談してみてからの方がいいのでは……。まあ、家に籠りきりというのも退屈でしょうから、気分転換に外へ出るのはいいかもしれませんね。何かあったらお電話ください」


「はい。ありがとうございます!」

 紗由はぴょこんと頭を下げ、掃除を手伝った後に家を出た。アランが頼んでくれた着物が仕立て上がっていたので、それに初めて袖を通し、深紅の大きなリボンで半結いの髪を飾って――。


(本当はアラン先生とお出かけする時に披露したかったけど、仕事が見つかってこの家を出る時は返すから、一度だけ貸してください)


 九月も残すところあと数日だ。


 柔らかな秋の陽光が降り注ぎ、少し冷たくなった風が頬をかすめる。木々の葉はまだ緑が多いものの、ところどころに赤や黄の色が混じり始めていた。季節の変わり目のこの時期、街は少しずつ本格的な秋の装いへと変わっていく。


 日本橋へは初めて来たが、しず子が地図を貸してくれたので、求人欄に載っていた住所と照らし合わせたり、通行人に道を聞いたりしながらなんとか到着できた。


 洋装店は大きなガラス張りの店で、窓際には流行に敏感な女性たちが手に取る美しいドレスが展示されている。


 紗由はその華やかな光景に背筋を伸ばし、慎重に息を吸って中に入った。


「すみません、求人広告を見てきたのですが――」

 勇気を振りしぼって店員に声をかけると、返ってきた言葉は「わざわざ来てもらって申し訳ないのだけど、すでに昨日のうちに決まってしまって」だった。


「え? もう……ですか?」

 紗由は目を丸くする。


「あなた、洋裁の経験はある?」

 真っ白なブラウスに橙色の長いスカートを合わせた店員は、困ったように眉を寄せた。


「い、いえ、着物のつくろいなら……」


「ミシンが使える人が欲しかったのよ、ごめんなさいね。他を当たってくださる?」


 そう言われてしまっては仕方がない。紗由は頭を下げて店を出た。


(大丈夫。一回でうまくいくなんて思ってなかったもの)

 求人は他にもあったので、紙面のその部分だけを切り抜いて、小さく畳んで持ってきたのだ――が、巾着の中を探してもない。


「あ……」

 紗由の指が巾着の底を突き抜ける。


「これ、直すの忘れてた……」

 繕うべきは、自分の巾着だったようだ。


 形見の髪留めは落としていなかったが、今回の紙切れは絶対にどこかで失くしたに違いない。


「何しに来たのよ、私~」

 がっくりと肩を落としながら、店の窓のそばに立ち尽くしてどうしようか考えていたら、急に賑やかな笑い声が近づいてきたので、そちらに首を巡らせる。


 四人の女学生が談笑しながら店に入ろうとしているところだった。その中の一人と目が合う。


「……紗由?」

 ぱっちりとした大きな瞳だが、少し目尻が吊り上がって、怒るとさらにきつい顔つきになる女性――忘れもしない従姉の千代子が、立ち止まってこちらを見ていた。


 深緑色のモダンな上着と流行の丈の長いスカートに身を包み、黒い長靴を履いていた。彼女と一緒にいる女性たちも、似たような都会の華やかな装いをしている。


「驚いた。何してるの、こんなところで?」

 千代子が小馬鹿にした口調で話しかけてくる。


「仕事を探しているんです」

 紗由は小さく一礼して答えた。


「仕事? あんたが?」

 千代子は鼻で笑う。


「あんたにできる仕事なんてないでしょ。何しろ、うちで散々なことしてくれたじゃないの」


「なになに? どういうこと? 誰なのこの人?」

 友人たちが千代子に注目し、興味深そうに紗由を見ている。


「この子ね、うちのだったんだけど、まったく使えなかったの。料理もできないし、掃除も雑。それどころか、大事な壺を割ったり、盗みまで働いたのよ」

 千代子は大げさにため息をつきながら、細い眉をひそめた。


 友人たちが、ひえ、と声にならない悲鳴を上げる。


「それは、ちが……っ」


「この子ったら、本当にどうしようもないのよ。性格も暗いし、誰にも相手にされないんだから」

 千代子は紗由の言葉を遮り、友人たちに向かって誇らしげに語る。


 友人たちは、嘲笑ちょうしょうの眼差しを紗由に向け始めた。その視線は彼女の心に深く突き刺さり、紗由は耐えきれず目を伏せる。


「ほら! 何も言い返せない、本当に惨めね。あんたなんか、どこも雇ってくれやしないわよ」

 千代子の冷酷な言葉が容赦なく降り注ぎ、紗由はぐっと唇を噛みしめた。


 胸が締めつけられ、涙がこぼれそうになるのを堪える。だが、千代子は追い打ちをかけるように続けた。


「そういえば、あんた、両親の葬式の時も泣いてなかったわね。むしろずっと笑ってたんじゃなかった?」

 その言葉に、紗由は思わず顔を上げた。


「え……?」


「そうよ。事故で伯父さんたちが亡くなった時、あんただけ傷一つなくて一人で立ってたんだって聞いたわよ。おまけに葬式の間中、涙一つも見せないって、みんな気味が悪いって言ってた。だから、誰も引き取りたがらなかったの」


「そんな……」

 紗由は混乱した。


 自分が笑っていたなんて、まったく覚えがない。いや、そもそも事故の時のこと自体がはっきりと思い出せない。覚えているのは、両親が亡くなったという事実だけ。


 曇天に吹き上がる紅い炎――。


 急に背中を冷たいものが流れる。


 ――つらい時は笑っていいんだよね、お母さん……?


 鼓動が激しく鳴って、冷や汗がこめかみを伝った。


「呪われた子だってみんな言ってたわ。だから、仕方なくうちが引き取ってあげたのに、この有様よ」

 千代子が言うと、彼女の友人たちは、恐ろしいものでも見たかのように顔を見合わせる。それでも彼女は止まらなかった。


「あんたみたいな子は何もできないし、どこへ行っても同じ」


 紗由の目からは、とうとう大粒の涙が零れた。過去の出来事と千代子の言葉が、彼女の心に鋭く刺さり、何も言い返せない。


「あーあ、うちにいたら、私の綺麗な花嫁姿が見せてあげられたのに、残念だわぁ」

 千代子は赤く塗った唇を優越感で歪める。


「あら、千代子さん。もしかして藤堂さんとご婚約が決まったの?」

 友人の一人がハッとしたように、千代子の肩をポンと叩く。


「まあ、あの藤堂財閥の! おめでたいですわね」

 他の友人も同じように明るい声を上げる。


 それに気をよくした千代子は、紗由の泣き顔を覗き込む。


「私、今ね、あんたなんか一生かかっても縁のない方とお付き合いしているの。ひとりぼっちのあんたが指をくわえて羨ましそうにしてるとこ、この目で見たかったわ」

 冷たく笑った千代子は、顔を上げて友人たちに「行きましょう」と微笑み、洋裁店に入っていった。


 残された紗由は、震える唇を抑えながら必死に涙を拭って歩き出す。


 通り過ぎた店の窓に映った自分の泣き顔がひどくて、これでは仕事探しどころではないなと深いため息をついた。


 

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