第14話 嘘
急患の連絡を受けた後、アランが帰宅したのは昼過ぎだった。紗由の
(無理もないわよね、夜中も病院にいて、午前の診察もこなしてきたんだから。夕食はしず子さんとおいしいものを作ってあげなくちゃ)
紗由は左手の薬指を撫でた。そこに指輪はない。ずっと着けていたかったけれど、さすがに炊事や洗濯の時に失くしたり汚したりしたくない。
――なぜなら、俺は。
(……先生はなんて言おうとしたんだろう?)
俯いて握り込んだ左手を反対の手で包み、胸元に抱き込んだ。
確かめたい気持ちはあるものの、こちらから積極的に尋ねるのも節操がないと思われそうだ。アランがもう一度そのことに触れてくれるまで待つべきだろう。
そう思いながら、何もないまま数日が過ぎていった。おまけに彼の帰宅は毎日といっていいほど深夜近くになった。
先日運ばれてきた患者の容態が安定しないらしい。それもあってか、アランはよく地下室に籠るようになった。何かいい治療方法を探しているのだろう。勉強熱心なのはいいことだが、他の医師と交替で休むことはできないものだろうか。
彼岸が過ぎて、朝晩は冷えるようになってきている。しず子も昨日から熱を出し、しばらく休むと家族が伝えに来てくれた。
その翌日、朝の柔らかな陽射しが玄関に差し込む中、紗由はアランを見送るために玄関に向かう。
アランは黒の洋装を身に纏い、少し疲れた表情をしている。
「今日も遅くなると思う。しず子がいなくて掃除も大変だろうから、適当に済ませてもらってかまわないよ」
革靴を履いたアランは、紗由から鞄を受け取って穏やかな笑みを向けた。
「家事はいつも通り、ちゃんとやります! そういう約束でここに置いてもらっていますから。しず子さんは今まで一人でこなしてきたんでしょう? 先生こそ、あまり無理をなさらないでくださいね」
紗由はそう意気込んでから、眉根を下げる。
「心配してくれてありがとう。俺は大丈夫だよ」
「先生がそうおっしゃるなら……」
紗由は少し迷った後、微笑んでそう答えたが、どこか不安を抱えた表情が浮かんでいた。
「じゃあ、行ってくる」
「はい。いってらっしゃい、先生」
軽く手を振りながら玄関を出て行った彼の背中が見えなくなるまで、紗由はその場に立ち尽くし、心の中に
玄関の鍵をかけた後、紗由は朝食の片づけを済ませ、他の家事を一通りこなした。
昼前に、ようやく手が空いたので、自分で緑茶を淹れてサンルームで休憩する。
「『
相変わらず
被害女性は体から大量の血を抜かれ、瀕死であるという。恐ろしい目に遭ったのか錯乱していてまともな会話ができない状態であるとも書かれている。いったい誰がそんなことを記者に話しているのだろう。
「『警察は、連続失踪事件に関わる容疑者として、ある著名な外国人医師を捜査しているという……』」
アランの名前が書かれているわけではないが、紙面に掲載されている建物写真は、桐野総合病院で間違いない。外国人には近づかない方が安全であるとも書かれていた。
「ひどいわ。先生は一人でも多くの命を助けるために毎日頑張っているのに」
紗由はきゅっと眉を吊り上げると頬を膨らませた。しず子がここにいてくれたら絶対に同意してくれるのに、不在なのが残念だ。
「何か……私にできることはないかしら」
アランのために何かしてあげたい。
「そうだ……!」
ふと、彼のために弁当を作って病院に届けようという思いが浮かんだ。昼の弁当は持たせているが夕食はどうしているのかわからない。もしかしたら簡単に済ませてしまっている可能性もある。
「先生が倒れちゃったら、元も子もないもの」
夕方前、紗由は包丁を手に持ち、彼が好きなおかずを手際よく準備し始めた。
ご飯は新しく炊いたもの、じっくり火を通した鮭の塩焼き、香ばしいきんぴらごぼう、じわりと旨みが染みただし巻き卵、それらを丁寧に詰め、最後に漬物を添える。
「できた!」
準備を終えて時計を見ると、午後五時をとうに過ぎていた。途中でちょっと指を切ってしまい、その分遅れてしまったのだ。急いで弁当を包むと、家を飛び出していく。
空は橙色から淡い紫色に染まり、乾いた風が涼しかった。少しでも彼の喜ぶ顔が見たくて、紗由は足早に病院へ向かう。
路面電車を一人で乗るのは緊張したが、なんとか桐野総合病院まで辿り着いた。門柱の辺りに差し掛かった時、敷地から出てきた人物と腕が軽くぶつかった。
「あっ、すみません……」
手が滑って弁当を落としそうになり、慌てて抱え直す。
ぶつかった相手は小太りの男性で、無造作な服装だった。地面に落ちた帽子を拾って目深にかぶり直している。
すれ違いざま、その男は紗由の弁当に目をやり、鼻をひくつかせた。
「いい匂いだな……」
その低い声に紗由は一瞬驚いたが、「お弁当なんです」と、にっこりと笑って頭を下げてから病院の中へ向かう。
「アラン先生はもう午後の診察は終わりましたか?」
受付の女性に声をかけると、彼女は何か書類の整理をしている所だった。今日の外来業務はもう終わりらしい。
「先生なら、先にお帰りになられましたよ」
受付の女性は顔を上げてにこやかに答えた。
「え?」
紗由は一瞬、息を飲む。
なぜ彼は帰ってしまったのだろう。疲れていたのか、それとも何か急用ができたのか。すれ違わなかったところを見ると、おそらく彼は家に帰ったわけではなさそうだ。
「そうですか……ありがとうございます。ここ最近ずっと忙しいんですよね?」
「いえ、外来はいつも通りですよ。先生もほとんど定時でお帰りです。ああ、そういえば、何かお薬を飲まれているところをお見かけしました。風邪でしょうかね、最近流行っていますから。では、私もそろそろ失礼してよろしいですか?」
「あ……すみません。引き留めてしまって」
紗由はぺこりとお辞儀すると、病院を後にする。
両手で抱えた弁当箱が、急に重くなったように感じられた。
「ほとんど定時? じゃあ、夜中に帰ってくるまで、どこで、何をしているの?」
最近のアランは何か隠している気がする、あの急患がやってきた夜から、どこか変だ。
穏やかで優しいのは同じだけれど、
風邪ならなおさら家で休んでいた方がいいのではないだろうか。けれど家にいる彼は疲れているようには見えても、風邪をひいているようには思えなかった。彼はいったいなんの薬を飲んでいるのだろう。
(でも、私はただの居候だし、何をしても関係ないと先生に言われればそれまでだわ。もしかしたら新聞記者たちの目を
近頃、よく家の周りをうろついている男たちがいるのだ。きっと新聞記者か、新聞を読んで興味本位で家を探し当てた、物好きな野次馬の
ため息をつき、とぼとぼとアランの家に帰宅すると、門の前に濃紺の詰襟のコートを着た男が立っていた。黒髪をきっちりと後ろに撫でつけ、煙草を
(そうそう。こういう輩がいるからよ。先生を
紗由はふんと一息つくと、男を無視して家に入ろうとした。
「この家の方ですか?」
男が背後から紗由に向かって声を投げてくる。
かまわずに玄関を開けて中に入ろうとした時、男が後ろからついてくる気配があった。
「警察の者です。少しお話をお伺いしたのですが、お時間をいただけますか?」
その言葉に、紗由はどきりとして、扉を閉めようとした手を止め、ゆっくりと振り返った。
「私は加賀見龍介といいます。ブラックウッド先生はまだご帰宅されていないようですね。それとも、夜の方が活動しやすいのでしょうか?」
加賀見は、吸っていた煙草を携帯吸い殻入れに捨て、代わりにポケットから黒革の手帳を取り出す。そこには金の文字で『警察手帳』と書かれていた。
「どういう……意味ですか?」
紗由は警戒するように眉を寄せ、彼を
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