第三章 月下の牙、霧幻の迷宮

第13話 血を喰らう(アラン視点)

 アランが診察室に入ると、寝台ベッドに横たわる女性患者が目に入った。年齢は十代後半から二十歳代といったところだろうか。


「患者の容態はどうですか?」


「かなり衰弱しています! かろうじて意識はありますが、呼びかけへの返答はありません。血圧が低く、上が五十前後で、下は測れません」

 声をかけられた看護婦が首を横に振る。


 女性は顔が青白く、目は焦点が定まらず宙をさまよっていた。時折、体を痙攣させるように動かし、両手を空中に突き出しては意味不明なことを呟く。


「やめて……そっちは行きたくない……」

 そう言って起き上がろうとする女性を、看護婦がなだめようとするが、女性はその手を振り払い、さらに暴れ出す。ここまで血圧が低いのに、これだけ動けるのが不思議だ。


 目を見開いて壁の一点を見つめる女性の顔には、常軌を逸した恐怖が浮かんでいた。


「いや……っ、助けて! 影が、影が来る……!」

 女性の声は次第に甲高くなり、言葉は次第に支離滅裂なものへと変わっていく。


 看護婦たちは彼女の手足を押さえながらも、その異常さに息を呑んだ。


「赤い……あの人の目が……血が……見ないで、見ないで、お願い……」

 アランは冷静に患者に近づき、腕を取って脈を測る。その拍動は非常に不規則で、まるで今にも止まりそうなほど微弱だった。彼の顔が険しくなる。


「一刻を争います。すぐに生食せいしょくの輸液を行いましょう。準備してもらえますか?」

 アランは看護婦に指示を出す一方、鎮静剤を投与する。


 すると、数分後には患者の暴れ方が徐々に収まり、かすれた息遣いだけが部屋に残る。彼女の目はまだ虚ろだが、体の動きは次第に弱まっていった。


「赤い……あの赤い瞳……影が……」

 その言葉が消え入るように途切れるのを聞きながら、アランは一瞬眉をひそめた。


 そっと触れれば細い手足は異常に冷たく、白い。口唇は乾き、眼窩は落ちくぼみ、眼瞼にも貧血の兆候が見られる。しばらく食事を摂っていなかったのだろうか。


(それとも……)

 一つの可能性に至ったアランは、冷たいものが背中を流れるのを感じた。


「先生。首に何かで刺されたような痕が二カ所あります」

 看護婦の言葉に、心臓がどくんとひどい音を立てて、彼はうめいて寝台に手をつく。


「大丈夫ですか、アラン先生?」


「あ、ああ、なんでもありません。消毒してガーゼをあてておいてください。私は輸液を開始します」

 余計なことを考えるより、今は極度の貧血と脱水状態の改善が最優先だ。


 口から水分を摂れなければ強制的に送り込むしかない。血管へ生理食塩水を注入するのが効果的だと聞いていたが、それには感染症や、さらなる命の危険もあり、よほどのことがない限りは避けてきた。


 けれど今は緊急を要する事態だ。このまま何もしないよりは、できることをすべて尽くすしかない。


 アランは手際よく処置を行うと、女性の全身状態を観察した。


 鎮静剤で眠っているのか、目は閉じ、譫言うわごとも言わなくなった。呼吸はまだ速いが、なんとか自力で酸素は取り込めているようだ。


「これで落ち着くといいのですが……。今夜は泊まっていきます。何かあれば呼んでください」


「先生……大丈夫ですか? お顔が真っ青ですよ……」

 看護婦が心配そうに声をかけてくる。


「少し休めば大丈夫です。では、よろしくお願いしますね」

 診察室を離れて一人になった瞬間、彼は喉元を押さえて、反対の手で壁に手をついた。


「早く……薬を……」

 額に汗を浮かべ、彼はよろめきながら医局へ向かう。


 誰もいないその部屋で、水差しに残っていた水を飲んでも、喉の渇きは癒えない。

自身の机の抽斗から紙に包まれた粉薬を口に入れると、水差しごと煽るように水を飲んで薬を流し込んだ。


 口端からこぼれた水を袖で拭い、霞む視界の中で長椅子を見つける。そこに横たわり、背中を丸めて深呼吸を繰り返した。


(これで発作は治まるはず……)

 幼少時から同じ発作に見舞われ、当時は死んだ方がましだと思った。一人で部屋に閉じ籠もり、症状が落ち着く朝まで耐える日々を、今でも時々夢に見る。それは決まって満月の夜だ。


 だが、直道が漢方薬と西洋医学の知識を駆使して調合してくれた薬が、奇跡的に効いたのだ。奇跡などというと直道に怒られるのだが、それまで対処法がなかったのだから、当時子供だった自分がそれを奇跡と信じてもおかしくないだろう。


 しばらくすると、ようやく身体の奥か湧き上がっていた渇きの衝動が治まってきた。


 満月の夜でもないのに、突然の発作に見舞われた原因がなんなのかはわかっている。さきほどの患者だ。その白い喉に小さな、だが深い二つの傷痕――。


「なんということだ……」

 のろのろと起き上がって頭を抱えた彼は、そのままぐしゃりと髪をかき乱す。


 その時、医局の扉をノックする音が聞こえ、患者の容体が急変したのかとハッと顔を上げた。


「アラン先生。警察の方がお話を聞きたいと……」

 看護婦の声だが、想像していた言葉とは別のものだった。かといって安心できるものではない。


「どうぞ。入ってもらってください」

 アランは深く息をつき、表情を整えた。


「失礼します」

 扉を開け、入ってきたのは背丈のある男だった。おそらくアランと同じくらいか、少し低い程度だ。


 黒髪を一筋も乱さず、びん付け油で丁寧に後ろへと撫でつけている。切れ長で引き締まった顔には、厳しさと冷静さが同居していた。淡灰色のスーツに濃紺の詰襟のコートを羽織っている。


「こんばんは。私は、警視庁捜査課の加賀見かがみ龍介りゅうすけといいます。あなたがアラン・ブラックウッド先生、ですか?」

 加賀見は穏やかだが、どこか鋭さを含んだ声で言った。


「そうです。どうぞ、こちらへ」

 アランは手で部屋の中を示し、加賀見に向かいの長椅子に座ってもらう。


 二人が部屋の中で対面すると、加賀見が静かに切り出した。


「お疲れのところ申し訳ありません。本日夕方、一人の患者が運ばれてきましたね? ブラックウッド先生が治療に当たられたとお伺いしました」


「ええ、呼び出しの電話があって、こちらに来ました」


 アランの言葉を、手元の黒革の手帳に書き込んだ加賀見が顔を上げる。


「実は発見時に到着していた駐在の報告をもとに調べたところ、先日、行方不明届が出されていた女性ということがわかったのです。様子を見させてもらいましたがいつ彼女は目を覚ましますか?」


「鎮静剤で眠っているので、なんとも……。それに貧血と脱水が著しいので、予断を許さない状況です」

 アランは眉間に深いしわを寄せた。


「そうですか。看護婦の方の話では、首に刺し傷のようなものが二カ所だけで、他には怪我の様子はないと。そんな小さな傷から貧血になるほどの出血はありえますかね?」

 加賀見は、感情の読めない視線をこちらに向ける。


「さあ……どうでしょうか」


「たとえば、病院では針を使って採血しますよね。そういう技術を身に着けている人物が、器具を用いれば全身の血を抜くことも可能、ですか?」


「そんなことをする理由がわかりません」

 アランは緩くかぶりを振った。


「理由は犯人に聞くとして、できないことはない、と」

 加賀見は熱心にペンを走らせる。


「ですが大量に出血した割に、衣服への付着はほんのわずか。彼女が連続失踪事件の被害者の一人だとしたら、他の者もおそらく同じように血を抜かれている可能性が高い。まるで人の生き血をすする化け物です」

 加賀見はメモを取る手を止めて、顔を上げた。


「化け物……ですか」


「先生も外国の方ですから聞いたことはありませんか? 血を喰らう者『吸血鬼ヴァンパイア』のことを」

 加賀見の鋭い視線は、こちらの隙を見逃すまいと瞬き一つ見せない。


「吸血鬼なんておとぎ話ですよ。私は医者です、そんな話を真に受けるとでもお思いですか?」

 アランが眉をひそめて答えると、加賀見は初めて目元を緩めて小さく笑った。


「ははは、私もそんなものは信じていません。ちょっと聞いてみただけですよ」

 加賀見は少しの間、無言でアランを見つめたが、やがて立ち上がった。


「またお邪魔するかもしれません。引き続き、何かあればお知らせください」


「ええ。お役に立てることがあればいいのですが」

 アランは医局の外まで加賀見を見送りに出る。


「そういえば、ブラックウッド先生は日本語がお上手ですね。こちらに来て長いのですか?」

 警察手帳をポケットにしまいながら、加賀見が振り返った。


「はい。もう二十年になります」


「二十年ですか……それだけいれば、この国のいい所も悪い所もご存じでしょうね」

 加賀見がふっと口角を上げる。


「本日はお疲れのところ、ご協力いただきありがとうございました」

 そう言って加賀見はコートの裾を翻して大股で歩き始めた。


 暗い廊下を迷うことなく進んでいく後ろ姿が角を曲がって消えるまで、アランはその場に立ち尽くす。


「一刻も早く対処しなければ……」

 アランは長いため息をついて部屋に戻ると、閉じた扉に凭れかかって唇を引き結んだ。



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