第12話 甘くはじける(後)

 

 店内は人々の楽しそうな会話や、食器がカチャカチャと軽く当たる音が聞こえていた。店の端に置かれた蓄音機で、レコードが静かに回っている。柔らかく軽やかな音楽が流れてくるが、紗由が今まで耳にしたことのない旋律だった。外国の音楽なのだろう。


 やがて、二人の前に運ばれてきたのは、皿の中央に盛られた白いご飯の上に赤みがかったブラウンソースがかけられたものだった。ソースには柔らかく煮込まれた薄切りの肉と玉ねぎが見える。甘酸っぱいようなバターの甘みのような風味が湯気にのって香ってくる。


「『ハヤシライス』だよ。食べてみてごらん」


「は、はい……」

 香ばしい風味に紗由のお腹が鳴りそうになった。彼女は少し緊張しながらもスプーンを手に取り、慎重に一口食べてみた。


「これが、ハヤシライス……」

 口の中でとろけるようなソースとご飯の絶妙な組み合わせに、紗由は目を輝かせた。


「おいしい?」

 まだスプーンを置いたままのアランが笑顔で尋ねてくる。


「おいしいです! これは牛肉……ですか? 本当に、こんなにおいしいお料理は初めて食べました。ありがとうございます」

 紗由は頬を赤らめながら、もう一口ハヤシライスを口に運んだ。


「そうだよ。口に合ってよかった」

 安心したように彼もハヤシライスを食べ始める。


 しず子と作る料理もおいしいし、朝のパンもとてもおいしいと感じていた。しかしながらこの米飯に、洋食も合うとは思ってもいなかった。


 半月前まで冷たくなった麦混じりのご飯に、しなびた漬物と残り物のおかずを食べていたことを思うと、今が夢のように幸せで、紗由はじわりと涙ぐんだ。


「紗由さん。俺のおすすめはこれだけじゃないから」

 アランがすっと手巾を差し出してくれたので、目元を拭いながら頷く。


「すみません、ありがとうございます」

 こんなことで泣いていたら、きりがないなと紗由は苦笑して、残りのハヤシライスを綺麗に食べたのだった。


 からになった皿を片付けた給仕が、再びやってくる。


 銀盆に載せて運んできたのは、鮮やかな緑色の液体の上に、ふわっと白いものが盛られた飲み物だった。


 液体はラムネのように、小さな泡がパチパチと音を立てながら軽やかに上っていって、はじける。


 爽やかな甘い香りが立ち上り、飲む前から喉を潤す予感を与えてくれた。


「これは?」


「『クリームソーダ』だよ、上にのっているのはバニラアイス」

 グラスに浮かぶアイスクリームが、まるで宝石のように輝いている。縁から溶けてソーダに交じり合い、そこからしゅわしゅわと泡が生まれている。


「アイスをすくって食べてもいいし、ソーダから飲んでもいいんだよ」

 彼は楽しそうに紗由の驚く様子を見ていた。


「じゃ、じゃあ、いただきます」

 細い柄の長いスプーンでアイスを一口すくって口に運ぶと、舌に乗った瞬間に溶けてしまう。


「つ、冷たくておいしいです……! それに、甘くて……」

 どら焼きの甘さとは違う、だが、どちらも甲乙つけがたいおいしさだ。


 紗由はその鮮やかな色に目を瞠りながら、今度はストローを手に取った。吸い上げると口いっぱいにソーダがはじけて、爽やかな甘みが吹き抜けるようだ。


「こ、こんな飲み物があるなんて……」

 周囲の人々が驚いている様子はない。きっとここでは普通の飲み物なのだろう。けれど紗由にとっては人生で初めての味を知った日だった。


(クリームソーダ記念日って、つけちゃおうかな……)

 紗由はアイスとソーダを交互に味わいながら、幸せそうに頬を緩める。


「君が喜んでくれて本当によかった。次はどこに連れて行こうか、楽しみが増えたよ」

 アランは一瞬真剣な表情を見せた後、軽く頭を傾けて目を細めた。そのまなざしは春のそよ風が花を撫でるように、優しく紗由を包み込んだ。


(次は……なんて、期待してもいいんですか?)

 紗由は頬を朱に染めながら、小さく頷く。


 次も、その次も、ずっと、こんな温かい時間が続けばいいのに――。


 彼女にとってこの日、銀座の街も喫茶店での食事も、まるで夢のような体験だった。何もかもが新鮮で、どこか非現実的に思えるほどだった。


 その後、銀座の街を少し歩き回り、家に戻った頃には、すっかり空は茜色に染まっている。しず子はもともと日曜が休みのため、朝の支度だけ手伝って帰宅していた。


「お部屋まで運んでいただいてありがとうございました。すぐに夕食の準備をしますね」

 たくさんの紙袋を客間に置いて、部屋を出た紗由はアランに頭を下げる。


「実はもう一つ、君に贈りたいものがあるんだ」

 縁側で立ち止まったアランは、上着のポケットから小さな箱を取り出した。


「え……?」

 紗由はそれを見て、胡桃くるみのようにまん丸に目を見開く。


 藤紫ふじむらさきの天鵞絨で包まれた小箱を彼がそっと開くと、同じ色の台座に深紅の石が嵌め込まれた指輪が収められていた。


「これを、君に」

 燃えるように美しく輝く石は地金じがねが黄金色で、花の形を模したいわゆる桜爪さくらづめに綺麗に嵌まっていた。


「これは柘榴石ガーネットという。一月生まれの誕生石だから、君を守ってくれると思うよ」


「誕生石……?」

 紗由は目をぱちぱちと瞬かせ、首を傾げる。


「先日、帝国医大で働いている米国の友人に聞いたんだ。あちらの国ではこういう贈り物が流行っているそうだ」


 貴金属店に行った時、指輪は試着だけで購入は遠慮していた。もちろんその値段を見て目が飛び出そうだったから。代わりに購入した首飾りもびっくりするくらい桁が過ぎていたけれど。


(あれ……私、一月生まれだって先生に話したことあった?)

 だが、今はそんなことはどうでもいい。指輪は婚約者や配偶者に贈るものではないのだろうか。それを自分が受け取ってもいいのだろうか。それもあって購入を控えたのもある。


「石にもいろいろな意味があって、これには『情熱』や『変わらない愛』という意味が込められているんだ」

 静かな声で話す彼の瞳は真剣で、まるで何かを決意しているかのように深く輝いている。


「紗由さんへ、俺の想いの証だ」


「……!」

 紗由は驚きとともに、胸の鼓動が速くなるのを感じた。咄嗟に言葉が出てこない。


 指輪の美しさとアランの言葉が、世界を止めてしまったかのように、彼女を包む。


「ほ……んとうに、私に?」

 小さな声は震えていた。


「そう、君に。紗由さんは俺にとって特別な存在だから。ずっとそばにいてほしい」

 沈みかけている夕陽が、二人を鮮やかに照らした。


 アランが指輪を取り出して、紗由の左手の薬指に嵌める。大きさはぴったりだった。いつの間に購入していたのか気づかなかったけれど、店で別な指輪を試着した時、号数を覚えていてくれたのだろう。


「私……、アラン先生にあげられるものが何もありません。なんの後ろ盾もありませんし、読み書きすら最近やっと人並みにできるようになったばかりですし」

 彼は本気で言っているのだろうか。自分が好いていることを伝えてもいいのだろうか。


 こんな時、どうしたらいいのかわからない。


「紗由さんでなければならないんだ。なぜなら俺は――」

 しかし、その言葉の先は聞けなかった。


 洋館の方から電話の音がけたたましく鳴り響いたからだ。


 アランはハッとしたように「ごめん」と言って足早にそちらに歩いていく。


「私でなければいけない理由?」

 深紅の石を夕陽に翳しながら彼を待っていると、しばらくして険しい顔をしたアランが戻ってきた。


「申し訳ないけれど、重症な救急患者が運ばれてきて応援が必要らしい」

 アランの顔はどこか青ざめているようにも見える。それほど患者が深刻な状態ということなのだろう。


「大丈夫です。すぐに行ってください」

 紗由はにっこりと笑って答えた。


「帰りは遅くなるかもしれない。戸締りをしっかりして先に休んでいてくれ」


「はい。お気をつけて」

 急ぐ彼を玄関で見送った紗由は、小さなため息をついた。


 いつ戻ってきてもいいように夕餉の準備をし、居室リビングにある長椅子ソファに腰かけて帰りを待つ。


 何時間でも待つつもりだったのに、昼間にたくさん歩いた疲れもあり、彼女はいつの間にか眠りに落ちていた。


 短い夢をいろいろ見た気がするが、どれもはっきりと覚えていない。


 結局、アランは朝になっても帰ってこなかった――。


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