第11話 甘くはじける(前)

 呉服屋に入ると、光沢のある黒漆くろうるしの柱が店全体を支え、天井には繊細な細工が施された木彫りの装飾が美しかった。


 広い畳敷きがあり、上品な藤籠とうかごや竹製の棚に色とりどりの反物たんものが並べられている。壁には季節を感じさせるじくが飾られ、今は秋を象徴する紅葉もみじが描かれたものが掛けられていた。


「いらっしゃいませ」

 女性店員が恭しく頭を下げてきたので、つられて紗由も頭を下げる。


「彼女に普段着や外出着用にいくつか着物を仕立てていただきたいのですが」

 アランが店員に声をかけると、彼女は上品な笑みを浮かべ「かしこまりました。では、こちらへどうぞ」とにこやかに奥の方へ案内してくれた。


(いくつか? 今、先生はそう言ったの?)

 見るからに歴史を感じさせるこの店で、一着仕立てるだけでいったいどれくらいの費用が掛かるのか想像するのもこわい。


 アランは着物の値段を知らないのだろうか。彼が着ている洋装だって決して安くはないだろうけども。


 そわそわしながら彼とともに畳敷きに上がると、店員が数ある反物の中から数点選んで、並べてみせた。


「こちらは結城紬ゆうきつむぎです。これからの季節の普段使いにもよろしいかと。どうぞお手に取ってごらんくださいませ」

 薄紅色に雪が舞うような細かい白い点が控えめに散りばめられたその着物は、紗由の手にしっとりとした感触を与えた。


「温かくて素敵ですね……」


「では、まずこちらでお願いします」

 紗由が感嘆のまなざしを落としただけで、アランが即決したのでぎょっとする。


(お値段は聞かなくていいんですか?)

 あとで払えないなんてことにならないだろうか。


「お次はこちらの大島紬おおしまつむぎです。こちらは夜のお出かけにぴったりでございますよ。とても華やかになるかと」

 店員は結城紬を下げて、隣にあった濃紫のうしの反物を前に出した。大胆にも深紅の椿の花が大きくえがかれ、金銀の糸が光にきらめいてパッと目を引く。


「こんなに綺麗なお着物、見たことがないです……」


「ああ、これも君によく似合うと思う。二着目はこれで」

 アランはそう言ってさらに、次を促す。


「ええ。ではこちらの銘仙めいせんなどはいかがでしょう?」

 店員が流れるように紹介したのは、淡い桃色と薄鼠うすねずみ色の格子柄の上に、牡丹の花が描かれたモダンな反物だ。


 紗由は、彼の隣で石のように固まってしまう。


(だ、だめ。うっかり何か反応してしまったら、また買うって言いかねない)

 貝のように黙っていようと、正座したままおとなしく店員の説明を聞いていたが、彼女の努力虚しく、アランは勝手に数店の反物を選んでしまった。


 『勝手に』とはいったものの、どれもが最高級の品で、申し分のないほど絢爛けんらんなものや、かわいらしいものばかりだったので拒否もできず、それはつまり肯定と取られたようだ。


「あ、あの、もうそれくらいで……! 私、あっちも見てみたいですっ」

 紗由は慌てて、展示してある髪飾りや小物の棚を指さした。


「ああ、そうだね。それも大事だ」

 着物より、そちらの方が幾分いくぶん値段も安いだろうと思った紗由は、ホッとしてそちらに移動する。


「好きなものを選んでいいよ」

 アランに言われて目に留まったのは、来る時に通りで見かけた女学生がつけていたような大ぶりの緋色のリボンだ。


 金糸で葉柄の刺繡が施されているのが、蒔絵まきえのようで美しい。だが、どこにも値札がない。どこかについていないか探していたら、店員がいつの間にかそばにやってきていた。


「お客様、お目が高いですね。そちらは昨日入荷したばかりの秋の新作です。京の有名な職人が作った一点ものなんですよ」


 いきなり価値の高そうな説明を聞いて、心臓が飛び跳ねる。けれど、アランはやはり寸分の迷いもなく「では、こちらをお願いします」と、さらりと言ってしまうのだった。


「せ、先生……、私、もうこの辺で大丈夫です!」

 この店で、きっと紗由が一生かかっても返せないくらいの買い物をしたと思う。


「では、こちらはお包みしてすぐにお渡しいたしますね」

 店員がそっとリボンを取り、アランも彼女に続いて店の奥へ行く。


 その場に残った紗由の背中を冷や汗が伝った。


(仕事が決まったら先生の家を出て行かなくちゃいけないのに、あんなにたくさん着物を着る機会なんてないわ……)

 それに、夜のお出かけなど縁がない。アランはいったい何を思っているのだろう。


(将来、縁談相手を連れて来た時に迷わないように練習を兼ねて?)

 それなら納得だ。着物だって、紗由が出て行く際には置いていってほしいと言われるかもしれない。胸がちくりと痛んだ。


(浮かれていてはだめよ。今日だってどんなお仕事があるのか、見学するのが目的なんだから)

 ふわふわと軽くなった心を摑まえるように、紗由はきゅっと両手を握りしめる。


「では、今度は別の店も見てみようか」

 支払いをどのように済ませたのかわからないが、アランは晴れ晴れとした笑顔で奥から出てきて、次の店に紗由を連れて行った。


 履物屋はきものやでは流行だという編み上げの長靴を、貴金属店では真珠の首飾りを、書店では数冊の少女小説を。


 いろいろな職種があることはわかった。けれど、その度に商品を購入する必要まであるのだろうか。


 おまけに百貨店では洋品を扱う店で、月白げっぱく色の絹地に繊細なレースとフリルで縁取られた日傘と、レースおりの手袋までお買い上げだ。


 大通りへ出て傘を開くと、その軽さに驚かされる。なめらかな木製の持ち手は紗由の小さな手にも馴染み、レースの模様が日差しを浴びて彼女の上に影を作る。


「とてもよく似合っているね、紗由さん」

 そう言ってアランはそっと彼女の手から傘を外し、代わりに彼が紗由にそれをかざしてしてくれた。


「アラン先生、そこまでしなくても……」

 すでに彼の片腕には購入品を入れた紙袋が、複数個ぶら下がっている。


「あちこち見て回って、疲れているだろう?」

 この人は気配りの化身なのだろうかと、ありえない想像をしてしまうほどの優しさだ。


(荷物持ちは私の役目だったはずなのに……それどころか日傘まで……っ)

 紗由は頭を抱えたくなった。


 だが、かよわい女性よりも力のある男性が荷物を持つのは当然のことだとアランに軽く諭され、戸惑いながらも従うことにする。


「少し休もうか」


「はい!」

 それには即答した。紗由自身というより、アランに休んでほしかったからだ。


 銀座はどの店も賑やかだったが、その一角に白い煉瓦レンガと大きな窓が特徴的な店構えのモダンな建物があった。


「ここだよ」

 彼はその前で足を止めた。


 看板には『リトル・ヴェロニカ』と書かれている。どうやら喫茶店カフエーという所らしい。黒い鍛鉄アイアンで縁取られた窓枠から中の温かな灯りが見え、訪れる人々を招き入れるような雰囲気を醸し出していた。


 店内に入ると、広々とした木の床と磨かれたガラス窓がついた重厚な棚が並んでいた。壁は乳白色に塗られ、所々に淡い青や赤のモザイクタイルが飾られ、異国情緒を感じさせる。


 天井から吊るされたアールデコ調のガラスランプが、喫茶店全体に温かな光を落としていた。


 二人は窓際の席に向かい合って腰かけた。テーブルには大理石の天板が使われており、椅子はふかふかのクッションがついた深緑の天鵞絨ベルベット張りのものだ。


 若い男女や流行の洋装に身を包んだ婦人たちも多いが、外国人の姿もちらほら見受けられ、多様性に満ちている。中でも特にアランは人目を引いた。それは悪い意味ではなく、その洗練された所作と、舶来人形のように端整な見目がそうさせるのだろう。


(そんな人に荷物持ちさせてる私って……)

 穴があったら入りたい。

 紗由は申し訳なさでいっぱいになり、肩をすぼめて俯く。


「お腹はいている? 朝食以外は日本食が多いから、今日は少し違ったものを味わってみようか」


「アラン先生は時々来るんですか、こういう所?」


「ああ、時々ね。甘いものが好きな同僚がいるから」

 それは女の人ですかと紗由は聞きそうになって、すんでのところで飲み込んだ。


個人的プライベートな部分に踏み込むのはよくないわよね)

 アランのことを知りたいと思うものの、知ってしまったら彼のことをもっと好きになってしまいそうでこわかった。所詮、住む世界が違う。いくら手を伸ばしても届かない人だ。


 そう、自分はアランのことが好きなのだ、と改めて紗由は心の中で呟いた。


 けれど想いを伝えたところで相手にされないだろう。誰に対しても優しいのは病院で聞いた評判と、使用人のしず子の様子を見ていればよくわかる。


 アランが給仕の男性に料理を注文しているのをうわの空で流し、紗由は窓の外を眺めていた。


 青い空に白い雲が浮かんでいて、その雲が太陽を覆い、すっと地面が陰る。


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