第10話 いざ銀座へ

 開け放した書斎の窓から入ってきた涼しい風が、紗由の白い首筋を撫でた。


「星たちの……ここは……なんと読むんですか、アラン先生?」

 彼女は机の上に開いたページの一部を指差す。それは以前アランに購入してもらった『月と星夜のものがたり』だ。夜の旅を続ける少女と彼女の連れである黒猫が、星々と出会いながら月の光に導かれ、願い事を叶えるために旅をしているという内容だった。


「『星たちの囁きが、少女を優しく包んだ』って書いてある。囁くっていうのは、静かに話すことを言うんだよ」

 彼女の隣に置いた椅子に腰かけているアランはそう言って、紙に『囁く』とゆっくりと書いてみせた。


「ささやく……なるほど、こういう字なんですね。じゃあ続き……読みます」

 彼の言葉を繰り返し、すぐに次の部分を読み進めた。


 読み上げる声はまだぎこちないが、覚えが早いとアランが褒めてくれるので、もっと学ぼうという意欲が湧いてくるのだ。


 おかげで新聞もある程度読めるようになった。朝の仕事がひと段落した後に、サンルームで新聞に目を通すのが最近の日課だ。前にアランが言っていた若い女性が狙われる夜の失踪事件はまだ解決に至っていないらしく、毎日のように紙面を賑やかしていた。


 女性は婚約相手が気に入らなくて駆け落ちしたのだとか、夜な夜な怪しい集会が開かれ妄信し帰ってこないのだとか、胡散臭うさんくさい陰謀論まで書かれるようになっている。


 中でも紗由がムッとしたのは、そこに外国人が関与しているのではないかと書かれていることだった。数少ない目撃者によれば長身の人物が女性を連れ去っただの、日本語ではない言葉を聞いた、あるいは横濱よこはま港に見慣れない外国船が停泊していた時期と重なるだの根も葉もない噂までが本当のことのように書かれている。


 もちろん真実がどうなのか紗由にもわからないが、新聞はたくさんの人間が見るのだから、もう少し確実性のある文面にすればいいのにと思ってしまう。


 ある時しず子にそう零したら、『刺激的な内容の方が興味を引いて売れるんだそうですよ』と肩をすくめて答えてくれた。


「お二人とも、少し休憩をどうですか?」

 その時、ちょうど頭に思い浮かべていたしず子が書斎に顔を出し、穏やかに声をかけてきた。彼女はお盆の上に、どら焼きと緑茶を載せている。


「ありがとうございます!」

 紗由はそれを見て、目を輝かせた。ここへ来てから初めて口にしたその甘い菓子は涙が出るほどおいしかったのを覚えている。しず子は「また買ってきますね」と言ってくれていたのだが、それが今日だったようだ。


 ここへ来てから半月が経っている。


 アランは約束通り、夕餉の後や休日に紗由の読み書きに付き合ってくれた。顔の傷も、彼に塗ってもらった薬のおかげですっかり良くなっている。


 仕事を探さなければと思ったが、どうせなら読み書きが上達してからの方がいいのではとアランに言われて、その好意に甘えてしまっていた。


(家事の手伝いはしているけど、お世話になっている部分の方が大きいのに)

 はむ、とふっくらした生地を口にすると、蜂蜜と砂糖をたっぷり使ったとびきりの甘みがいっぱいに広がって、またしても感動してしまった。しっとりした粒あんも絶妙な柔らかさと甘さで、生地とのバランスがよい。


(お菓子屋さんで働くのもいいかも……)

 もう一口どら焼きを頬張り、紗由はハッとした。


「しず子さん!」


「どうしましたか?」


「これ、栗が入ってます~! すごくおいしい!」

 またしても紗由は目を輝かせて感動を覚えたのだった。


「君の顔を見ているだけで、本当においしいんだっていうのが伝わってくるよ」

 アランが目元を緩めて控えめに笑う。


「そんなに顔に出てますか? 恥ずかしい……」

 頬を染めながらも、彼女が嬉しく思う理由があった。ここで過ごしているうちに、アランが紗由にも気安い言葉遣いで話しかけてくれるようになったことだ。


「作った職人も喜ぶと思うけどね。そうだ、今度の日曜に銀座の方へ出かけてみようか。紗由さんが気に入るものがたくさんあると思う」


「い、いえ、私は……」


「たまには、いろいろ店を見てみるのもいいんじゃないかな?」


「社会勉強、ですか」

 紗由がそう言うと、アランはくつくつと笑った。


「紗由さんは本当に真面目だね。じゃあ言い方を変えよう。俺が紗由さんと出かけたい、いいかな?」

 こちらを真っ直ぐに見つめる青い瞳は吸い込まれそうなほど綺麗で、紗由は食べかけのどら焼きを手にしたまま、しばし彼に見惚れてしまう。


(アラン先生が、私と出かけたい? それって、どういうこと?)

 そこで紗由はピンときた。


(そっか、例の連続失踪事件で外国人だというだけで白い目で見る人もいるから、一人では帝都の街を歩きにくいんだわ。私が一緒なら、大丈夫。だっていなくなっているのは育ちのいい娘さんばかりだと新聞に書いてあったもの。私のように地味で貧相な娘なら、ただの物持ちを連れて歩いているようにしか見えないでしょうね!)

 ささやかながら、ようやくアランの役に立つ時がきたのだ。


「私、先生と一緒に行きます。絶対に離れませんから」

 意気込んで答えると、アランは一瞬目をぱちぱちとさせたが、ふっと微笑んで「じゃあ決まり」とどら焼きを手に取った。





 そして、その約束の日曜日がやってきた。


「しず子さん……少し、派手ではありませんか?」

 鏡台の前の丸椅子に腰かけている紗由は、ややひきつった笑みを浮かべる。


「そんなことありませんよ。とてもかわいらしいです」

 にこやかに答えたしず子は、自分の家から持ってきた化粧道具をしまった。


 着物は前にしず子に譲ってもらった新橋色のものだが、髪は綺麗に三つ編みに結い上げてもらい、後ろでくるりと輪になっていた。そこに生成きなりのリボンを結んでもらう。


 それだけでも充分おしゃれなのに、しず子に薄く化粧をしてもらい、唇に紅を引いてもらうと自分がなんだか別人になってしまったような気がして気恥ずかしい。


(女学生になった気分……もしかしてこれが噂に聞くハイカラ!)

 くすぐったいような温かい気持ちで胸が熱くなる。


「準備はできた?」

 客間の障子の向こうでアランの声がした。


「は、はいっ。今、行きます」

 紗由は慌てて立ち上がり、部屋を出た。


 アランは普段と同じく洋装だったが、鈍色にびいろのウールの上着に、中には清潔感のあるコットンシャツに濃藍こいあいの光沢のあるシルクタイを結んでいた。仕事に行くよりも柔らかな印象がある。


薄墨色うすずみいろ中折れ帽フェドーラハットが、彼によく似合っていた。劇団俳優のような輝きが眩しくて、紗由はまっすぐに彼のことが見られず視線をあちこちに彷徨わせる。


「とても素敵だ。可憐で愛らしい花の精のようだよ」

 アランは口元にわずかな笑みを浮かべた。


「へ?」

 まるで恋愛小説の一節かと思うような台詞に、思わず変な声が出てしまい、アランの微笑を受け止めて顔を赤くする。


「さあ、行こうか」

 ポケットから金の懐中時計を取り出して時間を確認したアランが手を差し出してきた。おそるおそるその手を取ると優しく握り込まれる。


 むかし、母に読んでもらったことがある外国の物語に出てきた、「王子様」と「お姫様」のようだと紗由の鼓動が逸った。


(王子様とお姫様は一緒になって幸せに暮らしました、で終わりだけど、私とアラン先生じゃ不釣り合いね)


 アランは桐野総合病院の跡を継ぐかもしれないと言われている人。良家の令嬢でなければ将来を誓うことはできないだろう。それに比べて自分は何の取り柄も持っていない凡人だ。


(そんなの、わかりきったことだわ。私は先生に恩返しができればそれでいい。今日はちゃんといろいろ見て勉強しなくちゃ!)


 紗由は込み上げる気持ちを押し込めて、しっかりと前を向いた。


 二人は路面電車で銀座に向かう。


 町にはたくさんの人々が行き交っていた。洋装の女性も少なくない様子に紗由は驚いた。


(たしかに、派手っていったら、みんなも派手か……)

 鮮やかな着物に、足元には編み上げの長靴ブーツをはいて、笑いながら歩いている女学生の集団とすれ違う。はかま姿の女性もいて、頭には大きなリボンをつけていた。


(ハイカラさんがいっぱい……)

 目を輝かせ、窓の外を食い入るように見ていたら、アランの視線を感じて慌てて振り返る。


「すみません、私ったら一人で……」

 せっかくアランと一緒にいられるのに、興味を惹かれるものが多すぎて注意力が散漫だ。


「いいんだよ。気になる物があったらすぐに教えて。それと、もうすぐ最初の目的地に着くからね」

 そう言ってアランが電車を降りて連れて行ってくれたのは一軒の呉服屋だった。

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