第9話 特別な存在(アラン視点)

 紗由がアランの所へ身を置くようになってから、一週間ほどが過ぎた。


「アラン先生、おはようございます」

 カーテンを開けた瞬間に射し込んでくる、あの朝の光ほど苦痛なものはない。だが、それを和らげてくれるのが彼女の優しい声だった。


 乾いた大地に降り注ぐ慈雨のような安らぎを感じさせる。


 それと同時に彼女がまとっている微かな甘い匂いが、心の奥に沁み込んできた。朝の陽光が花弁に触れた時に漂うような、柔らかく、どこか優雅な匂い。それは香水や花のはっきりとした香りとは違う。


 その匂いはまるで彼に向けて放たれているかのようだった。内なる感覚がそれを捕らえ、記憶の中で鮮やかに浮かび上がる。甘く濃密な禁断の甘露のようで、特別な感覚が彼の心を静かに震わせるのだった。


 ――いつか、お前もを見つけるだろう。


 幼少時に聞いた父の言葉の意味が、今ならわかる気がした。


「おはようございます、紗由さん」

 アランは目を開け、彼女の存在を確かにそばに感じて微笑む。


 朝のルーティンを経て病院へ出勤すると、前日に届いていた彼宛ての郵便物が机の上に載っていた。整然と積み上げられた手紙の中に、大きな茶封筒がある。裏を返し、差出人の名前を見て軽く瞠目どうもくした。


(もう届いたか)

 彼は深呼吸をし、慎重に開封して中の書類を取り出す。


 そこには『篠田紗由に関する調査報告』と書かれていた。アランが私立探偵に秘密裏に依頼していたものだ。


 紗由は自分から過去のことを語ろうとしない。こちらから根掘り葉掘り尋ねるのは、配慮に欠けるだろう。であれば、第三者に調べてもらうしかない。とはいえ、それも道理に反する行為であるのは、重々自覚している。


 しかし紗由の今後を考えると、過去を知ることは重要なことのように思えたのだ。


 報告書には、詳細な調査結果が記されていた。文書をめくりながら、アランの目は次第に真剣なものになっていった。


 紗由の両親は、彼女が十一歳の時に車の事故で他界している。篠田家に引き取られたが、彼女が通うはずだった女学校には従姉の千代子が代わりに通っている。養育費は出ていたが、紗由に使われた形跡はない。他の女中同様の扱いを受けていたにもかかわらず、無給だったようだ。


「なんと愚かな仕打ちを……」

 読み進めるうちに憤りを感じ、書類を掴む手に力が入ってしまい、紙に皺が寄る。


 他の親戚は地方に住んでいるため、帝都に頼れる者はいない、そして彼女の生家がすでに他人の手に渡っていることも記されていた。


「紗由さん……」

 初めて書店で会った時に語っていた紗由の夢――『お話を書いてみたい』。おそらく両親が生きていたら順調に叶った夢だったのかもしれない。


 アランは報告書を封筒に仕舞い、深いため息をついた。


 ようやく見つけた。ただ、自分では彼女を幸せにすることができるかどうかわからない。


「……相談してみようか」

 仕事を終え、今夜は桐野の本邸に泊まることを電話で紗由に伝えたアランは、まっすぐにそちらへ向かった。


 秋の夜風がそっと吹き抜け、欠けた月が雲間にちらりと姿を見せる。昼間はカラッとした日差しが降り注ぐものの、夜は長袖がちょうどいい気温になっていた。


 本邸の静かな庭の中で彼岸花が無言で揺れている。その鮮烈な赤がアランの視界に広がり、彼の胸の奥に秘めた感情を静かに揺さぶった。


 硬質な靴音が敷き詰められた石畳に響くたび、庭の中に溶け込むような音が返ってくる。鈴虫や松虫の声が細やかに響き、遠くで梟が静かに鳴いていた。


 月明かりに照らされた庭は、穏やかな中にも一抹の寂しさを感じさせる。


 彼は邸の大きな木製の扉に手をかけると、深い呼吸をして扉を押し開けた。冷たい鉄の取っ手が彼の掌にかすかな冷気を伝える。


「おかえりなさい、アラン。元気そうでよかったわ」

 扉を開けると、玄関で桐野直道きりのなおみちの妻――貴乃きのが嬉しそうに出迎えてくれた。


 長い髪を一つにまとめ上げ、パーマをかけた髪で耳を隠している。鮮やかな黄色の牛首紬うしくびつむぎ絵羽着物えばきものを優雅に着こなし、にっこりと口角を上げた。


「お久しぶりです。お母さんも息災なご様子で安心しました」

 アランは軽く頭を下げてから、靴を脱いで邸の中に一歩足を踏み入れた。


 法により彼らの戸籍に入ることはできないが、二人とも本当の親のように思ってくれていいと温かく迎えてくれたので、尊敬の念も込めて父母と呼んでいる。


「お父さんは帰ってきていますか?」


「応接間にいるわよ。同じ職場にいるんだから一緒に帰ってくればいいのに」

 貴乃はそう言ってからからと笑った。


「夕方、急に混んできたので、声をかけそびれたんです」

 アランは苦笑しながら、廊下を進んでいく。


「おお、アラン。珍しいな、お前がこっちに帰ってくるなんて。久しぶりに晩酌に付き合ってくれないか?」

 応接間に入るなり、柔らかな布張りのソファに腰かけていた直道が柔和な表情で笑いかけてきた。後ろに撫でつけた黒髪に、わずかに白いものが混じっている。


「ええ。その前に少し相談したいことがありまして……」


「相談? どうした? 私にできることがあれば力になるぞ」

 直道は隣に貴乃が座るのを確認してから、興味津々な様子でこちらを見つめる。


 アランは彼らの向かいに静かに腰かけ、居住まいを正した。


「実は……今、家に一人の女性がいまして」

 アランの言葉に、桐野夫妻の笑顔が一瞬固まる。


「なんて?」

 貴乃が顔に笑みを貼りつけたまま、軽く首をかしげてみせた。


 一週間ほど前から紗由が叔父の家を追い出され、仕事が見つかるまでしず子の手伝いをしながら滞在していることを説明した。同時に調査書を読んでもらう。


「はあぁ……」

 目を通し終えた調査書をテーブルの上に静かに置いた貴乃は、額に指をついて長いため息をついた。


「あなたたち、本当に似たもの親子ね! ひとりぼっちの子を見たら放っておけないってわけ?」


「捨ておいた方がよかったかい?」

 直道に尋ねられ、彼女は苦笑しながらふるふると首を横に振る。


「いいえ。あなたのそういう底抜けに温かいところに惹かれたんだもの」

 貴乃は柔らかく目を細めた。


「アランも優しい子に育ってくれて嬉しいわ。その子が気の毒な境遇なのはわかったけれど、相談というのは彼女の働き口を斡旋してほしいということなの?」


「いえ……紗由さんは、俺にとって『特別な存在』のようなんです」


「それは……本当か!」

 アランの言葉を聞いて直道の目元が鋭くなった。


 頷く彼を見て、夫妻は顔を見合わせる。直道も貴乃も、彼が「特別」という言葉に込めた意味を理解していた。


「でも、俺といたら紗由さんを不幸にしてしまうかもしれない」


「ふむ……」

 直道は静かに考え込むように頷き、顎に手を当てた。


「お前の体のことはお嬢さんには伝えていないのだな?」


「はい。かけがえのない存在だからこそ、伝えるべきか否か、迷っていて……」


 その言葉に、直道は目を細めてアランをじっと見つめた。彼が悩んでいることを察しつつも、直道は彼に答えを強要することはなかった。


「アラン、お前が彼女を大切に思っていることは十分伝わってきた。しかし、大切だからこそ、彼女の気持ちも尊重する必要がある。要は、彼女自身がどう感じているか、どう選ぶか、だろう」


「そうよ! 紗由さんだってあなたと一緒にいたいと思っているかもしれないじゃない。悩むのはわかるけど、早々に離れようとする必要はないと思うわ。もう少し一緒に暮らしてみて、気持ちを推しはかってみたら?」

 貴乃も明るく頷きながら言葉を続けた。


「俺のことを知った彼女に拒絶されたら……」

 アランは一瞬、言葉を詰まらせたが、立ちあがった貴乃が隣に腰かけてきて、肩に優しく手を置いた。


「あなたが何者であれ、あなた自身を見てくれるはずよ。『特別な存在』ってそういうことではないの? 焦ることはないわ。彼女があなたにとって特別であるように、彼女にとってもアランがそうであるかもしれない。それを確かめるのは、あなたにしかできないわ」


「ええ、はい……その通り、かもしれませんね」

 アランはその言葉に静かに頷き、胸に抱えていた不安が少しずつ和らいでいくのを感じた。


 二人に話してよかったと思いつつも、紗由が同じように理解してくれるかはわからない。


 自身の事情より、今は紗由の傷ついた心を癒す方を優先しようとアランは決意した。

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