第8話 笑顔になるために

「では、少しだけお手伝いをお願いできますか、紗由さん」

 しず子の声にハッと我に返った紗由は、大きく頷いた。


「何でも言ってください」

 着物の袖を捲り、彼女は気持ちを切り替えるように笑顔で答える。


 腰が痛いと言いつつも、しず子は要領よくてきぱきと動き、家中の掃除や洗濯を手際よくこなしていった。


 紗由の方は主に掃除担当だ。この家はとにかく窓が大きく、数も多い。それを拭くだけでも時間がかかるのだという。一番窓の大きい部屋はサンルームと呼ばれており、日差しをたくさん取り込むことによって、真冬でない限り一年を通して温かいらしい。


 もともと来客をもてなすために建てられた別邸なのだが、アランが住むようになってからは、同僚の一人も連れてこないのでひっそりしたものだそうだ。


「普段は腰を休めながら一人でやっているので、今日はとても早く終わりそうです。助かりました」

 しず子は優しく頷き、続けて布団を干しにいこうとしたので、慌てて止めて、代わりに紗由が布団を持って庭に出る。


 乾いた秋風が前髪をさらう。少し汗ばんだ体に、それは心地よかった。同じように家事をこなしているのに、以前よりも気持ちが晴れ晴れとしているのは、アランやしず子のおかげだろう。


 仕事が一段落ついた頃、しず子が自分の家に戻っていったが、彼女はそう間を置かずに帰ってきて手には風呂敷包みを抱えていた。


「これ、紗由さんのお好みに合うといいのですが」

 しず子はそう言って客間の畳の上に風呂敷包みを広げた。そこには、新橋色しんばしいろの着物が綺麗に畳まれて入っていた。派手さはないが、控えめな白の格子柄こうしがらがかわいらしい。


「私の娘が嫁ぐ前に着ていたものなんですよ。もう着る機会がないから、あなたにどうかと思って」


「こんな素敵なもの、いただいてもいいんですか?」

 少し遠慮がちに手を伸ばし、その感触を確かめると、しっかりとした生地で着古した感じもない。今まで破れたり、洗ったりして擦り切れた着物をなんとか繋いで着てきたが、実をいうと先日の雨の日でさらにだめにしてしまい、替えがなくて困っていたのだ。


「もちろんです。娘もまた誰かに着てもらえたら喜ぶでしょうし」


「ありがとうございます! 大切にします」


 しず子の優しさに触れながら、二人で一息つこうと食堂に戻り、緑茶を入れた。湯飲みから立ち上る湯気が、部屋に落ち着いた香りを漂わせ、ホッとした静けさが訪れる。


「アラン先生は英国からいらしたんですよね?」


「ええ、今から二十年ほど前になりますか。旦那様が留学先でお世話になった方のお子さんだそうです。ご両親とも事故で亡くなったと聞いております」


「事故で……」

 私と同じだ、と紗由は思った。


 二十年前というなら、彼は当時七歳。紗由が両親を失った時よりも幼い頃に彼は一人になった。それから知らない国に連れてこられて……。


「ご苦労なさいましたよね?」


「そうですね、なにしろ言葉が通じませんでしたから。最初の頃は怯えて部屋に閉じこもったままでした。ですが旦那様も奥様もお優しい方で、我が子のようにかわいがっておられましたから、次第に慣れていきました」

 その頃のことを思い出しているのか、しず子は相好そうごうを崩した。


「まだ異人さんが珍しい時代でしたから、真っ白なお顔も金色の髪もまるで作り物みたいに綺麗で、同じ人間とは思えないくらいでしたよ」


 そのように彼女が表現するのも頷ける。紗由も初めてアランを目にした時、人形のように整った面立おもだちだと思った。


「今では帝都で評判のお医者様ですからねえ。お世話した私たちも鼻が高いですよ」

 しず子は緑茶をすすりながら誇らしげに言う。


「ただ、仕事がお休みの日は私も通わなくていいと言われていますが、一日中蔵書とにらめっこして、研究や論文の作成にいとまがないようで、食事をるのも忘れる時があるので、ちょっと心配なんですよ」


「すごい集中力……」

 紗由はその話に驚きつつも、アランの真面目で熱心な姿勢に改めて感心した。自分には到底できないことだと感じながらも、どこかで少しでも彼の力になりたいという思いがふつふつと湧き上がってくる。


「私も、先生を見習って立派に自立しようと思います! 帝都はお店もたくさんありますし、早く仕事を見つけますね」


「このあたりだと、女中や針子、それにお茶屋さんや小間物屋での仕事もありますが、最近人気なのはタイピングだとか電話交換手とかですかね。紗由さんが無理をしないでできるものを見つけるのが大事ですよ」


 紗由はしず子の言葉に少しだけ安堵しつつも、自分には読み書きができないことが引っかかっていた。


          ※


 その日の夜、夕餉を終えてしず子が家に帰った後、紗由は剥いた梨を載せた皿をアランの前に置いて自分も腰かける。


「いろいろと手伝っていただいたようで、ありがとうございます」

 アランは梨を一口食べてから微笑んだ。


「いえ。全然大したことないです。それにしず子さんからは、娘さんが着ていたお着物までいただいてしまって、かえって申しわけないくらいで」


「着物が欲しいのでしたら、今度の休みの日に一緒に買いに行きましょうか?」

 なんでもないように言われ、紗由は大きくかぶりを振った。


「い、いえ。そんなお金ないですし、持ってきたものといただいたもので充分です」


「仕事を探しに行くのなら、普段着でというわけにもいかないでしょう?」


 そう言われると、もう仕事を探す以前の問題だ。


 どうしようと俯くと、アランがにっこりと笑った。


「ご心配なのは支払いのことだけですね。それなら大丈夫です、私が出します」


 全然大丈夫じゃない――!


 紗由は慌てて顔を上げた。


「い、いえ、あの、先生にそこまでしていただく理由が……」


「理由ですか? 強いて言うなら、あなたに笑顔でいてほしいからでしょうか」

 彼は視線を紗由から外してテーブルに落とし、微かに困惑しているような表情を見せた。それは口にしてから自分の感情に気づいたゆえの気まずさのような――要は照れている様子が窺える。


(余計にわからなくなったわ……)

 紗由も一緒になって黙り込むが、この沈黙が続くほど顔が熱くなってきて、もう耐えられない。


「あ、あの、図々しいのを承知でもう一つだけお願いがあります。もし辞書をお持ちでしたら私に貸していただけませんか? 恥ずかしながら私は女学校にも通えず、難しい字の読み書きができないんです。この前いただいた本も、実は読めていなくて……」

 

「では、女学校に入れるように、桐野ちちに取り計らってもらいましょうか?」


 今までどんなに願っても叶わなかったことが、アランによって次々と道が開けていく。けれど、あまりにもするすると先に進んでしまって、心の整理が追いつかない。


「いえ、私ももう十八ですし、今更女学校なんて……」


「では、あの本を教材にして、まずは易しい読み書きの勉強からしましょうか、私と」

 アランはニコニコと機嫌のよさそうな笑みを浮かべる。


 辞書があれば、自分一人で調べてなんとかできるかもしれない。けれど、彼に教わればもっと効率よく覚えられるだろう。つまり、一日でも早く仕事を見つけることができる。


 アランに迷惑をかけないためにも、そうするのが一番だ。


(そう、これはあくまで時間を無駄にしないための手段であって、先生と一緒に過ごしたいわけではなくて……コホン)

 紗由は小さく咳払いすると、彼に頭を下げる。


「では、お言葉に甘えて……よろしくお願いします、アラン先生」

 笑顔でこの家を出て行くために、精いっぱい頑張ろうと彼女は誓った。

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