第二章 真昼の夢、黄昏の恋情
第7話 目覚めの時
淡い光が
「なんだろ……?」
ぼんやりとしながら目を開ければ、見慣れない天井が視界に入ってきた。
どこだろうと考える前に、昨夜のことをすぐに思い出してハッと起き上がる。
「いけない!」
きっと、しず子がもうやってきて朝餉の準備をしているのだ。
手伝うと言っておきながら、のうのうと寝こけているとは情けない。
慌てて布団から飛び出して
炊事場に行くと、予想通りしず子が手際よく朝餉を準備している姿があった。
「おはようございます。寝坊してしまってすみません」
紗由は申しわけなさそうに頭を下げる。
「おはようございます、篠田さん。大丈夫ですよ、これが私の仕事ですから」
しず子は気にするふうでもなく、優しく微笑みながら首を横に振った。
その言葉に少し安堵したが、腰が痛いという人間が働いているのをただ見ているだけはできない。
「あ、あの、何か私にもやらせてください。これでも篠田家では女中として働いてきて……」
「女中?」
しず子さんが野菜を切る手を止めて、いぶかしげにこちらを見た。
「えっと、話せば長くなるんですが、とにかく一通りの家事はできますので、なんでも言ってください」
「わかりました。では、昨日もお伝えした通り、アラン様を起こしてきていただけますか? 踊り場のカーテンも一緒に開けてきていただけると助かります」
頷いたしず子は事情を追求することなく穏やかに言って、軽く視線を上に向けた。
アランの寝所は二階だと昨日教わったばかりだ。
「はいっ、いってまいります!」
重大任務と言わんばかりに毅然と返事をした紗由は、部屋を出て階段を上がっていく。
途中の踊り場にあったダマスク唐草が描かれた
「アラン先生、おはようございます。入ってもいいですか?」
軽くこぶしを握って、コンコンと扉を叩いてみるが、返事はなかった。しず子から聞いていた通り、アランは朝がとても弱いらしい。
金の取っ手を回すと、鍵はかかっておらず、静かに開いた。
部屋の中はびっくりするほど真っ暗だ。障子の一つでもあれば、自然の光を感じることができるのに。こちらはほとんど洋風の作りが主なようである。
少し目が慣れてくると、調度品の影やアランが寝台で眠っているのが見えてきた。床は木の板でできていて、足袋で歩くと少し冷たく感じる。
「カーテン開けますね」
そう言いながら室内に光を取り込むが、彼は少し顔をしかめただけだった。
「困ったわ……」
紗由は少し困った顔をしながら、しず子の『大声で挨拶して、布団を剝がさないと起きません』という言葉を思い出していた。
仕方なく彼女はそっとベッドのそばに近づく。アランは静かな寝息を立てて熟睡しているようだ。
光を蓄えた絹のように真っ直ぐな髪と同じ色の長い睫毛。すっと通った高い
ぼうっと眺めていた紗由は、ハッと自分の任務を思い出し、煩悩を頭から振り払った。
「ア、アラン先生、朝ですよ。おはようございます」
紗由は枕もとに立ち、そっと体をかがめて声をかける。耳元で大声を出せば起きるとしず子には言われているが、恥ずかしくてそこまで近づく勇気はなかった。
(そうだ、布団を剥ぐんだっけ……?)
それも、いいのかどうかわからない。付き合いが長いであろうしず子がするから許されるのであって、親しくもない人間がすることではないように思えた。
もう一度声をかけてみようか
(え!? 起きた?)
まさか、しず子にからかわれたのだろうか? だとすれば昨夜アランが否定するはずだし、たまたま彼の眠りが浅かったのだろう。よかった。
「甘い匂いがする……」
彼は起きぬけにそう呟いた。
「あっ、おはようございます! しず子さんがもう朝餉の準備をしてくれていて、とてもおいしそうな匂いで私も起きたんですよっ」
ガラス玉のような二つの瞳に見つめられると、途端に鼓動が早くなる。
「ああ……おはよう、紗由さん。今朝は君が起こしに来てくれたのか、ありがとう」
その無防備な笑顔に紗由は何も言えなくなって、黙ってこくこくと頷いた。
「すぐに着替えて下に行くよ」
――着替え。
そう言われて彼女は顔を赤くしながら「お待ちしてますっ」とだけ言って、寝所を飛び出した。
炊事場に戻ると、すでにしず子が食堂の方へ料理を運び終えていた。
「あら。アラン様はもうお目覚めになったんですか。やっぱり私のような年寄りよりも、若いお嬢さんに起こされた方が嬉しいですよねえ」
しず子は、あははと豪快に笑う。
「いえ……たまたまです」
紗由は苦笑した。
「ふふっ。朝食のご用意もちょうどできましたよ」
「これって……」
「ええ。朝はアラン様のご希望で洋食なんです。この中で何か食べられないものはありますか?」
そう聞かれて、紗由は首を横に振った。
「大丈夫です。すごくおいしそう」
食卓には三人分の食事が用意されていた。最初はアランのものだけを出していたが、やがて一人で食べるのは味気ないからと彼に言われ、しず子も同席するようになったのだという。
きつね色の焦げ目がついたトースト、バターと真っ赤なジャムの他にハムとサラダまである。半熟のいり卵のようなものは、スクランブルエッグというのだとしず子に教わった。
「紅茶もございますよ」
真っ白な薄い陶器のカップの中に、透けるような赤褐色の液体が揺れていて、湯気が立ちあがっていた。その中から
「紅茶?」
「英国から取り寄せたものなんですって。緑茶とも違った味わいでおいしいですよ。アラン様は英国と日本では水が違うので、色は違うとおっしゃっていましたけどね」
そんなやり取りをしていると着替えを済ませたアランがやってきて、三人で朝食の席を囲むことになった。
初めて食べたトーストはカリカリで香ばしく、バターを塗り、さらにジャムを乗せると一気に口の中が潤んだ甘酸っぱさで満たされる。
「篠田家では、いつも一人でご飯を食べていたので……なんだか嬉しいです」
胸がいっぱいになって、また昨夜に引き続きほろりと涙が零れた。
ここは温かくて、冷えた心もたちまち溶けて気持ちが溢れる。
「紅茶も……おいしいです」
そんな彼女を、アランとしず子が穏やかに見つめていた。
「ああ、そうだ、しず子。今日からは紗由さんと呼んでやってほしい。篠田の名を出すと、つらい仕打ちを思い出してしまうだろうから」
「ええ、はい。わかりました。こんなかわいらしいお嬢さんを追い出すなんて、鬼のような人ですね」
しず子はハムを飲み込んでから、ぷんと己のことのように不満そうな顔を見せた。
「……すみません。気を遣わせてしまって。早く仕事を見つけるようにしますので」
二人の気持ちが嬉しかったが、迷惑をかけているのではないかと思って目を伏せる。
「気にしないでください。仕事もおいおい探せばいいと思います。顔に傷が残っているうちは、人に会っても心配されるだけですよ」
紗由はそっと左頬に触れた。昨日薬を塗ってもらったが、まだ熱っぽく腫れている。
朝食を終えて、アランに再び薬を塗ってもらった後、病院へ出勤する彼を玄関まで見送りに行く。
「では、いってきます」
「いってらっしゃいませ、アラン先生」
アランが出て行っても、しばらく紗由はそこに立ち尽くしていた。
彼がいなくなった途端に、胸がきゅっと締めつけられるような感覚が広がる。この家に来てまだ丸一日も経過していないというのに、彼の笑顔や柔らかな声、ちょっとした仕草にさえ安心感を覚えていた。
いつまでもここにいるわけにはいかないのに、出て行くのも少しだけこわい――。
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