第6話 一番効く薬(後)

「髪留め、見つかったのですか?」

 薬を塗り終えたアランが手を拭きながら尋ねてきたので、紗由はびくりと肩を震わせた。


「それが……」

 言葉を選びながら、紗由は叔父に濡れ衣を着せられて家を出るに至った事情をぽつぽつと語る。


 アランは黙って彼女の言葉に耳を傾けていた。


「帝都に来たものの、行く宛てがなくて……どうすればいいか、わからなくて……」

 無力さで打ちひしがれた瞳が、再び潤んで揺れる。


「それはつらかったですね。でも今は安心してください。ここでは誰もあなたを追い出しはしません。少なくとも、落ち着くまでここにいるといい」

 アランの言葉は静かで、だが確固としたものだった。


「ありがとうございます。早めにお仕事を見つけておいとまさせていただきますので……」


「まあ。それなら、その間、私の手伝いをしてくださいませんか? 実は最近、腰を痛めてしまって、存分に働けないんですよ。お薬はいただいているのですがね」

 紗由がやんわり断りを入れようとすると、部屋の別の入り口からしず子がやってきて、そう提案する。


「申し訳ありません。夕食のお支度ができたので呼びにまいったのですが、お話が聞こえてきてしまいました。アラン様、いかがですか?」


「そうだったのか、無理をさせて済まない。もし篠田さんがよければ、だが」

 アランはそう言って紗由の方を見た。


「え……と……では、それまで精一杯頑張りますのでよろしくお願いします」

 紗由はおずおずと頭を下げた。


 なんだか二人に甘えることになってしまって気が引けるが、何もせずにここに置いてもらうのはもっと肩身が狭いので、手伝えることがあるのならなんでもしようと思った。


「助かります! アラン様は朝が弱いので、お二階の寝所まで起こしに行かなくてはならないんですよ。それがまた腰に来るので、本邸の者と交代しようかと思っていたんです」

 しず子はあっけらかんとした表情で笑った。彼がそれを苦笑いしながら否定せずに聞いているので、本当に朝は自分で起きられないようだ。


(アラン先生、なんでもできそうなのに)

 紗由は彼の意外な一面を知ってくすりと笑った。


「さあさあ。そうと決まれば、冷めないうちにお夕食にいたしましょう」

 しず子に言われて食堂へ行くと、食卓には温かい食事が並べられていた。炊き立ての真っ白なご飯、ふっくらとした卵焼き、香ばしい焼き魚、そして味噌汁がほのかに湯気を立てていた。


「どうぞ、召し上がってください」

 しず子が優しく言うと、紗由はおそるおそる箸を取る。


「いただきます」


 アランが綺麗な所作で先に味噌汁に口をつけるのを見て、同じように汁椀を手に取り、静かにすする。その瞬間、体がじんわりと温かくなり、涙が込み上げてきた。


「あったかい……」

 何年もこんな温かい食事を口にしていなかった。家を追い出された絶望感が少し和らぎ、この場所での小さな安らぎが心を包んでいく。


「とても……おいしいです」

 紗由は目に涙を浮かべながら、小さな声で言った。


「それは良かったです。どうぞ、ゆっくりお召し上がりください」

 しず子は眉を開いて、おかわりもありますからねと言ってくれた。


 紗由は、ひと口ひと口を大切にしながら食事を進めた。つやつやとした柔らかなご飯の甘みや、綺麗に焼き上がった卵焼きのなめらかな口当たり、焼き魚のパリッとした香ばしさが、彼女の心を少しずつ癒していった。


 食事を終えた後、アランが入浴している間にしず子から簡単に別邸の中を案内を受ける。


「お二階にはこの階段から。アラン様のお部屋は一番奥です。カーテンを開けて、お布団をいで、耳元で大声で挨拶して差し上げればすぐにお目覚めになりますよ」


 しず子はなんでもないように言うが、それを自分ができるだろうかと紗由は少し不安になった。というか、そこまでしないと起きられないとはよほど朝が苦手らしい。


「ここは……?」

 廊下の突き当たりの扉を指さして尋ねる。


「この先には地下室があるようです。医術関係の蔵書をしまってあるとか。時々アラン様が調べ物や集中して蔵書をお読みになるために利用なさっております。私は入ったことがありませんけれどね」


 地面の下に部屋があるとはどういうことなのか、想像もつかなかったが、自分には関係のない部屋らしい。


「ひとまず篠田さんは客間を使ってくださいね。私はそろそろ帰りますが、その前にお布団を敷いておきますから」


「いえっ、腰が痛いのにそんなことさせられません! 私、全部自分でやりますから。それに夜は危ないってアラン先生が言っていました」


 祖母が腰の具合が悪いのに無理をした挙句に動けなくなってしまったことを思い出し、紗由は必死にしず子を止めた。


「篠田さんはお優しいですね。私の家は歩いてすぐ近所なので心配ありませんよ。では、お布団の方は、置いてある場所などをお教えいたしますね」


 しず子に案内された部屋は今まで紗由が暮らしてきた部屋の何倍も広く、小奇麗だった。本来は客を招くための部屋なのだから当然といえば当然だろう。


「私がここにいる間に、お客様がいらしたらどうしたらいいですか?」

 しず子を勝手口まで見送りに来た紗由は、そう尋ねた。


「アラン様がこの家に誰かを招いたことは今までに一度もございませんので、おそらくは心配いらないかと思いますよ。では、明日の朝またまいりますね。おやすみなさい」


「あ……おやすみなさい。ありがとうございました」

 紗由は大きく頭を下げた。


 かちゃりと鍵をかける小さな音が、外から聞こえる。


「誰も招いたことがない……?」

 それなのに、どうして――。


 アランからたくさんの恩をもらっているのに、一つも返せていない。

 ここを出る前までに、少しでも彼の役に立たなければ。


 そう思っていたら「篠田さん――」と急に後ろから声をかけられて、飛び上がるほど驚いた。


 食堂の入り口に、風呂から上がったアランが立っていた。

 しっとりと濡れた髪が目元を隠し、白いシャツの胸元が少しだけ開いていて、どぎまぎしてしまう。


 きっちりとした洋装か白衣を羽織った姿しか見ていなかったから、気取らない姿はとても若々しく本で読んだ天使みたいに清らかだ。


「は、はいっ」

 紗由は慌てて返事をした。


「しず子の手伝いもいいけれど、まずはゆっくり休んでください。それと……」


「はい」


「紗由さん、とお呼びしてもいいですか? 篠田家に戻りたいのでしたら別ですが、もし思い出したくないのなら、名字でない方がいいかと思いまして」

 アランの気遣いには、いちいち胸がきゅうっと甘く締めつけられる。


 嬉しくて、顔が緩んでしまいそうになった。


「ありがとうございます。アラン先生が、よければ……紗由、と」

 恥ずかしくて俯きがちに答えると、彼がふっと笑う。


「では、紗由さん。今日からよろしく」

 柔らかく温かな声色が、傷だらけの心に染み渡った。


 ――どんな薬よりも、あなたの優しさが一番効く気がします。

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