第5話 一番効く薬(前)
「な、なんだ、お前……!」
男たちの一人が口ごもる。
「聞こえなかったのか? 彼女を離せと言ったんだ」
アランが大股でこちらに近づいてきた。背の高い影が街灯の光に映し出され、その鋭い目は氷のように冷たい光を放っている。
足音は静かで地面を踏みしめているわけではないのに空気は張り詰め、男たちが身をこわばらせた。
「人体の構造は熟知しているから、どんなふうに力を入れれば一番苦痛を与えられるかも心得ているぞ」
そう言って彼は、紗由の腕を取ったままの男の手首を掴む。
「いってぇ!」
軽く捻っただけのように見えたが、男は悲鳴を上げて彼女から手を離し、パッと手を開いたアランから腕を振りほどくと距離を置くように後ずさった。
「ちっ、つまんねえ。行こうぜ!」
「まったくだ、酔いがさめちまったぜ」
彼の威圧感に、男たちは互いに顔を見合わせると、自分たちの
「Get lost,you fool!」
アランが彼らの背中に吐き捨てるように放った言葉は紗由には理解できなかったが、恐怖から解放されたことはたしかで、ホッとしたらたちまちその場に膝から
「篠田さん。こんな夜にどうなさったんですか? この荷物は?」
片膝をついたアランが紗由の細い肩を抱く。さきほどまでの冷酷な雰囲気が嘘のように柔らかく、彼女の知っている彼だった。
「私……」
緊張の糸が切れて、紗由の両目から涙が溢れ、彼女は慌てて俯いた。
「待って。顔をよく見せてください」
アランの大きな手が頬に触れる。
「嫌っ、こんな汚れた顔、見られたくない――」
紗由は肩を震わせながら首を横に振った。
「汚くなどありませんし、見ないと診察できません」
きっぱりと言った彼は、やや強引に彼女の顔を上げさせた。
少し抵抗はあったものの、診察と言われては仕方がない。
「ここ……赤くなっていますね。先ほどの男たちに何かされたのですか?」
再びアランの目が鋭く細められる。冷酷な声色は紗由に向けたものではないだろうけれど、一瞬、
「これは……叔父に、髪留めを投げつけられて……」
「それは酷い。とにかく手当てが必要ですね。ここでは難しいので、私の家に来てください」
「え……でも……」
「今の時間ならまだ通いの使用人が残っていますから、何か食事も用意してもらいましょう……っと、もう済ませた後でしたか?」
アランに手を引かれながら立ち上がった紗由は、小さく首を横に振った。
思えばずっと水すら口にしていない。
(きっと涙もろいのも、お腹がすいているせいだわ)
紗由は小さく頷いた。
「では行きましょう。最近の帝都は物騒なのですよ、特に夜は」
「そうなんですか?」
「新聞を読んでいませんか? 若い女性が立て続けに失踪し、いまだに見つかっていないそうです。さきほどの男たちは関係ないでしょうが、あなたのようなお嬢さんが一人で歩くには危険すぎますよ」
そう言われて、再び彼女は小さく頷いた。
帝都は電気が通っているので紗由が暮らしていた郊外に比べ、夜でも十分明るいが、今のように一歩路地裏に入ってしまえば闇が濃くなる。
アランが来てくれなかったらどうなっていたか、想像するだけで鳥肌が立った。
大通りに戻って、生まれて初めての路面電車に乗ると、物珍しさよりも安堵の方が勝ってしまい、彼女は下がる瞼と格闘しなければならなかった。
難しい症例の患者がいる為、帝都医大の教授に助言を賜りに行った帰りに偶然通りかかったのだとアランに言われたが、彼女はそれにはっきりと答えられなかった。
(あ、お礼……言ってない……)
一日働いて疲れているであろう彼に風呂敷包みまで持たせてしまい、申し訳ないと思いつつも、自身も重い疲労感には勝てなかった。
気づいた時には知らない場所についていて、彼女は眠い目をこすりながらアランについていく。
閑静な住宅街に、電灯がまばらに光を落としていた。その中の一角にアランの住む家はあった。
桐野家の別邸なのだと聞いた気がしたが、まだ半分寝ぼけている紗由は夢の中で話を聞いているかのようだった。
緩やかに湾曲した瓦屋根に、外壁は石造りの和風とも洋風ともとれる屋敷にかまえられた門をくぐる。
「お帰りなさいませ、アラン様。あら、そちらの方は?」
紗由がはっきりと目を覚ましたのは、屋敷の玄関に入った時だった。
割烹着を着た老女が出迎えにやってきて、きょとんとした顔でこちらを見つめる。
「ただいま、しず子。俺の知り合いだ。篠田紗由さんという。彼女にも夕食を用意してやってほしい」
アランが靴を脱ぎながら答える。
「そうですか。私はてっきり……いえ、すぐにご用意いたしますね」
しず子はにこりと柔和な笑みを浮かべた。
「篠田……です。夜分に申し訳ありません」
紗由は頭を下げて草履を脱ぐと、アランが待っている方へ歩き出す。
日本家屋のような造りをしているが、壁には見たことのない絵画が飾られていたり、高い天井であったり、篠田家とは大違いだ。艶やかに磨かれた床板を進んでいくと、扉の前に絨毯が敷いてある。金色の取っ手を捻ると、扉が開いた。
アランが部屋の灯りをつけると、そこには大きな机と大人三人くらいが余裕で腰かけられる柔らかそうな長椅子が対面で置かれている。
「好きな所に座ってください」
アランはそう言って紗由の荷物を椅子に置くと部屋を出ていった。
(広い部屋……)
帝都では西欧の文化を取り入れた家屋の建築が進んでいるらしい。紗由の生家は先祖から受け継いだ古い家で増改築などしないままだったので、こういう家に入るのは初めてだった。
長椅子に腰かけしばらくしてから、彼が水を張った大きな陶器と木製の薬箱を持ってくる。
アランは隣に腰かけるとその水で手拭いを絞り、頬に当ててくれた。
「痛みますか?」
「う……少し」
ここまで夢中でやってきたが、触れられるとずきりと痛みが走る。
「赤くなって少し膨れていますが、出血はないようです。腫れ止めの膏薬を塗りますね」
アランの少し冷たい指先が優しく頬を撫でた。
(先生の手、大きい……)
正確にはただ薬をつけているだけなのに、触れられていると思うと胸の奥が勝手にコトコトと
――澄んだ青い瞳が、まるで奥深くまで吸い込まれそうなほど綺麗だわ。
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