第4話 濡れ衣を着せられて

「ただいま戻りました」

 紗由が底知れぬ寂しさを胸に抱えながら帰宅すると、女中の一人が急ぎ足で玄関までやってきた。


「紗由さん。旦那様が床の間で待っているわよ」

 ひそめた声で言った彼女の表情は重苦しい。それだけで、いい話でないことがわかる。


「すぐに行きます」

 紗由は草履を脱ぐと、着物の裾を摘まんで足早に床の間に向かった。


 古い木製の廊下を歩くたびに、木の床がきしむ音が響く。日が暮れ、外は陰りを見せ始め、余計に気分が嫌な方へ引き寄せられた。


「ただいま戻りました、紗由です」


「入れ」

 叔父の吉次郎の声はどこか刺々しかった。


 静かに障子を開けると、そこには吉次郎だけではなく富子と千代子までもが顔をそろえていて、紗由は驚いて目を見開く。


「お前はとんでもないことをしてくれたな!」

 入室するなり、頭ごなしに怒鳴られて、とっさに額を畳に擦りつける。


「も、申し訳ありません」

 千代子に許可を取ったとはいえ、急に外出したことを非難されているのだと思い謝罪の言葉が口をついて出る。それがいけなかったのだと気づくのは、これから後のこと。


「いったい、あの壺にどれだけの値打ちがあったと思っているんだ!」

 吉次郎の怒号に、再び頭を下げようとするが、これ以上は無理だ。畳に押し付けた前髪が、ざり、と音を立てる。


「……つ、ぼ?」

 目を閉じていた紗由は、おそるおそる目を開け、声を震わせる。


「床の間に飾ってあった壺を掃除中に割っただろう」

 彼に言われて、ハッと顔を上げる。


 紗由がこの家に来た時にはすでにあった深い藍色の壺が、ばっくりと割れ、畳の上に転がっていた。破片が散らばっているが、それを片付けた様子はない。おそらく紗由が帰ってくるまで、そのままにしておいたのだろう。


「それは、私では……ありません」

 紗由は大きく首を横に振った。


「だが、さっき申し訳ないと認めただろうが。おまけに千代子に金をせびるなど卑しい娘だ!」


 そう言われて千代子の方を見ると、従姉は怯えるように富子の背中に顔を隠す。


「それは、千代子さんが……」


「さっきから言い訳ばかりで見苦しい。証拠もあるのだぞ。壺のそばにこれが落ちていた」

 吉次郎が畳の上に置いたのは、今日一日ずっと探し求めていた髪留めだった。


「どうして、これがここに――⁉」

 いったいどういうことなのだろう。昼間この部屋に掃除に入ったのは本当だ。だが、髪留めなど落ちていなかったし、もちろん壺を割ってもいない。


「やはり、これは紗由のもので間違いないらしいぞ、千代子」


「ええ、お父さん。何かが割れる音がしてこちらに来てみたら紗由が慌てた様子でお金を貸してくれと無理やり迫ってきて、渡すとどこかへ行ってしまったの」

 千代子は着物の袖で目元を拭う。いや、拭うべきものがそこにはないように見えたが。


「そんなことしていません! 他の人も見ていたはずです」


「私が嘘をついているというの? 酷いわ」

 母親にしがみつき、彼女は肩を震わせる。


 みんな知っているはずだ。けれど、篠田の者に逆らえば仕事を失いかねない。

 本当のことを言えるはずがない――。


 紗由は何か言わなければと思ったが、何を言えばいいのかわからなくなった。


「ねえ。その本は何?」

 富子が目ざとく指さしてきた先は紗由の手元――アランにもらった本があった。


「これは……いただき物で……」


「本当は盗んできたんじゃないの?」

 恐ろしいほど眉がぎゅっと吊り上がり、それを見た紗由は肩をすぼめる。


「ち、違います。これはある人に買ってもらったもので、やましいことはありません」

 アランの名前を出せば迷惑がかかるかもしれないと思い、そう言い切った。


「嘘をついた上に盗みを働くとは……」

 吉次郎が深いため息をつく。


「この家から出ていけ! この恥知らずが!」

 爆発したように怒鳴った叔父は髪留めを紗由の顔に投げつけてきた。頬に痛みが走ったが、彼女は畳に転がったそれを今度こそなくすまいと必死に掴む。


「私、嘘もついていませんし、盗みも――」


「もう顔も見たくない。今すぐ荷物をまとめて出ていけ!」


「でも、ここを追い出されたら、行く所が……っ」


「居座るつもりなら警察を呼ぶぞ」

 そこまで言われてしまったら、おとなしく従うほかない。


「……っ、今まで、お世話になりました……」

 紗由は諦めて深く頭を下げると、暗い自室に戻り、風呂敷を広げると着替えや身の回りの物を包んだ。もともと新しく買ってもらったものはなく、背負えるくらいの包みにしかならない。


(どうして……)

 なくなったと思っていた髪留めがあそこにあった理由は、一つしか思いつかない。嘘をついているのは――千代子の方だ。


(もう……笑えないよ、お母さん)

 ぎゅっと風呂敷を包んだ手の甲にぽたりと大粒の涙が落ちる。


「あら。まだいたの? ここ物置にしたいから早く出て行ってよ」

 座り込んでいると、廊下から長い影が伸びてきた。


 顔を上げると、千代子が立っている。


「きったない顔。いいざまだわ」


「……どう、して……、私、千代子姉さんに何も悪いことなんか……」

 涙が流れるままに、鼻をすすりながら問いかけると、従姉はすっと目を細めた。


「いつも『私、不幸だけど頑張ってます』って笑っているところが気に入らないのよ! 悲劇の主人公ぶって、気持ち悪いったらありゃしない」

 千代子の声には軽蔑の色が滲み、言葉の一つ一つが冷え切っている。


 そんなつもりは毛頭もないのに。


「でも、最後にあんたのみっともない泣き顔が見れて清々したわ。ほら、さっさと出て行ってちょうだい!」

 千代子は掌で柱をバンと叩いた。


 その音にびくりと肩を震わせて、紗由は大急ぎで立ち上がると、逃げるように篠田家を飛び出した。


「紗由さん!」

 ほとんど夕闇に覆われた空の下、大きな植木の陰から女中の一人が声をかけてきた。


「ごめんなさい。本当のことを言ってあげられなくて」

 彼女は悔しそうに唇を噛み、涙ぐんでいる。


「しかた、ないです……」

 紗由は弱々しく首を振った。


「少しばかりだけど、みんなで集めたの。全然足りないだろうけど、受け取って」

 小さな布の袋を受け取ると、じゃらと金属が擦れる音がする。とても軽かったけれど、一文無しの紗由にとってはとてもありがたかった。


「旦那様に見つかるといけないから、これで。達者でね」


「はい、ありがとうございました……」

 女中が勝手口の方へ走っていくのを見て、紗由もとぼとぼと歩き出した。


 涼しい風が濡れた頬を撫でていく。

 見上げれば、雲一つない群青色の空が広がっていた。


「帝都に行けば……どこか、一晩だけでも休める所があるかもしれないわ」

 風呂敷包みを背負い直し、紗由は電車に乗ることにする。



 そうして帝都に着く頃には、とっぷりと日が暮れ、夜の街は独特の雰囲気を醸し出していた。


 街灯が疎らに灯り、古い木造の家々が並ぶ中に、近代的な石造りの建物が混ざり合っている。舗装されていない道路には、夜の霧が漂い、遠くの屋台から聞こえる音楽や笑い声が夜の静寂に混じっていた。


「どこへ行こう……」

 夜の街を当てもなく歩き続け、暗がりの中で不安が増していく。


 当てもなく歩き続けていると、突然、前方から足のおぼつかない男たちが数人こちらに歩いてくるのが見えた。避けてやり過ごそうと思ったら、進路をふさがれ、彼女は立ち止まる。


「お嬢ちゃん。その荷物持ってやろうか?」

「こんな夜に一人で歩いてちゃ、危ないぜ」

「俺たちと一緒に行こうか」

 呂律の回らない大きな声で呼びかけられ、男の一人に肩を掴まれる。


「嫌っ、離してください!」

 必死にその手を振りほどこうとしたら、風呂敷を掴まれ、彼女はふらついた。


「助けて!」

 周囲に手を伸ばすが、人々は知らんふり。


 その光景に紗由は茫然とした。

 帝都の人は、皆親切な者ばかりだと思っていたが、そうではないらしい。


「ほら、行こうぜ。酒でも飲めば楽しくなるぞ」


「本当にやめてくださいっ。私、行きたくありません」

 懸命に首を横に振るが、脚が震えて力が入らなくなり、半ば男たちに引きずられるように路地に連れ込まれそうになる。


「何をしている! その女性を離せ!」

 その時、鋭く冷たい声が夜陰を切り裂くように響いた。


 紗由はハッとして後ろを振り返る。


 街灯でよく顔は見えなかったけれど、昼間耳にしたばかりの声を忘れるわけがなかった。


 そこには背の高い漆黒の影がまっすぐに立っている。


「アラン先生――」

 不安でいっぱいだった胸に安堵が押し寄せ、涙が堰を切って溢れた。


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