第3話 夢は儚く
「ない……」
紗由が母の髪留めを失くしたことに気づいたのは、朝の仕事が一通り終わって部屋に戻ってからだった。
昨日は全身ずぶ濡れで帰ってきて、
(私の記憶違いかもしれない……)
焦りながら抽斗を閉じ、昨日使っていた巾着を探るが、こちらにもない。だが、よく見ると縫い目の一部がほつれて穴が開いていた。
「やだ……もしかして、ここから落ちたの?」
病院ではずしたのは確かだから、帰り道で落としたのだろう。特に書店に寄った後は走って駅まで向かったから。
「どうしよう……」
誰かに拾われたら? もう戻ってこないかもしれない。
探しに行くには外出の許可が必要だが、叔父と叔母はすでに出かけてしまっていた。残るは――。
「千代子姉さん。これから帝都に行ってきてもいいですか? 落とし物をしてしまって」
紗由は茶の間にいた千代子の下を訪れ、頭を下げた。
「間抜けねえ。どうせ大したものじゃないんでしょ」
千代子は興味がなさそうに湯呑を傾けて口につける。
「母の形見なんです。どうしても今日探しに行きたくて……お願いします」
畳すれすれに額をつけ、従姉の返事を待つ。
「それなら……」
千代子が口を開いた。
許可をもらえるのだと思い、さっと身を起こした紗由の顔面に熱いものがかかる。反射的に閉じてしまった目をゆっくりと開けると、千代子が空の湯呑を持って嘲笑を浮かべていた。
ぽたぽたと前髪から雫が落ち、紗由は唇を引き結んだ。まだ淹れたての茶でなくてよかった、そう思うしかない。
「家の掃除を全部あんた一人で終わらせたら行ってもいいわ。ほら、早くしないと染みになるじゃない」
濡れた畳を指さし、千代子は眉を吊り上げる。その表情は母親の富子そっくりだ。
「はい。すぐにやります!」
掃除は他の女中と協力すれば早く終わるが、それをすべて一人でとなるとどれくらいかかるかわからない。それでも帝都へ行く一心で紗由は集中して掃除に取り掛かった。
茶の間に始まり、叔父と叔母の部屋、廊下、厠、風呂の掃除、窓拭きをすべて終わらせると、すでに
「ふん、つまんない」
どこも手抜きなく綺麗になっているのを見た千代子は、唇を尖らせ、紗由に向かって
「あ……ありがとうございます!」
紗由は畳の上に散らばった小銭を拾い集めると急いで家を飛び出す。
(どうか、見つかりますように)
駅までの道すがら、目を皿のようにして探すが畦道には落ちていない。
電車の中で心は急かされながらも、髪留めを見つけることを祈っていた。
帝都に着くなり、紗由は駅から懸命に足元を見て歩いたが、どこにもなかった。それに昨日とは打って変わって晴天のせいか、町には人の姿が多く、ゆっくりと探すのが難しい。
「どこにもないわ」
とうとう青海堂書店まで来てしまった。
「すみません……」
店の中で落としたかもしれないと中に入り、勇気を出して
「おや。昨日のお嬢さんだね?」
手元の新聞から顔を上げた店主は、かけていた丸眼鏡をはずして目を細めた。
「え……っと、はい」
見られていたのか。商品を買いもせずに眺めていただけなんて、ありがたくない客だろう。
「昨日、あなたのために取り置きしていた本があるよ」
店主がそう言いながら、奥の棚から一冊の本を持ってきた。
「昨日見ていた女性に渡してほしいって、アラン先生から頼まれてね」
店主はにこっと人当たりの良い笑みを浮かべ、本を差し出してくる。それは紗由が惹かれた『月と星夜のものがたり』だった。
「あ、でも……今は持ち合わせがなくて……」
「代金は先生からいただいてるよ。読んだら感想を聞かせてくれ。読書好きの娘さんとは感心だ。おっと、それと傘もあったね」
店主が昨日忘れていった傘と共に本を渡してきたので、彼女はそれを受け取らざるを得なかった。
狐につままれた気分で店を出た紗由は、改めて本の表紙に目を落とす。
深い
「どういうこと?」
いくらなんでもこれをもらう理由がわからない。彼女は急いで桐野総合病院へ向かうことにした。念のため、髪留めが落ちていないかも確認したが、どこにも見つからなかった。
「アラン先生にお会いしたいのですが」
受付に声をかけると、もうすぐ午前の診察が終わると言われ、中庭の腰掛けで待つといいと言われた。
前庭よりもこじんまりとしているが、小さな
色とりどりの
きちんとした
――白衣の医聖。
昨日待合室で噂されていた通りの仕事着姿に、紗由の左胸がことんと音を立てて跳ねる。
「こんにちは……昨日の」
彼が言い淀む様子に、彼女はハッとして立ち上がる。
「あ! 私、は……紗由です。篠田、紗由といいます」
アランは昨日会った時に名乗ったというのに、自分は何も言わずに立ち去るなど、なんと失礼な振る舞いをしてしまったのだろう。
「こんにちは、篠田さん」
アランは夏空のように爽やかに笑んだ。
「はい。昨日は名前も言わずに大変失礼しました」
微かに桜色に染めた頬を隠すように、急いで頭を下げる。
「そ、それに、この本……」
「ああ。書店に寄ったのですね。よかった。本が好きだと言っていたからきっとまたいらっしゃるだろうと思って、店主に預かってもらったのですよ」
「でもっ、私、いただくわけには――」
紗由は顔を上げ、本を返そうとしたが、彼に手で制された。
「これは昨日いきなり声をかけて驚かせてしまったお詫びですから、受け取ってください」
「そんなことで……」
なおも戸惑う紗由に、アランは困ったように眉尻を下げる。
「わざわざ、これを返すためにこちらへいらしたのですか?」
「あ、その……本当は、母の形見の髪留めを探していて……」
紗由は、昨日髪留めをどこかに落としてしまったかもしれないのだと話した。そして見つからなかったことも。
「駅か交番に届いているかもしれませんよ。一緒に行きましょうか?」
「い、いえっ、結構です。アラン先生のお手間を取らせるわけにはいきませんから」
紗由は、あわあわと首を横に振った。
するとアランがふわりと柔らかく微笑んだ、とても寂しそうに――。
「……私も両親を亡くしています」
「えっ」
彼の言葉に紗由はハッとする。
「でも心の中には、両親の愛がずっと残っています。それは大切な形見代わりです」
アランは自分の胸にそっと手を当て、目を伏せる。髪の色と同じ金の睫毛が目元に濃い影を落とす。
「先生……」
紗由は、彼が桐野院長の留学時代に引き取られたという昨日の話を思い出した。
「なんの励ましにもなりませんが、その本を読んで少しでも悲しい気持ちが紛れることを願っています」
なんて優しい人なのだろうと、紗由は胸が熱くなるのを覚える。
「ありがとうございます。なくなったものは仕方ないと思うことにします。いつか必ずこの本の代金はお支払いしますから。休憩時間にお邪魔してしまい、申し訳ありませんでした」
彼女はぺこりと頭を下げた。
「また何か用事があったら、こちらにもお寄りください」
アランの笑顔を脳裏に焼きつけながら、紗由は家路を急いだ。
帰りの電車の中で本の
「どうしよう、せっかくのお話が……」
まったく読めないというわけではないが、理解できない言葉も多い。題名に惹かれて選んだが、中身を確認すればよかった。
(こんな私が本を書いてみたいなんて……笑えるわね)
本を閉じ、彼女は虚しさでいっぱいになる。
せめて女学校に一年でも通わせてもらえていたら――そんな考えが、胸を締めつけた。
じわ、と視界が滲み、自分の手の甲をつねる。そうすると痛みで涙が引っ込むのだ。
「つらくても、笑って……」
そう呟きながらも、顔はくしゃりと歪み、笑みが作れない。
帝都に来たからだと彼女は思う。
長い間忘れていた優しさや気遣いが溢れる世界に、触れてしまったから――。
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