第2話 碧眼の青年

 電車に揺られること三十分。駅舎を出ると、けむるようにほのかに色を薄めた街並みが目に映った。


 帝都の中心部へは過去に両親と来たことがあったはずだが、こうしてみるとなんだか知らない場所のようだ。


「それもそうよね。あれから七年も経っているんだもの……」

 紗由は小さなため息をつき、念のため駅員に道を尋ねてから、雨の中を歩き出す。


 歩道は綺麗に舗装されていて歩きやすかったが、大きな水たまりがいくつもできていた。すでに草履はぐっしょりと濡れていて足が冷たい。


 洋風建築の煉瓦レンガ造りの立派な建物が見えてくる頃には、髪も着物も洗濯した後のようにずっしりと雨水を含んでいた。


 建物を見上げると三階建てであることがわかる。外壁は優しい黄白色で、窓には美しく弧を描いた飾りが施されている。屋根は黒い瓦が使われているようだ。


 門柱に「桐野総合病院」と掲げられているのを確認して敷地に入り、綺麗な石畳を歩きながら手入れの行き届いた綺麗な庭を眺める。


(庭だけで篠田家の家がすっぽりと入ってしまいそう)

 それくらい広い前庭だった。


 中に入り、受付で家族の薬が欲しいと伝えると、待合室で待つように言われる。

 

 重い雨音が窓を打つ様子を横目に木製の長椅子に腰かけると、やっと一心地つけた。


「まあ、お嬢さん。なんて格好なの!」

 前の椅子に腰かけていた中年の女性が振り返り、こちらを見て目を丸くする。


 紗由はびくりと肩を震わせた。


 ――嫌だわ、そんなみっともない格好で。

 出がけに投げられた従姉の声が頭の中で響き、紗由は唇を噛んで俯く。


 帝都の住人からしてみれば、笑ってしまうようなみすぼらしい姿だろう。


「これを使いなさいな。病院に来たのに具合が悪くなったら大変よ」

 紗由の予想に反して、その女性は手巾ハンカチを差し出してきた。


「あら、それだけじゃ足りないんじゃない? 私のも使って」

 別の女性が立ちあがってそばに来ると、椿つばき柄の手巾で紗由の濡れた髪を拭いてくれる。


「あ、あの、その……すみません」

 思わぬ親切に、紗由の目の奥が熱くなる。女性たちが母の年齢に近かったせいもあるだろうか。誰かに世話をしてもらえるという経験が久しく、胸がぎゅっと切なくなった。


「素敵な髪飾りが落ちそうよ」

 女性にそう言われて紗由はハッと頭に手をやる。硬く触れるそれはたしかにもう髪から抜けそうになっていた。


「ありがとうございます」

 紗由はそれをそっとはずす。


 掌に載せた小さな髪留めはセルロイド製で、小粒の真珠と繊細な桜の彫刻が施されている。生前母が愛用していた大切なものだ。着物はみすぼらしくても、せめて帝都に行くならと身に着けてきたのだ。


 落とさないように巾着に慎重にしまう。


「それにしても、こんな雨の中よく来たわねぇ。ま、風邪をひいてもアラン先生がパパっと治してくれるわよ」

 女性は紗由を見つめながら、あははと笑った。


「あらん……先生?」

 聞き慣れない異国の響きに紗由は首を傾げた。


 すると、別の年配の患者が笑いながら口を挟んでくる。


「あぁ、若先生のことを知らないのかい? なんでも院長先生が二十年くらい前に英国イギリスに留学に行っていた時に引き取ったそうよ。お世話になった方が亡くなって、そのお子さんだとか。後見人になって、息子同然に育てたらしいわ。金色の髪に青い目でね、お人形さんみたいなんだよ。帝都では評判の先生」


 どんな人なんだろうと、紗由は興味が湧いてきた。


「そうそう、優しくて腕がいいのよ。あの英国人の先生は、本当にみんなに親切でね」

 別の患者も加わり、紗由に誇らしげに説明を始める。


 紗由は少し驚いた。帝都でも外国人が珍しいこの時代に、しかも医者となると、ますます興味が湧いた。


「帝都では若先生に診てもらうために来る人もいるくらい。白衣の貴公子とか、碧眼の医聖なんて呼ぶ人もいるよ」

 中年女性は、まるで自分の家族を誇るかのように語る。


「二十七歳でまだ独り身だけど、そろそろいいところのお嬢さんをもらうんじゃないかって噂だよ」


「なんたって将来は院長先生の跡を継ぐかもしれないって言われているし、すごいよ」


「でも、今日は休みみたいだ。会えなくて残念だったね」

 いくつになっても、女性は三人寄ればかしましいとはよく言ったものだ。


「い、いえ。手巾、ありがとうございました」

 礼を言うと、女性たちは自分たちの診察を終えて、薬ともらって次々と帰っていった。


 彼女も祖母の薬を受け取って病院を後にする。


 依然として雨風の強い湿った街並みを歩き、駅を目指していると一つの建物が目に入った。来る時は病院を探すのに夢中で通り過ぎた所だった。


 硝子の向こうに温かい裸電球の灯りが見え、大きな本棚が整然と並んでいる。雨に濡れた古い看板には「青海堂書店」と書かれていた。


「本屋さん……」

 小さい頃、母が絵本を買ってくれたことがある。かわいい絵と、楽しい話は毎日読み聞かせてもらっても飽きないほどだった。


 あまりにも紗由が喜ぶので、何冊か買い足してもらったことがある。篠田家に来ることになってすべて置いてきてしまったけれど、あれはきっと親戚に捨てられてしまっただろう。生家はすでに売りに出されて知らない人の手に渡ったと聞いている。


 紗由は傘を閉じて、引き寄せられるように中に入った。


 もしかしたら、同じ本があるかもしれない。今は買えるだけの所持金がないけれど、あるかどうか確かめるだけでも――。


 書店の中は、紙とインクの匂いが漂っていた。


 店内を見渡し、いくつかの本棚をゆっくりと歩き回ると、ふと背の高い棚に目が行く。


 そこには『月と星夜のものがたり』と書かれた本があった。


 おもしろそうだと手を伸ばすが、つま先立ちになっても届かない。


「あ……」

 諦めようかと彼女がため息をついたその瞬間、すっと後ろから伸びてきた手が、軽々とその本を取り下ろした。


「こちらですか?」

 柔らかい声が頭上から静かに耳に届き、紗由は驚いて後ろを振り仰ぐ。


 ――舶来人形ビスクドール

 紗由は、そこに立っていた背の高い青年を見て、息を呑んだ。


 輝くような金の髪がしっとりと光を反射し、白磁のように透き通った肌はなめらかだ。夏の空のような碧眼がまっすぐにこちらを見つめている。その目の奥には、穏やかさと知性が宿っているように感じられた。


 上質なウール地のシングルブレストのスーツを着こなし、襟元にはシルクのネクタイをきっちりと結んでいる。


「あ、あの……っ」

 異国の言葉など知らない。何と言ったらいいのかおろおろしていると、彼がくすっと笑った。


「この本が欲しかったのでしょう?」

 流暢な日本語で話しかけられ、紗由はさきほども普通に声をかけられたことに気づき、ハッと顔を赤くする。


「ありがとうございます。もしかして……アラン先生、ですか?」

 紗由は驚きつつも、そう尋ねてみる。


「私のことをご存じとは光栄ですね」

 彼は軽く微笑みながら、手にしていた本を紗由に渡した。


 やはり、と彼女は思った。病院の待合室で聞いた噂話とあまりにも雰囲気が似ていたから。


 整った顔立ちはどこか優雅さが漂い、日本ではあまり見かけない風貌に少し圧倒されるけれど、それよりも柔らかな物腰に好感が持てる。


(みんなが自慢したくなるのがわかるわ)

 紗由は碧眼の青年医師から目が離せなかった。


「病院で、少しお話を聞きました。皆さんが先生のことをとても誉めていて……」

 少し戸惑いながらも、彼の存在がどれだけ尊敬されているかを伝えた。


「恐縮です」

 アランは淡々と答えながらも、その目には何か温かいものが感じられる。


「おもしろそうなお話ですね」

 紗由が手にしている本の表紙を見たアランが目を細めた。


「ですよね! 私、小さい頃に母によく本を読んでもらっていて、でも、その母はもういないんですけど……いつか自分でもこういうお話を書いてみたいって思っていて――」

 共感してもらえたことが嬉しくてつい、ぺらぺらとしゃべってしまってから紗由は慌てて口をつぐむ。


(初対面の人に何を話しているのかしら。きっと呆れられてしまうわ)

 気まずくなって、下を向くとアランが履いている艶やかに磨かれた革靴が目に入った。


「素敵な夢ですね」

 穏やかな声が耳に心地よく滑り込んできて、紗由の胸が温かく跳ねた。


 まるでそれを応援してくれるかのような優しい響きに、頬が熱くなる。


「すみません、こんなこと……誰かに話したのは初めてで――」

 否定されないということが、これほど嬉しい出来事とは思わなかった。だが、その時突然彼女のお腹がぐうと大きな音を立てた。


 そういえば朝から何も口にしていない。髪の毛先からぽたりと雫が床に落ちて、彼女は急に現実に引き戻された。


 一つにくくっただけの真っ黒な髪は情けないくらいに濡れ、つぎはぎだらけの着物はただでさえ擦り切れているのにずっしりと濡れて重くなり、裾には泥も跳ねている。


 自分が酷くこの場にふさわしくない存在に思えてきて、紗由は持っていた本を彼に突き出した。


「すみません、これ戻しておいてください。それじゃ」

 こんな薄汚れた格好を彼の瞳に映されたくなくて、紗由は大急ぎで書店を飛び出した。走りながら傘を忘れたことに気づいたが、引き返す気にはなれなかった。


「私……どうして、こんな……」


 恥ずかしくて消えてしまいたいと思ったのは、生まれて初めてのことだった――。


 

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