帝都紅婚姻譚~ひとりぼっちの私が彼の最愛になるまで~

宮永レン

第一章 幽玄の夜、運命の交錯

第1話 ひとりぼっちの乙女

 昨日までの暑さが嘘のようで、急に秋を感じられるようになった涼しい朝だった。


 ただし明け方から降り続いている大雨のせいで、少しでも動くとじっとりと汗が滲んでくる。


 時折、硝子ガラス窓に激しく打ちつける雨粒の音を聞きながら、紗由さゆは狭い台所の洗い場で朝餉あさげの片づけをしていた。洗っているのは自分が使った食器ではない。


「あと少しね。これが終わったら私もご飯を食べよう」

 ほつれた前髪を耳にかけた指先は、冷たい水にさらされて赤くなっている。


「紗由! あんた、まだ皿を洗っているの?」


 突然、後ろから叱責が飛んできて、彼女は危うく手にしていた食器を取り落としそうになってしまった。


「申し訳ありません、叔母おば様。もうすぐ終わるところです。何か御用でしょうか?」

 紗由は、つぎはぎだらけの古いお仕着せに巻いた前掛けで慌てて手を拭くと、振り向いて頭を下げる。


「本当に愚図ぐずね、あんたは」

 紗由の叔母――富子とみこみにくいものでも見るように眉をひそめた。つややかな髪をまとめ、細かい模様のある濃い紫の着物は、紗由のものとは違って一目で上質なものとわかる。


「申し訳ありません」

 紗由はもう一度、流れるように頭を下げた。一つにくくった長い黒髪が肩の辺りからすべり落ちる。


 早く終わらせれば雑だと言われ、丁寧に磨けば鈍いと言われる――虚しいことに、そんな毎日にはもう慣れた。


 七年前に両親が事故で亡くなり、母の妹である富子の家に引き取られてから、ずっと女中として扱われている。叔母曰く『もっと養育費をもらえると思っていたのに、当てが外れたわ』だそう。それ以来、十八歳になった今でも紗由はこの篠田家しのだけから出たことがなかった。


「これから桐野きりの総合病院へ行って、薬をもらってきてちょうだい。おばあさまの薬がなくなりそうなの」


 祖母は叔父の実母で、しばらく前に腰を悪くしてからほとんどせっている。ぼんやりすることも多くなり、紗由のことを見ても他の女中と間違えることもしばしばだ。


「わかりました」

 拒否することは許されない。紗由は答え、外の激しい雨を見ながらこっそりとため息をついた。


(何もこんな日に頼まなくても……)

 こんな日だからこそ、紗由に言ってきたのだろう。いつもなら他の使用人に頼むはずだ。


「それが終わったら、すぐ行きなさい。代金はここに置くわ。一銭でもくすねたらただじゃおかないから」

 富子はきつい目元をさらにつり上げて、お金を置くとさっさといなくなってしまった。


「朝ご飯……」

 呟いてはみたものの、そんな時間はなさそうだ。


 気を取り直して洗い物を終え、他の女中に帝都までの道を尋ねてから自分の部屋に戻った紗由は、出かける支度をする。


 擦り切れたみすぼらしい着物に着替え、ひび割れた小さな手鏡を覗き込んだ。


 くすんだ肌は不健康そうで、無理やり口角を上げてもまったく華やかさはない。大きな目は痩せているので余計に目立つ。


『つらくても、笑っていればいいことがやってくるわ』

 生前、母が教えてくれた言葉の通りに、紗由はどんなにつらい仕打ちを受けても人前で涙を見せることはなかった。だが、いいことがやってきたことはない。


 それでも、諦めたら母を否定してしまうような気がして、紗由は黙って耐え続けてきた。


「久しぶりに帝都へ行けるんだもの。雨なんてどうってことないわ」

 今度はにっこりと自然な笑みがこぼれる。


 両親が生きていた頃、紗由が十一歳の時までは帝都に住んでいた。父が銀行の支店長をしていて、来年は女学校に入れてもらえると楽しみにしていた矢先に、彼女の人生は大きく変わってしまったのだ。帝都へ行くのはそれ以来、七年ぶりということになる。


 支度――というほど時間のかかるものではなかったが、それを終えた紗由は玄関に向かった。


 古びた傘を手に出かけようとしていると、背後から甲高い笑い声が響く。


「帝都にお使いに行くんですって? 嫌だわ、そんなみっともない格好で」

 現れたのは従姉いとこ千代子ちよこだ。紗由よりも二つ年上の彼女は、今年女学校を卒業する予定だ。本当なら紗由が行くはずだった女学校への資金は、すべて千代子にてられている。


 千代子は胸に垂らしたおさげ髪の片方を背中に手で跳ねながら、意地の悪い笑みを浮かべた。鮮やかな山吹色の着物は今までに見たことがないものだ。また新しく仕立ててもらったらしい。


 叔母は養育費が少ないと言っていたが、そのほとんどが彼女たちのぜいに変わっているのだ。けれど意見すれば紗由はこの家から追い出されてしまい、路頭に迷うことになる。


 叔父がどこかから縁談をもらってくるまでの辛抱だと自分に言い聞かせ、紗由はきゅっと唇を噛んだ。


「恥ずかしいから篠田家の人間だなんて言わないでよ。あんたはただの女中なんだから」

 千代子は耳障りな声で冷たく笑う。


 意地悪なことを言われたり、嫌がらせをされたりすることに慣れてはいるが、まったく傷つかないわけではない。逆らわないのは、その傷をそれ以上拡げないようにするための苦肉の策に過ぎない。


「……いってまいります」

 従姉の言葉に耐えながら、さっと傘を持ち直し、逃げるように外へ出た。


 途端に、バラバラと強い雨粒が傘を叩く音に包まれる。


 紗由は雨の中を急ぎ足で歩きながら、女中に教えてもらった通りに駅に向かった。


 畦道あぜみちの左右には収穫を間近に控えた稲穂が黄金色こがねいろに輝くも、雨粒が容赦ようしゃなく叩きつけている。遠くの山々は薄い霧に包まれ、ぼんやりとした輪郭りんかくしか見えなかった。


 着物の端からどんどんと容赦なく濡れていく。それでも周囲のしっとりとした緑の香りを胸に吸い込みながら、紗由は数年ぶりの外出にかすかに心をおどらせていた。


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