第23話

 翌朝。即ち、婚礼の儀まで残り一日。

 どこに行っても完全にその空気で、それ以外考えられていない。


 しんように至っては、自分が太守たいしゅの正室になることを鼻にかけて、威張いばり散らしている。

 いつ見ても嫌い。うん、嫌い!


「わたくしのように高貴なお人の前ではひざまずくのがじょでしょ?」


 違うだろ、というツッコミはさておき、秦芙蓉の横を通り過ぎようとしたとき。

 彼女のかたわらを歩いていた女官にょかんと、視線がかち合った。


「………」


 気まずいが、変にからまれるよりはマシだろう。

 無視し──。


「まさか芙蓉様の地位を奪おうなんて、思ってないわよね?」


 ……しかけたけど向こうから絡まれた。

 思い出した。この女官の名前……確か、こううんだ。前、わたしきょうにんどうを食べようとした、あの女官。


「! りくぎょくらんったら、まさか……!?」


 しまった、こればかりは否定がきかない。

 私が秦芙蓉の地位を奪おうとしているのは事実だ。

 もちろんそれが広まれば、私がここで悪女になるのに時間はかからない。


「わたくしの野望が叶う日は明日です。あなた様に何の抵抗ができますの? このみにくい下女どもが!」


 途端に血相けっそうを変えて私をにらむ秦芙蓉。

 私も精一杯睨み返すがかなうはずもなく、高夏雲の隣の女官にスネを蹴られた。


「まずは、自分の格を再確認することからです。本当貧相で見すぼらしくて、生きていることが奇跡のようですね」


 あざ笑いと、丁寧な罵詈ばり雑言ぞうごん。聞き慣れたはずなのに、改めて聞いて胸が痛む。

 私が言い返さないことをいいことに、秦芙蓉はさらに続けた。


「醜くて汚い豚のよう! わたくしの前に現れて恥を感じないのか不思議でたまりません」


 湧き出るいきどおりを、必死に静める。


「まあ、仕方ないわね。あんな取りえのない田舎生まれの、教養のないどんむすめだもの。宝晶宮ここには似合わない」


 ……そうだよ、そんなの分かってる。

 でも、石峰せきほうきょうめいを踏みにじったことは許さない。


足掻あがいても無駄だと分からぬうちは、幸せでしたね」


 足掻いても無駄だと分かってる。確かに、希望は持っている。

 叶わぬ夢はないと、信じているから。


「可哀想に! 貧しい生まれで運命を決められる……まあ、世の中では当たり前ですから。いい勉強になったのではないでしょうかね」


 家柄で全てが決まる世界なんて……分かっていたけど、でも、でも。

 変えられるって、信じたかった。


「明日を楽しみに待ってくださいね、全て終わりますから」


 全て終わる? 何の全てが……?

 そう顔を上げると、秦芙蓉は一瞬顔をしかめた。すぐにプイッとそっぽを向き、きびすを返す。


 鼻で笑った秦芙蓉の後ろ姿を見やりながら、拳を握りしめた。手のひらに爪が食い込むが、気にせず。


 ……悔しい。

 あんなやつに、楊明ようめいさんを奪われてしまうことが。

 あんなやつが楊明さんにちょうあいされる未来を見たくなくて。嫌で。


 ぽろぽろとあふれそうになる涙をぐっとこらえて、その場を離れた。


 * * *


「どうしたのです玉蘭様!?」

「な、泣いてる……」

「大丈夫〜、玉蘭〜?」


 部屋に入るなり、一斉に話しかけられた。

 ダメ、泣き顔なんて……今さら泣くなんて、恥ずかしい。

 それに、あんなことで泣けるのは小さい子だけ。十八にもなった私が泣くなんて……。


「だ、大丈夫……」

「その顔は大丈夫じゃない顔だよ!!」


 せいちょうにバンバン背中を叩かれて、でも申し訳なくて、涙が溢れて。

 慌てて拭おうとしたとき、しょうりんななめ下から私を見つめる。


「何があったのか、話してくれる〜?」


 止まらないえつを必死に抑えながら、私は、話した。

 ひとつひとつ、丁寧に言葉をつむいで。


「さっきっ……秦芙蓉に会って……女官と一緒に罵られてっ……」

「うん」

「あんなやつが……楊明さんの正室にっ……なってほしくなくてっ……」

「うん」

「悔しくて……っ」


 ダメだ、こんなことで泣くなんて。

 私は……もう、くだらないことで泣くような年齢じゃないのに……。

 こんなんで……ダメな女だ……。


「それは、玉蘭様が、それだけ楊太守様ようたいしゅさまのことを思っているってことですよ。とられるのが怖くて嫌ってこと……ですよね」


 ポツリポツリと、蘇菲そひが話し始める。私はバッと顔を上げて、蘇菲の顔を見た。今度は、涙を拭わずに。


「我慢する必要なんか、ちっともないです。泣きたいときは、思う存分泣けばいいんです」

「蘇菲……」


 すると馬小鈴が私の頭をで始めた。そして言うのだ。


「そうだよ玉蘭〜、我慢は体に毒だよ〜?」


 花青蝶も私を抱き寄せて、言った。


「そうそう! 泣きたいときに泣かなきゃ!」


 ……みんな優しいなぁ……余計泣きたくなっちゃうよ。


 * * *


 私はしばらく泣いてから、涙を拭って顔を上げた。


 もう大丈夫、と伝えるとみんな安心したように笑った。私もつられて笑う。でもすぐに真面目な顔になって現実を見る。


「で、どうする〜?」


 花青蝶が切り出すと、蘇菲は首を横に振った。私は言った。


「もう秦芙蓉の悪行を暴くのは無理かもしれない」


 すると花青蝶も馬小鈴もうなずいた。そして言うのだ。

「うん……そうだね……」と。


 でも私はあきらめたくなかった。だから続けた。


「だけどさ……このまま何もしないなんて嫌だよ!」


 声を荒らげた後、ハッと我に返って首を横に振る。


「あ、ごめん……私、我儘わがままだったね。ごめん……大丈夫だよ」

「ううん、全然我儘じゃない。玉蘭がそう思うなら……やろうよ」


 花青蝶はそう言うと、すぐに言うのだ。


「秦芙蓉の悪行……暴くよ!」


 * * *


 しかし名案が浮かばぬまま日は暮れてしまった。

 私は部屋で一人、涙を拭う。


「秦芙蓉……!」


 あんなやつに楊明さんを渡さない。

 そう決意したはずなのに、結局何もできなかった。

 悔しくて堪らないのに、涙しか出ないなんて……!


 もういっそ泣いてしまおうか? でも明日が婚礼の儀だっていうのに、泣きらした顔で出るわけにはいかないし……。


 ああもうどうしよう! 私は頭を抱えた。


 すると突然部屋の扉が開く音がして、驚いてそちらを見る。そこには楊明ようめいさんがいた。


「楊明様……?」

「玉蘭殿? ……泣いていたのか?」

「あ、いえ……」


 慌てて涙を拭う。楊明さんはゆっくりと私に近づいてきて、隣に座った。そして言うのだ。


「玉蘭殿……婚礼の儀が明日に迫ったな」

「……はい」


 私はうつむいたまま答えた。すると楊明さんは私の頭を撫でるのだ。

 驚いて顔を上げると、そこには優しくほほむ彼がいた。思わずドキッとしてしまうほど綺麗な笑顔で微笑んでいて、胸が高鳴るのを感じた。


 しかし……彼は明日、秦芙蓉を正室に迎え入れる。もうほだされてはいけない。


「大丈夫です。……覚悟は、決まりましたから」


 引きる頬を無理に引き上げながら、私は必死に笑顔をつくろった。

 楊明さんの表情は、ぜんとして暗いまま。

 結局楊明さんは部屋を去り、そっと扉を閉めた。私は、楊明さんが去っていった扉を見つめる。


 そしてぎゅっとこぶしを握りしめた。

 明日が婚礼の儀でよかったのかもしれない。


「この、思い上がり者め……」


 思い上がり者とは、私のこと。


 たかだが少しばかり出世して、少しばかり活躍しただけで、この想いが叶うなんて、馬鹿馬鹿しい。

 少し寄り添えただけで、私が正室なんて……夢のまた夢だ。

 ……私は、秦芙蓉に負けたくない。楊明さんを奪われたくない。その一心で動いていたけれど、結局何もできなかったのだ。悔しいなぁ……。


 頬を流れる涙を拭いながら、また拳を握りしめた。

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