第5話

「ん……」


 朝の光が差し込む中、私は静かに目を開いた。隣には、小柄な蘇菲そひさんが、優しげな表情で寝息を立てている。


蘇菲そひさん……」


 彼女の様子を見守りながら、昨日の出来事を思い返す。

 今日から、きっと宮中での新しい一日が始まる。楊明さんの言葉も、まだ記憶に新しい。

 しかし、それと同時に、どことなく不穏な影が忍び寄っているのを感じずにはいられなかった。


 私は静かに体を起こし、窓辺に立つ。外の景色をながめながら、頭の中で色々なことを考えた。


 楊明さん……。

 きっと普段は職務に追われて忙しく、ゆっくり考える時間もないはずだ。

 昨日おとといは、そんな感じではなかったけれども。


 朝早くから仕事はあるだろうし……一体、いつまでお仕事をしているんだろうか。


 どうか、お身体くらい大事にしてほしい。


 うちの村も力仕事が主な産業だから、分かるけど……労働者にとって過労は、本当に危ない。

 もちろん私の周りにも、過労で亡くなった方はいらっしゃる。


 楊明さん若いんだし、今倒れたら本当に危ない……。

 私も一回、洗濯中にぶっ倒れて医者を頼ったことがある。幸いにも村には医者がいた。よかったよ本当に……。


「ふみゃあ……」


 ……?

 すっとぼけたような声が聞こえてきて、ぱっと振り向く。見れば、蘇菲そひさんが、眠い目をこすりながら半身を起こしているではないか。


「……! ぎょくりゃんしゃま、もう起きていらっちゃったのでつね!」

「いや呂律ろれつ回ってないから……」


 そういう私も、呂律という言葉を噛みそうになっているのである。

 言いづらいよ、呂律って。言いづらすぎる。


「待ってて下さい、顔洗ってきます!」

「………」


 そういって、若干フラフラしたまま、蘇菲そひさんは部屋を出て行った。

 寝起きだけど大丈夫かな……。


 ていうかあっつ……寝間着のせいかな。


 蘇菲そひさんの後ろ姿を見送ってから、暑苦しい寝間着を少し脱ごうとした、そのとき。


 すっと扉が開いて、人影が見えた。

 そこに立つのは……楊明さんの姿である。


 ──現在の状況を整理すると。

 ここは後宮の女官の自室で、私はそこで寝間着を少し脱ごうとした。少しだけ胸元の襟がゆるくなっている。

 で、扉のところに楊明さんがいる。


 ……この状況がとてもヤバいことに、誰か気づいてほしい。


 楊明さんは少し乱れた私の様子に戸惑っていたが、まるで何もなかったようにほほ笑み、


「玉蘭殿、今日からここで物の修理をしていただけますか?」


 と言う。

 楊明さんの言葉に、私は少し驚きながらも「はい、承知いたしました」と答えた。


 物の修理? なぜ私が?

 もしかして、工芸品を作れるなら直せるだろうとか……そういうこと?


 ……もしかして、ここに留まれって言われたのって、そういう理由!?


「後で女官の一人が来ると思う。玉蘭殿は彼女の案内に従い、作業所に向かってくれたまえ」

「……はい……? 分かり、ました……?」


 いや、私、宮中では右も左も分からないのですが?

 案内がいるから大丈夫だよと?

 まあ、大丈夫かな?(←超楽観視)


 * * *


愛彩様あいさいさまはとても詩歌しいかむのが上手な方で……」


 んで、楊明さんが言っていた「女官の一人」とは、どうやら蘇菲そひさんのことだったらしい。

 回廊に飾られた詩歌をながめながら、楊明さんの母親について教えてくれる。


 当然私には、詩歌について詳しくないから、何がスゴくて何がダメという評価はできない。

 けれども、見事につづられた文字を見るに、結構スゴい詩歌らしい。


 ついでに下に描いてある、草花の絵もね。


「玉蘭様、到着しました」

 蘇菲そひさんに言われて、ふと横を向く。

 え……。

「ここって……」

「故障品を保管する物置小屋です」


 ……やっぱりそうだよね。

 そういう仕事ってことは、そういうことだよね。


 どんな悪意がなくても、こうしなくちゃダメだったことが分かる。

 ホコリくさい小屋の中には、一部が欠損している道具や家具、雑貨が散乱している。


 もっと丁寧に扱わんか……。

 安物じゃないのよ、これらは……。


「ごめんなさい、楊明様も謝っていらっしゃったもので……」

「えっ……」


 なんで私が、楊明さんに謝られるんだ?

 身分差もあるのに……というか我が家、これより惨状なのに……。


「ひとまず強制労働ではありません! 休憩はいつでもしていいそうです。お昼になったら、呼びにきますから♪」


 さらっとあざとく語尾を上げた蘇菲そひさん。

 いや、いいんだけど、苦笑いしか……。


「あ、あはは……では、また……」


 ニコニコする蘇菲そひさんに手を振って、さて、と小屋の中を見渡した。

 どれから直そうか。とりあえず、至急直さねばならない物はないそうだ。


 その時、後ろから、カッカッという足音が聞こえてきた。

 回廊を歩いている。


 後ろを振り向くと、そこには、美しい衣装に身を包んだ、きつい顔の美女がいた。

 ……歳頃は私と同じくらいだろうか。


 見た目からして貴族だし、周りには女官もいるけど……みんな、顔が死んでる。

 大丈夫か? 多分護衛たちよ。


「あなたは……?」


 私は少し戸惑いながら、その女性の顔を見つめる。するとその女性は、私をにらみ付けるように近づいてきた。


「あなたが、楊明様に近づいているというのは本当なのですか?」


 女性の声には、明らかな敵意が含まれていた。私は少し戸惑いながらも、蚊の鳴くような声で返答する。


「い、いいえ、そんなことは……」


 しかし、女性は私の言葉をさえぎり、さらに攻撃的な言葉を浴びせてきた。


「嘘をつくのはやめなさい。あなたは楊明様を誘惑しようとしているのでしょう。この私が許すはずがありませんわ!!」


 私は言葉を失った。女性の激しい非難に、戸惑いを隠せない。

 この人……何を言ってるの……?

 誘惑とか、そんなこと考えたことないのに……。


「そもそも、私のことを認識していらっしゃらないなんて、非常識にも程がありますわ。この高貴たる楊明様の正室候補、秦芙蓉しんふよう様を知らないなんて」


 秦芙蓉は、私を睨みつけながら激しく言い放った。


「私は楊太守様の正室候補なのです。あなたが彼に近づいているとは、私は許すことができません!」


 私は、秦芙蓉の言葉に戸惑いを隠せない。彼女が楊明さんの正室候補だというのは、私には全く知らされていなかった。


「秦芙蓉様、私は決して楊明様に近づこうとしているわけではありません。私はただ、ここで与えられた仕事を行っているだけです」


 しかし、秦芙蓉は私の弁明を一蹴し、さらに攻撃的になる。


「嘘をつくのはやめなさい。あなたの目的は明らかです。私はあなたを許さないわ。楊明様は私のものなのですから!」


 秦芙蓉の激しい非難に押し潰されそうになる。この状況をどう収めればよいのか、途方に暮れていた。


 そのとき、回廊を、大臣が通りかかった。秦芙蓉は途端に体勢を優雅にし、丁寧に挨拶する。


「芙蓉様?」

「だ、大臣様、こんにちは。私はただ、ここの仕事を手伝わせていただいているのですが……」


 え、同一人物?

 猫被りすぎて寒気……いや、いっそ清々すがすがしい。

 この劇的な変わり様に驚かされるわ。


 大臣と優雅に会話を交わした後、秦芙蓉は私を睨み付け、冷淡な口調で言った。


「あなたのようないやしい阿婆擦あばずれが、私の楊太守様に近づくなんて、考えただけで吐き気がするわ。さっさと失せなさい」


 そう言うと秦芙蓉は、鼻を背けるように立ち去っていった。

 私は、その冷酷な態度に身震いしながら立ち尽くしていた……。


 * * *


 昼餉ひるげを平らげた後、私はまた作業を再開した。


 辺りをキョロキョロ見渡すが……秦芙蓉の姿は見られない。

 良かった、落ち着いて作業できる。


 そのとき、優雅な足取りで楊明さんが近づいてきた。

 ──ドキッ。

 ……ドキッ?


「よ……楊明様」


 私は慌てて身をひるがえし、うつむいて挨拶する。ダメ、楊明さんのこと直視できない……。


「作業の方は順調ですか、玉蘭殿ぎょくらんどの?」

「えっ!? ……ああっ、はい……」


 にこっと優雅にほほ笑まれ、またもや取り乱してしまった。

 ……すごい心臓が音を立ててるんだが、私の体、正常?


「それはよかった。……まあ、あなたの真剣な働きぶりは、伊達だてじゃないな、とは思いましたから」


 自分の頬が熱を持つのを感じる。

 原因はもちろん、楊明さんこの人の言葉だ。

 こんなにも素晴らしい方から、何度もそのような言葉をかけていただけるとは……私も幸せ者なのかもしれない。


「い、いえ……」


 私は、恥ずかしさのあまり上手く言葉が出てこなくなってしまった。

 何があったんだろう、私。

 いや……楊明さん美丈夫だから、仕方ないことなのかも……。


「初めて会ったときから、あなたは他とは違っていました」


 唐突な言葉に、ビクッと肩をすくめる。

 ……私が他とは違っている? どういうこと?


「玉蘭殿……私の隣にいませんか? それこそ、秦慶しんけい殿の息女の代わりに」

「秦慶? 息女?」

「秦慶殿の息女は秦芙蓉……私の婚約相手と言うべきでしょうか」


 ……秦芙蓉……!!

 あの憎っらしい顔が浮かんできて、思わず拳に力が入る。

 芙蓉の代わり?


 ええっと、どういうこと?


「楊明様、私……よく分からないのですが……」

 そう言うと楊明さんは、大きなため息をついた。仕方ない、というように首を振り、

「そうですか……では、私の気持ちを受け止めていただけるまで、お待ちしております」


 優しくほほ笑みながら言葉を添えた。そして、私を振り返ることなく立ち去っていく。


 私は、その背中を見つめながら、キョトンとしていた。

 一体何が起きたの……?

 楊明さんの言った言葉の意味は、何だったの……?


 そのとき、秦芙蓉が近づいてきた。

「あなた、また会ったわね。気に食わない」


 秦芙蓉は、私をにらみつけながら言い放つ。


「楊太守様は私のものなのよ。貧相なあなたが近づいているなんて……絶対に許せませんわ!!」


 秦芙蓉の激しい言葉に身震いする。しかし、この場を離れることはできない。


「秦芙蓉様……私は、ただ仕事をしているだけなのですが……」


 しかし、秦芙蓉は私の弁明を一蹴し、さらに攻撃的になる。


「嘘をつくのはやめなさい!あなたの企みは明らかよ。私は絶対に許さないわ!」


 私は、秦芙蓉の激しい非難に押し潰されそうになる。そして、ようやく気づいた。


「私……宮中の汚い人間関係に巻き込まれているのでは……?」


 その瞬間、頭を殴られたような衝撃に襲われた。


【後書き】

 お読みいただきありがとうございます。

 これにて、本編の第一章は終了です^^

 初めての中華風ファンタジー、結構最後の方で不穏な雰囲気が漂っていましたが、いかがだったでしょうか?

 かなり文字数を費やしてすみません……💦

 コンテストに向けて、毎日3,000文字の更新を目指しています。一話ずつ読めばそこまで大変じゃないかな?(は?)

 ぜひぜひ、これからも読んでもらえると、嬉しい限りです。

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