第4話

「母は亡くなる直前まで、私のそばに居てくれました。だから……その体が冷たくなっていくのを感じて」


 楊明さんの言葉がつっかえる。

 ぽとり、と彼の手の甲に、一粒のしずくが落ちた。


 泣いている……?

 目元を見ると、そこには小さな光が。

 つつーっと、頬を、一縷いちるの涙が流れていた。


 楊明さん……。



 ──ああ、そういえば。

 お父さんが死んじゃったときも、私たちはメチャンコ泣いてたっけ。


 当時はまだ、生きるも死ぬも分からなかったけど……もう会えないって思うと、寂しくて、悲しくて、苦しくて……。


 ……あ。


『天国ではお父さんはすごーく幸せにしてると思うの。だから、あなたたちが悲しむ必要はないわ。それにお父さんは、あなたたちが泣いている未来は望んでいないわ。苦しいと思うわ、悲しいと思うわ。だから今は、心の底から笑いましょう』


 ……そのとき、お母さんはそう言ったんだ。


 お母さんだって、お父さん(彼女にとっては夫)を亡くしてツラかったと思うのに……一人だけ泣いていなかった。

 そう思ったから、泣かなかったんだ。


 私たちが泣いているのを見ると、お父さんが悲しむ……。


 だから私たちは、ただ笑顔で過ごした。

 面白くなくても笑った。

 そのうち、心が楽になるんじゃないかって思って。


 現にあれ以降、お父さんの死を嘆いて泣くことはなくなったし、お墓参りのときも、真顔になった瞬間がなかった……気がする。


 私はそっと、楊明さんの手を握った。


「玉ら……」

「親を亡くしたつらさが、よく分かります。でも、あなたの母はきっと、あなたが泣いて悲しんで過ごしている未来は、望んでいなかったはずです。あなたが笑顔でいられることを切に願っていると思います」


 そう言って、私は楊明さんの瞳を優しく見つめる。


「『だから今は、心の底から笑いましょう』と、私の母も言ってくれたのです」


 私がほほ笑みかけた途端、楊明さんの表情が少しずつ和らいでいった。


「玉蘭殿……ありがとう」


 楊明さんは私の手を握り返し、そしてほほ笑みかけた。ただ、いつもの余裕の笑みじゃなくて、少し弱い感じ。


 夕闇ゆうやみが深まる中、ただ亭台の中で、秋風に吹かれていた。


 * * *


 遠くから、宮中の女官たちの声が聞こえてくる。


「あら? 楊太守ようたいしゅは?」

「さあね。間もなく夕餉ゆうげなのですが」


 宮中の夕食の時間が近づいているようだ。

 楊太守とは、隣のこの人だろう。

 ……楊明さん。


「もうそんな時間ですか……玉蘭殿、私の食事の間にお連れいたします」


 楊明さんは立ち上がり、私の手を優しく取った。

 ビクッと肩をすくめる。


「玉蘭殿?」

「あああいいいいいいいえ、何でもありません楊明様!!」


 自分でもビックリするぐらいの動揺っぷりだよ……。

 いやさぁ、顔見てみ?

 美丈夫なのよ楊明さんって。


 どんなことしたら、そんな綺麗なお顔になるのよ……。


 

 燭火しょっかに照らされた宮殿の回廊。

 柳の枝葉えだはが揺れ、優雅な女官たちが行き交う。やがて、楊明さんは私を専用の食事の間へと案内した。


「玉蘭殿、こちらがお座りいただく場所です」


 楊明さんは丁寧に言葉をかけ、私を上品な椅子に案内する。


 いや……慣れない……。

 おとといの晩ごはんでさえ、家族みんなで岩の上に座ってたのに……。


 早速、女官と思わしき女性たちが、次々と料理を運び込んできた。

 慣れなーい……。


 これは煮込み料理? え、で、蒸し物? それからこれは……? なんかドロドロした液体がかかってる? しかもなんか茶色? ん?


 え、ていうか多いような……。


「この料理は蒸しどりです。宮中の伝統的な調理法で仕上げてあります」


 楊明さんが優しく説明してくれる。


「なるほど……とても美味しそうですね。こういった料理は初めて見ます」


 新鮮な気持ちだ。料理の魅力、匂いと見た目だけで感じ取れる。

 宮中ならではの上品な料理の数々に、私は目を輝かせた。

 楊明さんは、私の反応を微笑ましそうにながめている。


 一方、


「あの女は一体誰なのよ。なぜ太守様から優遇されるのかしら?」

「見すぼらしくて目も当てられないのに」


 部屋の片隅では、料理を運び終えた女官たちが、ヒソヒソと喋っていた。

 生まれつき耳のいい私には、丸聞こえ。


 だが、それを知らない女官たちは黙らない。


「一体何をしたというのか、理解に苦しみますわ」

「そんな者が私たちの上に立つなどとは!」

「耐えられません」


 女官たちの嫌悪と憤りに満ちた視線と、私を罵倒するような言葉に、身震いするほど不快な気分になる。

 思わず、机を、バン! と叩いてしまった。


「玉蘭殿、大丈夫か?」


 楊明さんは私の肩に手を置き、気遣うように尋ねてくる。


「あ、いえ、何でもありません」


 ……やばーい。危なっ。

 高貴な人の前で暴力行為は、ダメ! というのをすっかり忘れていたようだ。

 女官たちも、慌てて部屋を去っていった。


「本当に大丈夫なのか? あの女官たちの言葉、私も聞いていたぞ」

「はい、本当に大丈夫です。気にしないで下さい」


 自分の外見を罵倒ばとうされ、嫌悪に満ちた視線を向けられることは、私にとっては珍しいことではない。

 ボロボロの見すぼらしい服装も、荒れた肌も、無造作な髪も。

 軽蔑けいべつで憤ることはあっても、傷つくことはない。


 家族への悪口は、嫌だけど。

 家族……。


「そういえば、故郷の家族は……」

「家族か?」


 やばい、みんな家に残っているのに、私だけ宝晶宮ここにいる。

 心配しているかな……。


「はい……私の家族は大変貧しい環境にあるのです。父は亡くなり、母と兄弟が待っています。心配で……」


 私は言葉をにごす。

 楊明さんは、しばらく黙って聞いていたが、やがて言葉を発した。


「玉蘭殿、ご家族のことは私から適切に取り計らせていただきます。安心して、ここで落ち着いて過ごしてください」


 楊明さんの優しい言葉に、私はほっとした。家族のことを心配しながらも、宮中での生活に少しずつ慣れていけそうだ。



「玉蘭殿、この度、新しく女官の蘇菲そひをお仕えさせていただくことになりました」


 楊明さんは優しくほほ笑みながら、私に説明して下さった。

 女官? 私が、女官に仕えられる?


蘇菲そひ、玉蘭をよろしく」


 楊明さんの言葉に従い、小柄で華奢きゃしゃ蘇菲そひが丁寧に私に挨拶した。


「はい、楊明様。玉蘭様、これからよろしくお願いします」

「……よろしくお願いします……?」


 長い黒髪をまとめていて、澄んだ瞳と幼そうな顔が可愛い女の子だった。

 背丈からするに、私より少し歳下だろうか。


 変わった話もあるものだ……。

 昨日まで宮中と無縁だったのに、もう女官がつきました……。


 ……まあ、さっきの連中とは違い、彼女からはスゴく穏やかなものを感じるけど。


蘇菲そひは、玉蘭の世話を中心によろしくお願いいたします」

「よろしくお願いします!」


 可愛い。笑顔がめちゃくちゃ可愛いんですが。

 蘇菲そひさんと仲良くやっていけそうだ。


 * * *


 とりあえず案内されたのは、入浴の準備をする部屋。

 そこには、女官たちがすでに湯を張っており、私の入浴の準備が整っていた。


「玉蘭様、お湯が温まりましたので、ゆっくりお入り下さいませ」

「ああ、はい……ありがとうございます……」


 一体なんと返事をしたらよいのか。

 というか、現実味がなさすぎる。

 え、なんで私、すでにこんなことに……?


 高貴な血は、引いていないよ?


 私は緊張しつつも、蘇菲そひさんの温かな雰囲気に導かれるように、ゆっくりと湯船に身を沈めた。

 湯の温もりに包まれ、疲れも和らいでいく。蘇菲そひさんが丁寧に私の髪を洗ってくれた。


「玉蘭様、髪の毛は綺麗になりましたよ。鏡をご覧ください」


 わっ……!

 今までは無造作だった私の髪が、蘇菲そひさんの手入れによって、見違えるほど綺麗になっていた。

 驚きと喜びが込み上げ、自分の姿に見とれてしまった。


蘇菲そひさん、ありがとうございます。こんなに綺麗になるなんて……」


 * * *


蘇菲そひさん、この寝間着、本当に素敵ですが……私にはまだ慣れないですね」


 湯船から上がり、蘇菲そひさんが用意してくれた寝間着の豪華さに、私は再び戸惑いを覚えた。

 重厚な生地に複雑な刺しゅう。

 こんな豪華な衣装を今まで着たことがあっただろうか?


「はい、玉蘭様。この寝間着は宮中の方々も愛用されているものです。少し慣れないかもしれませんが、きっと馴染んでいただけると思います」


 蘇菲そひさんは優しく説明しながら、私を丁寧に着付けていく。


 え、宮中の方々って……。

 んなもの私が着ても大丈夫なのかしら?


 え、宮中の方々って……。

 んなもの私が着ても大丈夫なのかしら?


「あ、玉蘭様! そこは触っては……」

「あー取れちゃった!?」


 何だろう、波乱な予感しかしない。

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