moonlight9(永香)

 無理だ、と思った。






 こんな近くで。いい歳をして。


 優しい眼差しから視線を逸らすと、握りしめていた拳に触れられる。


 次に咳込んだら背中は摩るな、拳に軽く指を当てるか、何もせずにそばについていてくれとつぶやいた。



「体に触れると吐き気でますます喉を詰まらす。君の行為について言ったのではない」



 気持ち悪いと言われたことにショックを受けたのは事実だった。込み上げるものに堪えて喉が鳴る。



「息子と言ったことも。以前はそうなればいいと思っていた。娘は君に夢中だったからな」



 それも聞いたことがない。俺はつくづく馬鹿だった。


 姫さんについて、何を彼女が思っていたのか、感じていたのか知ろうともしなかった。今でも意識の中では、彼の娘だということしか考えられない。


 彼女はいつだって俺より遥かに大人だ。この人の娘だからか?違う。自分の選択をして、努力して生きてきたから。


 俺は――――自分が傷つくのが怖くて、周りを傷つけてきた。



「なにか言ってくれないか。君の言葉で、私に遠慮せずに」



 もう一度目を見たら、きっと離せなくなる。俺はきつく瞼を閉じた。



「――――本当の君が知りたい」



 飲み込んだものを口にしたら、嘘になりそうだった。俯くと、猫がぺろりと瞼を嘗める。


 反射的に目を開けると猫は膝を飛び降りて、開け放した扉から出て行ってしまった。


 手から男の感触が離れた。立ち上がると扉を閉め、傍らに立つ。汗ばんで気持ち悪かったろう、拭きなさいと渡されたハンカチごと握った。



「俺はあんたに興味があったんです。女が駄目なんだ」



 軽く聞こえるように言った。いつものように。好意ではなく、興味だ。


 まったく顔が見れなかった。


 穏やかな口調で、予想通りの言葉が返ってくる。



「いつからだ。再会したときからか?」



 沈黙するしかなかった。ああ、とため息のような声が落ちてくる。



「そういうことか――――それで」



 華織はやはり、何も言っていなかった。当たり前だ。彼女は一番傷つくのが誰かを知っていた。


 馬鹿は俺ひとりか、と言ったのは自分ではない。ハッと上を向くと、膝をついて俺を見た。


 目が離せない。



「すまなかった」

「…………ッ」



 謝るのは俺だ。馬鹿なのも俺だ。



「波多野」



 言うべきではなかった。一生黙っているべきだったのだ。そして言わなかった。


 あなたが好きだ。ずっと好きだった。これから先もずっとだと。


 これ以上困らせたくない。



「話さないと通じない。わかるか。黙ってはいけない」

「――――」

「なにも気づかなかった。さっきのことがあるまで。知らぬ間に君を傷つけていた。ゆるしてくれ」



 なじってくれたほうがマシだ。優しくされたら辛い。華織に俺がしてきたことだ。誰かにしたことはいずれ別の誰かから返ってくる。


 なぜ謝るんです、と笑った。



「俺が勝手だっただけだ。あんたが好みで、それだけの理由だ」

「男だから好きなのか?」



 そうだ、と迷わず噛み付くように言った。彼は苦笑した。



「なぜキスをしなかった。さっきのが最後のチャンスだったかもしれないだろう」



 男同士のキスは特別だ。セックスは簡単にしても、好きでもない相手にはキスは絶対させない。


 間違えて触れないように、指で押さえたのだ。そのことがあだとなって、相手を殺しかけた。


 馬鹿は俺だ。



「いいことを教えてやる――――暗闇に入ったら、まず落ちつけ。慌てるな」



 相手の体が近づいた。膝立ちでゆっくりと距離をつめて、逃げようとする俺の腕を取った。


 逆の手で肩を引き寄せられて、間近に見つめる。その指が俺の髪を掻き上げた。



「いきなり動けば本能が働いて、相手は逃げる」



 猫と同じだと言う言葉に、口が勝手に動きそうになった。




 追いかけたいのはあんただけだ。


 ずっと追いかけてきたんだ。


 俺が欲しいのは、織田切さん。


 ずっとあんただけだ。




 全部を飲み込んだ。自分に言い聞かせる。これはいつものお遊びだ。落としたら後腐れなく別れる。俺にはできる。


 撫でられている猫にさえ嫉妬したその指が、俺の眼鏡を外そうとするのを押さえて言った。



「体だけでいいんです。そういう男なんだ、俺は」



 容赦のない視線で俺を見る。


 時間がかかるぞ、と聞こえた。眼鏡を取られる。俺のは伊達だから、この人を真似るためだけのものだったから、必要ない。


 近づいた顔の細部まで目に焼きつけた。本当に最初で最後かもしれない。夢かもしれない。



「これまで追いかけてきた時間より、長くかかるかもしれん。それでもいいのか」



 俺は頷いた。


 自分の本心は全部覆い隠して、すべてを忘れるようにつとめよう。これまでそうしてきたように。


 俺への罪悪感からつきあってくれると言うなら、それを存分に利用すればいい。


 こちらが軽く考えていれば、そう見せていれば、相手も重くならずに済む。


 猫は笑みを見せないが、懐くだろう。俺は猫になって、店でそうしているように笑えばいい。


 借りてきた猫が餌を与えれば別室でおとなしくしているように、別の誰かに突っ返されても鳴かないようにすればいい。


 そうすれば、俺は傷つかなくて済む。主人はこの人だけじゃない。そう考えてればいい。




 ――――唇が触れたら、そこから夢の始まりだ。




 自分を思い出さずに済むようなキスをねだろうと、襟首に触れた。お茶会に遅れた猫のように、傲慢に貪欲になればいい。


 もう二度と誘われないかもしれないのだから。当然だろう?


 目はつぶらない。好きだとも言わない。恋愛ではない。真剣でもない。遊びの延長だ。


 指を捕まれ、頬に当てられ、自分から動けず、待つしかなくて。


 体ごとそっと唇を押しつけられて、その感触に全身が震え、涙が零れそうになっても。











 これはお茶会の余興なのだから。











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