月並みのラブソング番外1(ケロ幕)
東京駅に新幹線が着く時間はあらかじめメールで教えてもらっていた。
だから俺は、頑張って、とても頑張って、やらねばならない仕事を七時までに終わらせたのだ。今日に限って変なクレームまがいの電話がかかってきて、処理していたら時間を食ってしまった。予定通り奴が真っ直ぐマンションに帰ってきていれば、もう家にいるはずである。本当は俺だって一時間前に仕事を終わらせて帰りたかった。このままじゃ通勤時間分だけ待たせないといけない。俺も待たないといけない。一刻も早く声が聞きたいのに! 顔が見たいのに! 触りたいのに! ああ触ったら色々弄っていいんだよな、今夜は……。
荷物をまとめていた俺の喉の奥から、ぐふふと我ながら気持ちの悪い笑い声が漏れた。いけないと肩をすくめて周りを見回すと、斜め前の先輩が怪訝な顔でこっちを見ていた。あと上司に睨まれた。上司はさっさと帰れという含みを持たせて、ドアに向かいあごをしゃくる。云われなくても帰ります。俺は意気揚々と会社を飛び出した。
外からマンションを見、奴の部屋に明かりがついているのを確認したときの俺の喜びといったら。心臓が口から飛び出るかと思った。初めてそういう世界に触れるガキみたいに興奮している。まあ俺の場合、経験値は確かに子供並みなんだが。いいんだ、何度も云うようだが俺は一途なだけでもてないわけじゃない。
奴の部屋の呼び鈴を押した。思えばあの水曜日、酔いに酔ってこのボタンを連打したのが始まりだったような気もする。
ハイ、と声がした。たった一泊の出張だったのに、随分と懐かしい気がする。なんだか気恥ずかしくて、メールはしたけれど電話はできなかったからかもしれない。お、俺ですけど、とこちらの答えはなぜか丁寧口調になってしまった。いかん緊張している。
ドアが半分ほど開いて、愛しい恋人が顔をのぞかせた。会いたかったよダーリン!と抱きしめたいが、こんな外では怒られてぶん殴られるのが目に見えているからぐっと我慢しよう。代わりにおかえりと声をかけた。
おかえりはお前だろう。そう答えるこいつのなんと可愛いことか! 今日は最初から不機嫌らしくものすごい顔でこちらを睨んでいるから、どこが可愛いんだか自分でもよくわからないがとにかく可愛い。愛おしいのかもしれない。
お前、飯は?と尋ねられた。大丈夫、電車の中でソイジョイ食ってきたから、と自信たっぷりに返しておく。ぼそりと、そんなんで本当に大丈夫なのかなんて呟くので、そこまでスタミナをつけておかないといけない感じの流れになるのか期待と興奮で小鼻がふくらんだ。ニヤニヤしてないでとっとと風呂に入ってこい、と凄まれる。お前こそ飯は?と訊いたら、こっちはとっくにイチヂク浣腸まで終わってんだよ早くしろ!などとひそひそ声に怒鳴られた。シャワーを浴びに逃げ帰った俺の顔が、まともな表情を取り繕えていたかは全く自信がない。
大急ぎで、きっと人生史上最速ただし念入りに体をすみずみまで洗い、薬局の袋を掴んで部屋を出た。この中身は二日間の勉強の成果だ。
辿り着いた――と云うと同じマンション内で大袈裟に聞こえるが、その時の俺にとってはまさに辿り着いたというぐらいもどかしかったのだ――奴の部屋では、奴が部屋着姿でベッドのへりに腰かけていた。もう俺はたまらなくなって、駆け寄るとすぐさま引き寄せキスをした。唇に吸い付くだけじゃすぐものたりなく感じ、当たり前のように舌をもぐりこませる。手が無意識に動き回ってポロシャツの裾から中に入り込んでいた。
なんだか相手がもごもご言っている。俺は夢中で舌を絡めながら、体重をかけて奴を背後のベッドへ寝かせてしまった。どうしてそんなに右手が肩を叩くのか、ちょっと痛いななんて思っていたらとうとう膝が鳩尾にヒットした。
お互いの舌を噛みそうになって慌てて離れる。何するんだと言った拍子によだれが口の端から垂れた。Tシャツの肩でぬぐってから奴を見ると、息苦しさに潤みきった目で俺を射殺そうとしている。ああでもだめだ。そんな真っ赤な顔じゃ制止どころか加速するばっかりだぞ。
腕力は俺に勝るものの肺活量では劣る奴は、すっかり息切れしたらしく声が出せずに無言で蛍光灯を指差した。消せということか。そういえば明かりもつけっぱなしだったし、俺は腕から薬屋のビニール袋を落としてすらいない。ちょっと先走りすぎたかもしれない。
少しだけ冷静になった俺は、隅っこの壁にある電気のスイッチを落とした。とたんに部屋が暗くなる。だがそこからベッドに辿り着けないほど何も見えなくて困ったので、カーテンを半分開けた。すると月明かりが入り込んできて、それなりに明るくなる。明るさにはネオンも混じっているかもしれないが、ここへ届くのはそんな余分な色がついた光じゃない。透明で控えめな、月の光だけだ。
それも駄目だと言いたげにきつい視線をよこす奴に、俺はへらりと笑ってこれぐらいいいだろうと押し切った。今度は落ち着いて、ゆっくりベッドの上の恋人に覆いかぶさる。でもやっぱり、これから心だけじゃなく体も恋人になるのかと思うと落ち着いてなんかいられないかもしれない。
脱がしていいか訊いたらお前馬鹿かと途切れ途切れに返事をされた。どうでもいいけどこいつの普段着ってカッコイイよな。ポロシャツのボタンをはずしながら思う。俺なんかこういう状況だっていうのにライブTシャツとジャージだ。しかも前が準備万端でパンパンである。だが、どうせすぐ脱ぐしいいかと思って落ち込むのはやめにした。
全てのボタンをはずしてもあまりはだけた状態にはならなかったので、しかたなく裾からたくしあげる。現れた胸板は、確実に男のものなんだがまだ息切れがおさまらないのか大きな呼吸のたびに上下して、俺を誘った。誘われるままに吸い付いてみる。張りのある肌だ。俺にはこいつを女の子と比べてどう違うとかどう同じだとか考えることはできないのだが、筋肉のついた締まりのあるいい体は世間一般的に見てもセクシーなんじゃないかと思う。他の奴がちょっかいかけないように、と念じながら首筋に痕を付けてみた。しっかりした肩が俺の一動作によってぎくりと固まるのは、ちょっと優越を感じさせる。
やっとこさ出るようになった声に、咎められた。だが聞こえないふりでシャツを完全に脱がせることにする。腕上げて、と云ったら、自分で脱ぐからいいと振り払われた。
俺が変なふうにたくし上げたせいで、肩にポロシャツが引っかかっているようだ。奴が四苦八苦している間俺は手持ち無沙汰だったから、下を脱がせてみる。行儀の悪い足が抵抗して俺を蹴ろうとしたが、暗闇でしかもシャツを脱ぎながらでは思うようにいかず、俺はジッパーを丁寧に下ろすことができた。
高級な菓子の包み紙を剥くように優しく、奴の前をくつろげて中身を拝見した俺の衝撃といったら!
思わず感嘆の声が漏れた。奴が履いていたのは、見覚えのあるパンツ。そう、いつぞや俺が念入りに洗ってやった例のパンツだったからである。細い月明かりしかない部屋の中だが間違えるはずもない。
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