第19話(ケロ幕)

奴がとても可愛く笑ったので。

よしそれでは! とその肩をマットレスに押し付けようとした。しかし、するりとかわされて俺はなぜか一人で勢いよくベッドインしてしまう。空手の基本動作って、迫ってくる相手をいなすのにも使えるのか、と無駄に感動しながら訳のわからない状況に奴を振り返った。

奴はじゃあなと清々しい表情で玄関に向かう。そういえばコート着てるし鞄もすぐ足元にあったし、いつでも帰れる体勢じゃないか。

えっ、じゃあなって何!と慌てて立ち上がる俺の手を肩からすげなく払い落として、奴は三つの条件も満たしたし、俺は帰る、明日から木金と一泊で出張なんだ早いんだと靴を履きかけた。条件ってなんだ。今のはもっとこうこれからイチャイチャとか熱い一夜とか初めてのアレコレとかそういう雰囲気じゃなかったか!? 経験ないからよくわからないっちゃわからないけど、でも違うのか!?

ぐるぐる考えてぽかんと口を開けている俺に、奴は勝ち誇った悪魔のような笑みを見せた。なんでもできるんだったら、待てとおすわりの次はおあずけぐらいしないとな。

思わずひどいと叫びかける俺のうるさい口を慌てて塞ぎ、――しかも嬉しくないことには唇で塞いでくれたのではなく思い切り手の平だった――近所迷惑だろうと睨み付けてくる。

奴が主張するのはこういうことだった。

だってお前、その様子だと女ともしたことないんじゃないか? 少なくとも経験豊富とはいえないよな。男女だってそう楽じゃないのに、男同士はもっと大変だぞ。少なくともある程度の勉強は必要だ。俺は何にも知らないお前とやって、明日無事出勤できる自信がない。

俺はもてないんじゃなくてお前一筋なんだよッ! と若干キレぎみの俺をわかったからと片手で制して、週末までに少し知識を固めておけと命じた。なんだかがっかりした上に気に食わなくて、俺はささやかな意趣返しにイエスと答えない。

奴は靴を整え終わり、くるりと振り向いた。眉を寄せたまま仕方がないなというふうに笑う。こいつの笑顔ってこんなにレパートリーあったんだ。面白くないんだか楽しいんだかもうよくわからない。俺は浮き足立っているのかもしれない。仕方ないだろう。なんといっても、長年焦がれ続けてきた黄金の月に一番近くで触れられるようになったのだから。

それでもやっぱり不機嫌なポーズでぶすっとしていると、奴ははにかむような、それでいて挑戦的な表情になった。鍵のつまみに器用そうな手がかかり、本当に帰るのかと思った瞬間、ぽつりと口を開く。


その代わりに金曜の夜は、向こう二日間腰が立たなくなるくらいにしてくれたっていいんだぜ。


言い残された爆弾発言に頭が真っ白になる俺をほったらかして、奴は玄関を半分出る。しかしなぜか途中で戻ってきた。俺は衝撃と感動で狼になってしまいそうだから、そういう展開になるのが嫌なら早いとこ帰ったほうがいいと思うんだが。

玄関は廊下よりも一段低くなっているから、いつもの視線と違って少しばかり奴を見下ろす格好になる。奴は鞄を持っていないほうの手を、俺の肩にかけてぐいっと下げさせた。一度ならず俺を投げ飛ばした腕力に耐え切れず俺は少し屈む。奴はそういや言い忘れてた、と前置きしてから俺の耳元にほとんど息遣いだけでしゃべった。俺もおまえが好きだ。そしてチュッとキスが落とされる。

じゃあな、今度こそ本当におやすみ、と自分の部屋に戻ってゆく姿を、ぽかんと無言で見送ってしまった。見えなくなってからもしばらく戸を閉められず玄関に立ち尽くしていたほどだ。

なんだあの男前は、あれが俺のもんになるの……?

かっこよすぎる抱かれてもいい、いや早く抱きたい! と我に返ってから脳が爆発した。だが真夜中だし一人だしアパートだしで大声は出すことができない。フラストレーションを解消するせめてもの手段としてベッドで一人激しくごろごろ転がっていたら、壁に頭ぶつけた。

痛いなあと頭を抱えたけれど口元はニヤついてしまった。明日真面目な顔で職場に出る自信がまったくない。カーテンの隙間から月が見える。半月よりは少し太っていた。早くあと二日、月が満ちればいいのに。

息ができなくなるほどの熱い気持ちに眩暈がした。



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