第18話(ケロ幕)

ドコでナニが起きているかは俺のあずかり知らぬところだが、とにかくお熱い展開になっているのは間違いないだろう。俺は奴が上司とマネージャーの生々しい現場を目や耳にして、どう感じるか探りを入れたかった。だから奴を様子見に向かわせたのだ。男と男が恋愛関係に陥るということについて少女漫画レベルで夢を見ているのなら、嫌悪を感じて目を覚ますかもしれない。もしくは煽られて俺にヤらせてくれぐらい言うかもと、都合のいいことも少しだけ。それを告白の代わりと思ってやってもいいかという妥協案を自分の中で出していた。

会計をすませてしまっても奴はまだ戻ってこなかった。裏口から出たことなどないだろうし、迷っているのかもしれない。俺は財布をしまった今、もう一度席に戻ることもできず、手持ち無沙汰になって壁によりかかったまま歌姫の仕事に耳を傾けていた。

ゆったりしたメロディーと、歌声を追いかけるようなトランペット。重苦しくはないが、だからといって浮かれているわけでもない。掴んだ希望をひたすらしみじみ喜んでいるような。

いい歌だな、と思ってしまって自分に照れた。こんなありがちな男女の幸せカップルみたいな歌詞は、俺にはまったくそぐわないのに。

じわじわと店の空気を包み込んでいく歌声に、結局最後まで浸ってしまった。それでも奴はまだ帰ってこない。本気で出歯亀しているのだろうか。それともまさか煽られすぎて参加してしまっているとか……。悶々とし始めた俺にバーテンダーが声をかけてきた。そろそろ閉店ですので外に出てくださいますかと云う。常連に対してつれなくないかと思ったが、文句も言わず淡々と彼が片付け始めたものの中に、奴がさっき三人から攻撃されたときに飛んだ一片のチーズがあるのを見て何も言えなくなった。彼も苦労しているのだ。世間的には彼の方が多数派なのだろうに、なぜかホモに囲まれて。しかもマネージャーの仕事までこうしてなんとなく押し付けられて。

頑張れ新婚さん、と無責任なことを心の中で呟いて階段をのぼった。オフィス街から一本入ったこの通りはもう真っ暗だ。満月にはまだ数日足りないが、太り始めた月が明るく感じられる。

意外に冷たい風に襟を立てて奴を待っていると、歌姫がひょっこり顔を出した。悪戯っぽい顔で笑う。さっきの最後の曲ね、あれ貴方のお相手が必ずリクエストしてた歌なのよ、貴方は金色の月なのね、とだけ告げて、すぐに下へ戻ってしまった。あの歌詞が奴の気持ちだとでも言いたいのだろうか? 面食らって何も返せなかった俺は、自分の爪先をじっと見詰めた。あんな、いかにも恋してますみたいな、ただひたすら幸せそうな曲。男同士なんて未来も目的も可能性もない、それなのに。

しかし自分でも少し共感してしまった部分があって、同じ気持ちだったのかなどと思ってしまって、馬鹿じゃないのかと恥ずかしくなった。俺も奴も馬鹿だ。頬がじわりと熱くなる。

相手の性別が何だろうが、大人になろうが、人を好きだという気持ちは変わりないのかもしれない。皆一様に、月並みのラブソングに涙し、笑顔を浮かべ、聞き惚れるのだろう。

階段の口に佇んでいると、次々に出てくる客の波に邪魔となったので少し離れた別の店の前で奴を待った。さほど経たずに、決して高価くはないスーツの姿が現れる。しかし様子がおかしかった。足取りもおぼつかずふらふらしているし、顔が赤い。酔うほど飲んでいないはずだ。やはり、まさかまた上司に何かちょっかいをかけられたのかと思わず動揺する。釘を刺しておかねばと店に戻ろうとする俺の腕を奴が掴んだ。呟いた声が掠れていた。スーツ越しにも手の平が熱かった。なんとなく緊張が走る。

囁き声の応酬で、ついに来るか告白、と期待した俺に、奴はキスさせろと要求してきた。思わず拍子抜けした疑問形の溜息が漏れる。

いきなりキスときたものだ。このままではこちらから、何か言うことがあるだろうと誘導尋問しなくてはならないかもしれない。でもそれって上司が云わんとしていた趣旨とはちょっと違うよなぁと思っている間に相手がアスファルトに張り付いていた。まぎれもなく土下座だ。キスごときのために、路上でしかもまさか本当に土下座なんかするか!? 俺は少し上司を尊敬した。そして目の前の男の馬鹿さ加減に呆れた。

ちらりとこちらを見上げ、立とうとするので思わず犬相手にするように制してしまった。反射的に従う奴の姿に、なんだか込み上げるものがある。

しまった、と反省したときにはもう自分から唇を合わせていた。合わせるだけで離れたが、自分も大概馬鹿だと思う。それでももっと馬鹿なこいつのその馬鹿なところが愛おしいような気がする俺って、それを上回る馬鹿なのだろうか。

ぶつぶつと不平を垂れていると、奴が俺の首を捉えてしまう。今度の制止には、犬は従わなかった。やっぱり馬鹿犬だ。

啄ばむだけでも何度も繰り返せば息が切れ、それでも意地になって触れては離れを続ける。いつのまにか何度も、吐息の合間に好きだと囁かれていた。告白とも呼べない、本音が呼吸と一緒に漏れてしまったような告白だった。

本当にわかっているのだろうか。俺に好きだと言い切ることの意味を。それに伴ってしなくてはいけない覚悟の重さを。

尋ねると、奴は怖いなあとやけに軽く応えてから、――刺される覚悟はないが、おまえを庇う覚悟なら持ってるよ。隠れるのも隠すのも得意だ。おまえはずっと――そこで言葉を切り、初めて見る男くさい笑顔を浮かべた。


俺の気持ちに気づかなかったんだから。


あぁ、と心臓が震えるような感覚に襲われた。

こいつは何にも考えていない馬鹿なのかと思っていたけれど、俺が間違っていた。

考えた上で、それでも俺みたいなのを一番に持ってきてしまう莫迦だったんだ。

どうしようもなく愛おしくなって、抱きつくように唇を奪う。逆だろと文句を言いかける口を存分に塞いでから、どっちでもいいんじゃないのかと耳に吹き込んだ。役割だの男女だの、気にしすぎていた俺がやはり馬鹿だったのかもしれない。俺は大人の男で、こいつも大人の男だが、こんなにも好きだしそれはこれまでに経験した恋となにも変わらない。

欲しいと率直に求められて全身が熱くなる。上司とマネージャーの何年越しかわからない関係を持ち出したがあっさりキスで却下された。

欲しければやっても構わないが、と意識の端で考えつつ、奴の舌に翻弄される。家に来るかと云う誘いに触れることで答えた。

何度も足を踏み入れたことのあるアパートの部屋へ入る。電車の中ではお互いに始終無言だった。奴の手が繋ぎたそうにそわそわするのを、見て見ない振りで隣に立っていた。

奴は緊張しているのか興奮しているのか、鍵を鍵穴に入れそこねて何度もガチャガチャうるさくやり、その慌てぶりは面白いを通り越してかわいそうにすらなってくるほどだった。ただこの鍵のうるささで両隣の人が何事かと顔を出したら、即行帰ってやろうと俺は思っていた。

薄手のトレンチも脱がないうちからベッドに腰かけさせられる。奴もぴったりとくっつくように隣に座って、俺の両手を自分の両手で握った。

好きだ。真っ直ぐに目を見てきっぱりと宣言してくる。俺は不覚にも少し照れそうになった。好きだから、抱きたい。いいか? と首を傾げられて、まあ、いいけど、と応じた。

本当に欲しいのか尋ね返してみる。奴は力強く、というか必死なまでに頷いて欲しいと云った。そんなにいいものじゃないがと云っても引き下がらない。どのくらい欲しいか、俺が手に入るなら何を引き換えにできるか、卑怯かなと思いつつも訊いた。すると、奴は。


おまえが俺のものになってくれるなら、何だってできるよ。


と。はっきりきっぱり答えた。

俺は思わず、これまでにないのではないかと自分でも思えるほどの満面の笑顔になっていた。




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