第13話(ケロ幕)

たとえ、前の夜に何があったとしても日は昇り、朝は来る。そして始業時間もいつも通りにやってくる。

俺が昨晩何をしていたとしても、プライベートでどれだけ悩もうとも、仕事はきちんとこなさねばならないのだ。それがオトナと云うものだ。俺は大人で、そして男だ。

二度目に馬鹿で不誠実でデリカシーゼロの同僚を床に沈めた後、俺はすぐに帰宅した。会社を出てすぐに、本来取りにいったはずの書類を忘れ、しかも奴と上司を暗いところに二人きりにしてしまったことに気付いたが、また引き返すなんていう真似はしなかった。仕事は明日やろう。やらねばいけないことだけをなるべくのろのろやって、定時に帰るのだ。奴らのことはなるようになればいい。昔からずっと知っているあの能天気な友人についに恋人が、しかもいつも明るくて莫迦正直で真っ直ぐだった奴の人生が同性愛なんてわき道に逸れるかと思うととても嫌だが、それでも奴がその道を選ぶというなら俺だけは応援してやりたい。どうせなら俺にしておいてくれれば、元の人生に戻すべく説得もできたのに、あの上司相手じゃ無理そうだ。ずるずる引き込まれて終わりだろう。しかし俺の勝手で奴の恋心に文句をつけることはできない。あいつにとってそれが幸せだというのなら、俺は親友として応援してやるべきだろう。

今頃いちゃいちゃしているのか、と考えながら、俺が何度も寝返りをうって朝を迎えたことは誰も知らない。

業務開始の三十分前に会社へ着くと、既に上司が来ていた。シャツもネクタイも昨日と違うし、髭もちゃんと当たっている。なんだ、俺は隈が消えなくて朝飯も抜いたぐらい大変だったっていうのに、どうしてこの人が平然と席に座ってるんだ。夜はホモ・オールナイトだったんじゃないのか。

出来る男は恋も仕事もカンペキかよ、とつまらない気持ちで自分の椅子に座る。その途端に若手の女の子が、ごめんなさい取引先がまとめて持って来ちゃって、と伝票をごっそり差し出した。今日中らしい。ああ、やっぱり昨日、できる書類は持って帰ればよかった。定時計画が台無しだ。

パソコンのキーを叩くのに、肩が微妙に痛くて参る。大の男を思わず投げ飛ばしたのがまずかった。大学時代から比べると、ちょっと身体も鈍っているのは当たり前だろう。

奴は足を引きずるようにして始業ギリギリに現れた。満身創痍のその様子に、後輩が驚いた顔でどうしたんですかと訊いている。いやあ好きな相手から名誉の負傷で、などと軽口を叩くのが聞こえた。腰をさすって、なんだそのでれでれした顔は。そうか、結局ヤられたのか。ああ、やっぱり昨日、二人きりなんかにするんじゃなかった。思わず入力を間違えた。

ちょっと迫ったら投げ飛ばされて、とぺらぺらしゃべっている。オイ投げ飛ばしたのは俺だろう。名誉の負傷相手は上司じゃないか。とはいっても、まあ好きな相手がついに掘ってくれましたとはさすがに云えないか。恋を応援する親友として、言い訳ぐらいには使われてやるべきか。それにしたって言い逃れ先扱いだぞ。イライラしていたら、エクセルを保存せずに消してしまった。また一からやり直しじゃないか。そんなに進んでなかったからまだいいけれど。

奴も調子が乗らないようで、ミスを連発していた。午前だけで三回も上司に呼ばれている。呼ばれたいからミスをしているのかもしれない。職場で見せ付けるなよ、公私混同だ。もっとも、見せ付けられているのは俺だけなわけだが。事情を何も知らずに見れば、単なる職場の風景だろう。こんなにそわそわさせられているのが俺一人だなんて、ひどく理不尽な気がする。

怒りとモヤモヤを集中力に変えて、バシバシキーボードを打っていたらなんとか半分の伝票が午前中に終わった。後残り半分と、昨日の書類。それなりに早めに帰れそうだ。俺だって上司ほどじゃないがそれなりに出来る男じゃないか。

区切りがいいし十二時半を回ったし昼でも食べるか、と下へ降りていったら奴がいた。売店で何か買っている。漫画か?

カバーのかかったそれをいかにもこっそりという感じで鞄にしまい、おにぎりとパックジュースを携えて立ち去ろうとしたところで俺に気付いたらしい。嬉しそうに近寄ってくるのが癪に障る。惚気るつもりか。俺はお前と上司の性生活なんて聞きたくないぞ。

だから、奴が口を開く前にこっちから釘を刺しておいた。あのな、まだ俺以外にはわからないからいいが、エスカレートしないうちに自重する習慣を身につけといたほうがいいぜ。

奴は何の話だと眉を顰めた。こういう顔してるとモテそうなんだがなあ、もったいない。

お前と上司の関係だよ、と説明してやる。男女だって結婚するまであまり職場恋愛はひけらかすもんじゃない。男同士ならなおさらだ。

すると奴の顎が落ちた。なんだろうこの反応は。まさか人の目の前でうっとりキスかましておいて、ばれてないと思ってたわけじゃないよな。じゃあいちゃついている自覚がないのだろうか。

いいか、お前はあの上司が好きなんだろう。俺の確認に奴は一瞬気が遠くなったような表情になり、泡を食って反論してきた。あのな、とか、おい、とか、待て、とか、動揺のしすぎで何を云っているのか全然わからない。言葉の断片ばかりだ。

そんなに慌てなくても俺はそういうの差別したり気味悪がったりしないから、とはっきり伝えてやる。奴は途端に大人しくなった。え、なに、お前ホモオッケーなの、などと口走るから声が大きいと頭をはたいた。心配しなくても言いふらしたりしないと約束する。

腕時計を見ればもう昼休みが十五分以上消えていた。とにかく、上司とようやくイイ仲になれたからってあんまり浮かれるなよ、とだけ言い含めて外へ向かった。外でしっかりしたものを食べないと、とてもじゃないが今日の午後は乗り切れない。

後ろで呼び止める声がしていたが、聞こえない振りで足早に立ち去った。

飯から戻ってすぐ、俺はやっつけるべき伝票と戦い始めた。幾度か視界の端に見覚えのある袖口やら靴やらがよぎったけれど、無視してひたすら仕事を続けた。お前は俺の衛星か、とつっこみたくなるほどにしつこく、奴は何度も机の周りをぐるぐるしていたが、結局最後まで一言も声をかけてくることはなく先に帰っていった。どうだ、飲み会にも合コンにも滅多に出ない俺の、話しかけるなオーラは天下一品だろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る