第12話(永香)
俺が目を開けると、机の蛍光灯ひとつきりで、煙草を吸った男二人が話をしていた。
深夜をとうに回ったと奴が言う。
うう、いろいろ痛いし、幻覚が見える。恋は病だ。何かが狂い始めていた。パンツのあたりからか。鼻血か。柔軟剤からか。症状が出過ぎていてわからない。
おかしいぞ、俺の純愛が現実を変えているらしい。一サラリーマンの俺を、まるで哲学者か思想家のように変えている。俺は奴ほど頭もよくないが、ちょっと悟った。すべての恋や愛がこうやって世界中に平和をもたらしているんだ。恋愛万歳。ホモ万歳。
そう思い込んで現実から離れようとしたが、無理だった。何度も目を擦った。怒っている顔しか見たことのない上司と、冷静沈着な顔しか見たことがない友人が……笑っているのだ。
天変地異の前触れだ。
巨大地震が来るに違いないと、床からはい上がって机に隠れようとする。なにやってるんだ、と奴の声。打ち所が悪かったようだな、と上司の声。ちらりと見上げると、俺を覗き込むでもなく座っている。
犬と猫か、コブラとマングースだった二人の人間が。父と息子か、ウォレスとグルミットみたいに寄り添っている。これは現実か?平和の象徴クレイアニメか?あれは飼い主と犬だが、奴はいま上司の前で、手なずけられた虎のように大人しい。
俺はその男とキスしたんだ。いいや、されたんだぞ。少女漫画の十六歳乙女のように、唇を奪われたんだ。上司も上司だ。大の男が殴り倒されたんだぞ。この人俺のこと本気で好きなのか?なんで俺を殴り倒した男と談笑してるんだ。
気絶してる間に何があった。誰かわかるもんなら、教えてくれ!
なぜどっちも俺を取り合ってないんだ……男を取り合う女のように、掴み合いの喧嘩はしないのか。俺はふらふらと立ち上がり、座って美味そうに煙草を吹かしている、奴の前に立った。
俺が好きか、と聞いた。奴はきょとんとして俺を見た。いつもは他人の前では仮面をつけたみたいに静かなのに、顔にきょとんと書いてある。
なぜそんなに無防備なんだ。
上司を見つめると、ん?ああ、まぁ好きだ。抱くならお前で、抱かれるなら彼の方がいいなと言った。
さすがにのけ反った部下二人を前に、どっちがどうとか関係あるのか。俺はお前たち二人とも好きだが、それが悪いのかと言った。
悪いに決まってる。恋人がいるのに他を好きになったり、結婚してるのに別の人間を愛したりするのと同じだと叫んだ。上司は眉をしかめて、俺も結婚して子供もできたが、浮気をされて別れたので心も痛いし、お前の言いたいことはわかったと呟く。手の中のジッポライターを弄び、娘から貰ったものが捨てられないと言った。
奴が、ゲイでも女もいけるんですかと驚いた。俺はつい苛立たしくなって、俺だってそうだ!と叫んでしまう。
奴は立ち上がり、俺の珈琲の缶で煙草を揉み消した。まだ中身は入ってた、ざまあみろと奴が言った。
俺のブロークバック・マウンテン……!と言うと、それはホモ映画だと冷静な上司の声が耳を打った。おかしいぞ、本当に頭がくらくらしている。ホモになろうと続けざまに借りた映画のタイトルと、珈琲缶の名前を間違うなんて。
奴は、ちょっと黙っててくださいと言った。今は俺がこいつと話してるんです、と。わかったと細めた上司の目が、妙に艶やかでまずい。奴を捕られると思った。
俺は咄嗟に、俺がおかまになるからと口走った。お前になら抱かれてもいいから、俺一缶四万円の痔の薬通販で買ったから!とまた叫んだ。
お前意味がわかってるのか……言ってることおかしいぞ病院行くか、と奴が、俺の、肩に、手を。
ぎゅうぎゅうと抱きしめてしまいたくなった。視線をさ迷わせると、上司が面白いものを見る目で俺たちを眺めている。なぜこの人にとってはこいつは抱かれたい対象で、俺は抱きたい対象なんだ。ホモだから変なのか?男女でもそうなのか?抱きたいとか抱かれたいとか。守りたいとか守られたいとか、そういうことか?
駄目だ、どっちでもいい。
そう口にした途端、奴の顔がカッと赤くなった。どっちでも、つまり誰でもいいんだなと言う。違うそういう意味じゃない、どっちでもいいんだ、相手が大事なんだ。今度は奴の顔は青白く透き通るみたいになって、なんだそうか、わかったと言った。最初からそう言えばいいのに、と。
どうしてなんだ?ついていけない。こいつがいま何を思ってそう言っているのか、俺にはわからない。なぜなんだ。上司の方を見る。上司が自分の頭をつついて、こっちじゃないと言った。
喉を叩いて、こっちを使え、と。
俺には意味がわからなかった。
奴は口を開き、口を閉じ、うなだれて俺に言った。好きか?と。ああ好きだ!と即答したが、それがまずかったらしい。
奴は俺に掴みかかり、俺の上にのしかかって人の胸を叩いた。可愛い。普通は可愛い仕草だが、こいつは紛れも無く尻だけ小さい普通の男だ。空手だか柔道だかやっていたのだ……ものすごく痛い。息ができない。酒でも飲まさないと簡単には押し倒せるもんか、と自分の浅はかさを恨んだ。
白目剥いてるぞ、離してやれ、と上司が奴の拳を握るのが、霞む視界に見えて。彼に触るなあ!とつい言った。奴は上司に掴まれたその手を剥がし、俺の顔をべしっと床に押し付けた。奴が振り返るのがかろうじて見えた。
あなたはゲイなんでしょう、何とか言ってやってくださいと叫んだ。
上司は今度は声を上げて椅子の上で背を反らし、恋愛経験が少ないんだなあ、と煙草を口から外して煙をふうと天井に向けて吐いた。
私は確かにゲイだが、君たちの痴話喧嘩に巻き込んでくれるな、と溜め息をつかれた。
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