第11話(永香)

ふうん、何か武道をやっていたのか、と後ろから聞かれたので、あ、はい柔道をと普通に応えてしまった。

何考えてんだ、俺は。奴が上司とキスをしているのを見た途端、頭に血が上り投げ飛ばしてしまった。奴はいま、会社の床に大の字である。

始めに俺としたようなやつでなく、もっと濃厚で長いのをしていた。あの夜だってキスをしたが、あんないい雰囲気のではない。俺は酒で酔って抵抗していたし、舌のざらりとした感触や、ほろ苦いような甘さに怯えて、味わうどころではなかったのだ。

奴はどうだった?陶酔しきって上司のことを色気のある目で見ていたじゃないか!

色気。奴はまさかホモに興味があるだけじゃなく、あっちに行きかけてるのか?つまり俺が奴にされたような、ホモの女役の方に。俺に拒絶された腹いせに?

身長差はあったが、上司は片腕でこいつの首元をさらうようにしてくちづけた。その後は机に手をついて、両脇から体を抑えつけて姿勢は逆転。上司の頭の位置が動き、その唇にすっかり翻弄されてる奴の顔が見えたのだ。

こいつ正気か、と俺は奴の顔を見下ろした。上司は俺たちより若干背も低いし、肩はしっかりとしているが全体は華奢だ。腰の辺りが年の割には重くないが、若くもない。四十半ばはいってるはずなんだ。

どうして来たと聞かれ、忘れた書類を取りにと口ごもる。奴とここで何してたんですか、と本当は聞きたい。でも無理だ。キスしていたんだ。いい年の大人が、キスのひとつや二つで何を慌てることが……いや、


男とだぞ?


感心感心、明日持ってきたら倍の雑用を任そうと言った。

嫌味な男だとまともに見たことがなかったが、なかなか整った――女好きのする顔をしている。この優男め。するならこっちは押し倒す側だろう。俺だって押し倒せる。

胸が痛い。ものすごくだ。痛くて苦しくて、どうにかなってしまいそうだ。俺は自分がホモになるのが嫌なんじゃなくて、たぶん奴がホモになるのが嫌なんだ。

上司の何が奴の心を射止めたのか探ろうと、俺は彼をきつく睨みつけた。上司は気にする様子もなく、俺が吸っているのと同じ系列の煙草をポケットから出し、俺に薦めた。余裕ぶったところが気にくわない。なぜ慌てないんだ?男同士で会社でキスをしてたのに。俺が奴の友人だからか?

だが……思えば入社してから初めてなのだ。つまり、誰かから気軽に煙草を薦められることなんて。俺は仕事はできるが近寄りづらいなどと言われ、社内では敬遠されていた。理由も原因もわかる。俺は奴が誰かと親しくしているのを見るのが嫌で、酒は飲めないからとすべての誘いを断っていた。新年会や忘年会の類は、食事が済んだら真っ先に帰る人間なのだ。

自分の親睦会というわけのわからぬものを急に拓かれ、女子社員に質問攻めに合い逃げ出したこともある。そのとき奴はどこで何をしていたのかというと、例のバーで一人の美しい歌姫と出会っていたわけだ。

俺が暗い記憶に塞ぎこみそうになっていると、上司は鼻で笑って俺の口に無理矢理煙草をくわえさせた。俺はムッとしたが、気がついた。この男は口を開けば愚痴を零すか叱るばかりの嫌な奴だが、唯一俺に対して――他の社員と変わらぬ態度で接してくれていたのだ。俺は最初にことがあった月の夜、驚きとわけのわからぬ恐怖で、友人のことを誰かに相談したかった。しかし俺には誰にもいなかった。

振られたらしいです、と言ったとき、俺はたしかに上司に対して気を許してしまったのだ。その結果がこれだった。しかし肝心の男は伸びている。間男に対峙するのは、俺の役目になってしまった。

間男!俺はホモじゃないぞ。奴の頭を冷やすためか、友情を取り戻すためか、なんだっていいが上司には渡さない。

俺が使っているような百円ライターではなく、高そうなジッポに火を着けてくれる。俺もこんなの持とうと不意に思って、格好いいですね、と口走ってしまった。駄目だ、混乱で頭が回り過ぎて、空転している。上司はふん、高いぞと言った。

吸ってないみたいに軽い。上司の手の中を見ると、一番薄い白色のマイルドセブン。俺は普段、濃紺のを吸っている。もっと以前はセブンスターだった。味は同じだが濃さは十倍、俺の方が一本で周りの人間をどんどん死に近づけている。酒の度数で死に近づく早さが違うように、同じ煙草でも人に与える害の大きさは、本数などで変わるのだ。

上司の方が、俺より周囲に優しいのだ。きっと水道だって洗剤だって無駄には使わない。燃費のいい車に乗ってるのだろう。いや、自転車だ……エコバックにママチャリだ。こう見えて実は地域住民のボランティア・ゴミ拾いに参加しているんだ!

そう考えると怒りが込み上げてきた。怒りじゃない。俺が上司より神経質な男だと認めたくない――違った。奴が俺より彼を選んだことに対して妬んでいるのだ。


俺はなぜこんなに焦っているんだ?


こちらの目をどう解釈したのか、上司が頷いた。禁煙する気はないがね、味は物足りないがロングなら長く吸えると呟き、煙草は便利じゃないか、溜め息を隠す道具には丁度いい。

あるいは普段よく見ない人間の顔を、直視したいときなどはと、俺の顔を凝視した。

確かに煙が邪魔をして、わずかだが相手の視線は遠ざかって見える。俺は見つめ合うのに堪えられなくなって、目線を逸らすのにも役立ちますねと下を向いた。自分は睨みつけたのに、見られることに敵わないなんて。悔しくて仕方ない。

俺は馬鹿だ。上司は俺の恋敵じゃないのか。ホモのカップルにも恋敵がいるのだ。ありえないぞ。ほんの数日前まで世界の男はみんな女の尻を追っかけていると思っていたのに。すぐ身近にホモになりそうなのが、元々ホモなのを俺が知らなかっただけなのか、よくわからない男二人がいたのだ。これは現実かと煙を吐き出し、奴に好きな女がいたらしいことがショックで、いつも以上に口が利けなかった夜を思い出した。

俺は敵わないのか。女にも男にも負けるのか。この男がいるせいで、奴とは今までの関係にすら戻れなくなってしまった。

ただの友人、腐れ縁の、傷ついたり傷つけられたりする心配のない関係にすら。

おい、と目の前でパンッと音がした。上司が両手を叩いたのだ。不意を突かれて煙草を口から落としそうになった。

上司は溜め息だか煙りだか、両方なのかを吐き出して、君も妄想族か……やれやれ最近の若僧は、と真顔で言った。返事を返し損ねると、上司は顔を上げて、いかんと呟く。

自分の上着を椅子から外し、奴の体にかけた。消灯を知らせに来た警備員が開けっぱなしの扉をコンと叩く。上司はご苦労様と手元の蛍光灯をつけ、何食わぬ顔で椅子に座った。床に転んだ奴は見つからず、警備員がいなくなる。

俺はまさかと思った。上司は、俺がいたこと、来たことに気づいていたのか?人が来たことに気づくくらいなら。彼は肩をとんとんと叩いた。

今は私と話している最中なんだ、自分の考えに浸るのはやめろと言った。君は不合格。その点では彼も不合格だと奴の体を足で蹴る。

俺は低く唸って、降って湧いた恥ずかしさにとりあえず頷いた。

待ってくれ。

この人、いい人じゃないか?

俺のこと、待ってくれてないか?

俺が自分で気持ちを整理するのを。

俺が、こいつを好きなことを。

知っているんじゃないのか?

そのとき電気が一斉に落ちて、俺は、ああそういうことか、どうしてなんだと思った。

暗がりで照らされ、嫌味なく笑った上司の顔が、歌姫にそっくりだったのだ。


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