第7話(ケロ幕)
口の中が、葉っぱくさい。
ほんの数十分前に寝転びかけた花壇の匂いを思い出して、頭が沸騰しそうになった。もう友達でいようと、余計な思いはきれいさっぱり捨て去ろうと決意したばかりなのに。
どうして、奴はいきなりあんなことを仕掛けてきたのだろうか。
いったんは治まりかけたと思った酔いが、また回ってきたようだ。あるいは二日酔いが始まったか。水が飲みたい。だが起き上がりたくない。体の力を抜くとベッドへ四肢が沈んでいく。このまま寝てしまいたくなったが、花瓶の水に濡れたシーツが気持ち悪かった。やはりリネンだけは替えて、せめてシャワーぐらいは浴びよう。そして気持ちよく、何も考えずに眠りたい。
寝返りを打った反動だけで頭がくわんくわんと割れるように痛む。腕を突っ張ったら擦り切れた手首も痛んだ。このところ、俺の手首は災難続きだ。やけくそで一気に立ち上がり、毛布の上からかけているシーツと夏用タオルケット、それに下のシーツを三枚ともはがす。幸いベッドマット本体は無事だったので、濡れてしまったそれらだけを洗面所へ引き摺っていった。
洗濯機へ丸めて押し込み、目についた水道の誘惑に勝てず蛇口をひねる。冷たい水はいくらでも溢れ出てきて、俺はそれを手ですくって顔を洗った。すぐにもどかしくなり、頭をシンクへ突っ込むようにして水をかぶる。ぞくりと頭の芯が震えて、ちょっと吐いた。だが汚いものは全て、すぐに排水溝へと流れ去っていった。
浴びながら口元にこぼれてきた水を飲んで、どのくらいそうしていたのかはよくわからない。ようやく落ち着いてきた頭で考えつつ、ゆっくり水の栓を締める。水道代がもったいなかったかな、と少し後悔した。
シャツは元々肌蹴ていた胸元を通り越して腹やら脇腹までびしょびしょで、張り付く布地が気持ち悪く俺はそれを急いで脱ぎ捨てる。シーツやらと一緒に洗ってしまえばいいと、それも洗濯機へ押し付けた。
下もついでに、とボタンをはずし、ジッパーに手をかける。だが俺は、そこで絶望的な事実を目の当たりにするのだった。
ズボンの内側が、一部ではあるが、濡れている。
信じられない思いで、というよりは信じたくない思いで、俺は下を自分の脚から剥ぎ取った。
やはり濡れている。
しかも、俺の先端が当たっていた付近だけ丸く、色濃くなっている。このぬめりを帯びた液体は、とてもじゃないが水道水の跳ねなどと言い訳できそうにもない。
ひどく恥ずかしく、そして屈辱的な気持ちを抱えて俺はズボンを下洗いした。ざばざばと幾度も擦る。もうとっくにぬめりは取れているだろうが、綺麗になった気がしない。
全体がぐっしょり濡れて重たくなるころ、ようやく俺は気が済んでズボンを手放す気になった。洗濯機に追加して、スイッチを押す。洗剤を、カップの線より表面張力分多く入れてやった。
そのまま機械に任せておくのはなんだか不安で、もしかしたら俺が一人になりたくなかっただけかもしれないが、とにかく不安で、何が変わるわけでもないというのに俺はひたすら洗濯機の渦を上から見張っていた。全裸の男が一人洗面所で洗濯機を睨み付けているのも笑える光景だろうが、とにかく俺はそこを動きたくなかった。洗面所が涼しかったからというのもある。
それもこれも、全て奴が悪いのだ。
あんな、いきなりキスなんかしてきて、舌まで入れて、俺を、縛り、上げて――。
――よくしてやるから。
耳元に吹き込まれた声とあらぬ箇所に感じた手の平の熱さがよみがえって、背筋がぞくりとした。
そもそも奴は、なんであんなことをしてきたんだろう?
奴は女が好きなはずだ。というか大概の男は女が好きだ。間違っても男に襲い掛かる趣味はないだろう。そして、今回奴は酔っていない。酔っていたのは、いや現に酔っているのは、俺のほうだ。だから間違えたとか悪ふざけの空元気という可能性もない。そもそも悪戯の限度を超えている。ならば、酔った俺の妄想か? その線も、手首の擦過傷が消してくれるだろう。あれは確実にあったことなのだ。だとすると、残りは何だ。好意を抱いてもいない相手に圧し掛かる動機があるとすれば、それは。
同じ男として、愛がなくても抱けるというのはわからんでもない。勃てばあとはなんとかなるのだ。だがわざわざ勃たそうとするその努力の源になるのは。
嫌がらせか、同情。そうでなければよほどの欲求不満。
嫌がらせではない。それは断言できる。あんな優しげな声を出しておいて嫌がらせするような奴だったら、俺はそもそもこんなに長いこと腐れ縁をやっていない。
欲求不満なら、なにもわざわざ俺みたいなのに手ぇ出さず、そういう店でもビデオでも使うだろう。そもそも奴はホモじゃないんだから、男相手じゃ処理にもならん。
ということは、同情か。
俺は何か、まずいことでも口走っただろうか。誘うような、みじめったらしいことをうっかりこぼしてしまったのか。
意識ははっきりしていたつもりだが、今だって頭の中がぐるぐるしている。正確な記憶といわれると、ここまで帰ってくる間のことに自信はない。そもそもこの家へ辿り着いてからだって、いったん脱いで、着直したはずが訳のわからない状態になってたじゃないか。どうして着直す気になったかも謎だし、それに煙草が吸いたくて、酔った頭じゃ上手く吸えなくて、変なところに入って咳き込みまくって、奴が心配そうな顔してドア開けて入ってきて、俺やっぱこいつのこと好きかも、とか血迷って、それで。
何か、呟いたような気がする。
俺は詳しく自分の行動を思い出せぬまま、うそ寒い恐怖と後悔に血が沸騰する思いだった。
奴が仕掛けてきたのは、その後じゃないか。俺は、何を云った?
また一部始終が全身の五感に一瞬でよみがえる。唇、舌、唾液、息遣い、毛先、首筋、手の平、爪、腰に擦り付けられた、硬さ。
ぞっ、とした。
馬鹿みたいな話だが、俺は当たり前のように「そんなの」は初めてだったのだ。
これまで何十何年生きてきて、尻の谷間に男の硬いモンを擦り付けられたことも、前の中心を骨のしっかりした手に握られたこともない。
何かを「されて」感じる、何かを「されて」感じ「させられる」なんて体験は、俺にとってあまりにも現実味が薄過ぎた。
だから今まではっきりと考えたことはなかったが、だが俺はまさに今さっき、そういう状況に陥りかけたんじゃないのか?
そしてあいつを、あの野郎を好きでいるというのは、「そういうこと」を受け入れるってことじゃないのか?
俺、ホモになるのか?
逆の立場もあるということを思いつけなかった時点で完全に負けているのだが、俺は、何を今更とつっこまれそうな事実にやっと直面した。
動きを止めた洗濯機のカチッという音で、催眠術から覚めたようにのろのろ動き始めた俺には、何を身につける気力もなかった。
ホモになるのは、なんだか嫌だ――。
新しいシーツだけ一枚出して、それをひっかぶりベッドへ倒れこむ。
本当に、あいつのこと好きでいるのやめたいな。決心して好きじゃなくなるとか、できるもんなんだろうか。
うつらうつらと考えながら、やってきた睡魔に勝つことはできず、俺はそのまま眠ってしまった。それで結局、貴重な有給の半日以上は無駄にしたのである。
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